1936年、イギリスがこの地域を支配していたとき、アラブの反乱が勃発した。イギリスはアラブの反乱の原因を調査するため、ピール委員会を設置した。その結論は、ユダヤ人とアラブ人の双方がこの地域の支配を望んでいるというものだった。その結果、この地域にアラブ人とユダヤ人の2つの独立国家を設立することが提案され、面積の80%をアラブ人に、15%をユダヤ人に与えることになった。ユダヤ人はこれを受け入れ、アラブ人は拒否した。

アラブ人は、ユダヤ人の国家をそこに樹立することを否定したのだ。

以降ナチスドイツのユダヤ人迫害の影響でパレスチナへの移民が急増、またイギリスの政策への反発から1936年~1939年アラブの反乱がおきる。イギリスは1939年マクドナルド白書を発表し、反乱を鎮圧する一方でアラブ側の不満に対応しつつ、アラブ諸国との関係を重視してユダヤ移民の制限を検討。また10年以内にアラブ人とユダヤ人が共同で統治する独立国家の樹立を目指したが、ユダヤ人の土地購入を制限したためユダヤ人の反発を生みアラブ側も満足しなかった。これによりユダヤ人国家建設への国際的支持は減退したが、大戦後ホロコーストの影響で再び国際世論は変化し1947年の国連分割案へとつながる。イギリスは大戦後国の疲弊もありパレスチナ問題の解決に意欲を失い、国連にこの問題を委ねることにした。

1947年、国連はパレスチナ特別委員会を設置し、現地調査の後分割案を提案。決議181号を採択し、この地域にイスラエルとパレスチナを建国し、イスラエルが土地の55%、パレスチナが44%、国際管理地域(エルサレムとベツレヘム周辺)が1%の分割割り当てを決定した。人口の割合は、ユダヤ人約60万人、アラブ人約130万人合計約190万人であったが少数派のユダヤ国家により広い領土が割り当てられたことでアラブ側に強い反発を招いた。これをユダヤ人は受け入れ、アラブ人は再び拒否した。(2度目の拒否)

イスラエルは1948年5月14日に建国を宣言。イスラエル建国の翌日、第一次中東戦争が始まる。1948年5月15日にエジプト、ヨルダン、シリア、イラク、レバノンなどのアラブ諸国がイスラエルに侵攻。イスラエルは直ちに軍を編成、1949年に初頭にかけて争いは本格化するが軍事的にはイスラエルが優勢となり、領土を拡大。1949年2月24日エジプトとの停戦協議を皮切りに、7月20日にかけてレバノン、ヨルダン、シリアと順次個別に停戦協議を締結。これは正式な和平条約ではなく単なる休戦協定(アームスティス協定)であるが、結果エルサレムは西側をイスラエル、東側をヨルダンが支配する事となり、この協定によって設定された境界線がいわゆる「グリーンライン」で、1967年の第三次中東戦争まで、イスラエルの事実上の国境として機能した。結局イスラエルは国連分割案より広い領土(約78%)を確保する事となった。

 

第2次中東戦争(スエズ危機とも呼ばれる)は、1956年10月29日〜11月7日にかけて発生した短期間の戦争で、主にイスラエル・イギリス・フランス vs エジプトの対立が中心であった。1956年7月、エジプトの大統領ガマール・アブドゥル=ナセル(為せば成る、為さねばならぬ何事も、ナセルはアラブの大統領という言い回しがこの頃流行った)が、スエズ運河を国有化すると宣言。スエズ運河は、イギリスとフランスにとって重要な海上交通路であり、経済的・戦略的に大きな打撃。エジプトはイスラエルに対して敵対的で、ティラン海峡を封鎖し、イスラエルの紅海への航路を遮断。 

