みなさん、こんにちは。
今回は、新約聖書で見つけた、
「自己言及のパラドックス」っぽいものについて書いていきます。
「自己言及のパラドックス」って何?
Wikipediaによれば、
「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのこと
だそうです。
これだと分かりづらいかもしれないので、図示してみました。
簡単に言えば、「収拾がつかなくなるような言葉」なわけですね。
新約聖書での、そのような部分とは?
それは、ヨハネによる福音書14章24節の二文目、
『あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。』
です。
単純に考えれば、「『父のもの』なんだね」となるかもしれません。
しかし、そうすると、この言葉自体が『父のもの』ということで
『父』が「(この)言葉はわたしのものではない」と言っていることになってしまいます。
文字通り読めば、発言者(?)が自ら発した言葉について、
自分が発言したことを否定していることになって
ここから、「自己言及のパラドックス」に似てるなと思ったのです。
ここをうやむやにせず、適切に考えると以下のようになります。
発言者である『父なる神』は、生まれない御方であって、彼には別の「父」はおらず、
『父なる神』は、発言に関してのみ、代弁者としての『子なる神』を演じている。
と。それで、話はズレますが、究極的には、
新約聖書において、『子なる神』であるイエス・キリストは、自ら言葉を以て発することは全くなかった。
ということになるでしょう。
以上です。またね!!