また、パレスチナ難民キャンプからのゲリラ攻撃(フェダイーン)も頻発。 イギリス・フランス・イスラエルは、エジプトに対する軍事行動を秘密裏に協議。 計画の概要はまずイスラエルがシナイ半島に侵攻英仏が「停戦」を名目に介入スエズ運河を掌握するという内容である。 10月29日イスラエルがシナイ半島に侵攻、10月31日イギリス・フランスが空爆を開始、11月5日英仏軍がスエズ運河地帯に上陸、ここでアメリカとソ連が強く反発し、国連を通じて即時停戦と撤退を要求。11月6日国連の圧力とアメリカ・ソ連の介入により、停戦が成立。英仏は国際的な非難と経済的圧力(特にアメリカから)を受けて停戦に同意し、国連総会は緊急軍(UNEF)の設置(カナダが提案)を決定して第2次中東戦争は10日間で終結した。

その後英仏は国際的孤立を避けるため軍を撤退、イスラエルも国連の監視下でシナイ半島から撤退した。結果、英仏軍は得るものがなかったが、イスラエルはティラン海峡の通航権を確保した。ティラン海峡はシナイ半島とサウディアラビアの間のアカバ湾から紅海に抜ける海峡で真ん中にあるティラン島の西側エジプト領海は世界的にも有名なダイビングスポットである。

この後も、イスラエルとアラブ諸国の間の緊張は続いていた。1967年5月、エジプトのナセル大統領が突然シナイ半島に軍を展開し、国連平和維持軍を撤退させ、ティラン海峡を封鎖(イスラエルにとって重要な航路)し、3次中東戦争が勃発した。この時エジプト、シリア、ヨルダンは軍事同盟を結び、イスラエル包囲網を形成。これに対し、1967年6月5日イスラエルはエジプト空軍基地を奇襲し、ほぼ壊滅させることで戦争が始まった。戦況は圧倒的な空軍力でイスラエルが優位を確保し、地上戦ではシナイ半島(エジプト領)を制圧、ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸を奪取、シリアからゴラン高原を奪取した。エジプトはシリア・ヨルダンと共にユダヤ国家を地上から抹殺しようとしたが失敗し、結局わずか6日間で、イスラエルは広大な領土を獲得する結果となった。

戦後、イスラエルの議会「クネセト」では、戦争の勝利によって得られた領土(シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原)に関する政治的・法的な議論が活発に行われた。戦争で得た領土を一時的な軍事占領とするか、恒久的にイスラエルに編入するかが議論され、特に東エルサレムについては、1967年6月末にイスラエルへの一方的な併合が決定され、クネセトはこれを法的に承認した。国際社会(特に国連)は、イスラエルの占領地支配を「暫定的なもの」と見なし、国連決議242に基づく撤退を求めた。クネセト内では、「安全保障のために領土保持が必要」とする右派と、「国際的合意に基づく和平を優先すべき」とする左派の間で対立。1967年当時は、労働党系(マパイ)が主導権を握っており、戦争後の領土政策に積極的だった。その後、右派政党(リクードなど)が台頭し、領土保持・入植推進の立場が強化されていった。この頃のクネセトでの議論は、イスラエルの国家戦略と和平政策の方向性を決定づける重要な場となり、現在に至るまで続く領土問題・パレスチナ問題の根源を形作ったと言える。

第3次中東戦争後のイスラエル社会では、ユダヤ人市民の間に複雑で多様な世論が形成された。戦争直後はわずか6日間でアラブ諸国に圧勝したことにより、国民の間には強い誇りと自信が生まれた。特に「エルサレムの統一」や「聖地の奪還」は、宗教的・民族的な感情を刺激し、「神の意志による勝利」と捉える声もあった。占領地を「神に与えられた土地」と見なし、返還に反対する意見が急増し、宗教的ナショナリズムが強まり、占領地への入植活動を支持する市民層が拡大。一方で、知識人や若者を中心に「占領地支配はイスラエルの民主主義を損なう」と懸念する声も出始めた。多くの市民は政府の安全保障政策を支持しつつも、占領地政策には疑問を持つ層も存在し、特に都市部や大学では、「パレスチナ人との共存」や「二国家解決」を模索する議論も見られた。宗教的ユダヤ人は占領地保持を支持、世俗派は和平を模索。ヨーロッパ系ユダヤ人(アシュケナジム)は比較的リベラルな傾向があり、入植地は住宅やインフラが優遇されていたため、生活の安定を求めるセファルディム(中東・北アフリカ系)は入植政策を支持する傾向が強かった。この世論の分裂は、現在に至るまでイスラエルの政治・社会に大きな影響を与え続けている。一般市民の意識については、1973〜1976年の世論調査では、「アラブ側の真の意図はイスラエルの絶滅にある」と考える人が70%以上、1977年の調査では、都市部のユダヤ人の90%が「アラブ諸国はイスラエルを滅ぼそうとしている」と考えていた。結局イスラエルはこの占領地を保持し続け、エジプトとシリアは、この敗北を「国の屈辱」と受け止め、領土奪還を国家的目標としソ連の支援を受けて軍備を再建、イスラエルに奇襲をかけるため、数年間にわたり準備を進めた。

一方アラブ連盟は、1967年8月29日〜9月1日にスーダンの首都ハルツームで会議を開き、第3次中東戦争(6日戦争)直後のアラブ諸国の対応を協議した。この会議では「三つのノー」政策(ハルツーム決議」として知られる声明)を採択した。すなわち、イスラエルとの和平無し(No peace with Israel)、イスラエルの承認無し(No recognition of Israel)、イスラエルとの交渉無し(No negotiations with Israel)を打ち出した。ここでアラブ諸国は、パレスチナ人の権利と土地の回復を支持する姿勢を強調、PLO(パレスチナ解放機構)の活動を支援する方針が確認された。ハルツーム決議は、イスラエルとの和平交渉を拒否するアラブ世界の統一的立場を示したものであり、中東和平の停滞を招く要因となり、後の第4次中東戦争(1973年)や、パレスチナ問題の長期化にも影響を与えた。

アラブ人がユダヤ人を拒否したのはこれが3度目。

 

第4次中東戦争の開始、1973年10月6日(ユダヤ教の祭日「ヨム・キプール」)、エジプト軍はスエズ運河を渡りシナイ半島東部に進攻、イスラエルの防衛線「バルレブ線」を突破した。シリア軍はゴラン高原に大規模攻撃を開始、初期段階でイスラエル軍を後退させた(10月10日~9日、第1段階)。 第2段階ではイスラエル軍が予備役を動員し戦力を回復、ゴラン高原ではシリア軍を押し返し、ダマスカス近郊まで進出。シナイ半島では、エジプト軍の進撃が止まり、戦線が膠着状態となった(10月10日〜10月14日)。この時点で戦局は逆転し、イスラエルが主導権を取り戻す。第3段階(10月15日〜22日)ではイスラエル軍がスエズ運河を渡って西岸に進出し、エジプト第3軍を包囲し、カイロへの進撃も視野に入るが国際社会が停戦を強く要求し始めた。戦局はイスラエル有利に。第4段階は停戦と国連介入(10月22日〜10月25日)、国連安保理決議338により停戦が発効、停戦後も一部で戦闘が続いたが、最終的に戦争は終結。米ソの介入により、全面戦争への拡大は回避された。ゴラン高原は最終的にイスラエルが完全奪還し、シリアは大きな損害を受け、戦争後の和平交渉でゴラン高原返還を要求するも実現せず。1974年米国のキッシンジャー国務長官による「シャトル外交」で第一次シナイ撤退協定(シナイ暫定協定)が発効、エジプトとの合意によりイスラエルはシナイ半島の一部から撤退。1975年第二次シナイ撤退協定でイスラエルがさらにシナイ半島から撤退。エジプトとイスラエルの間で直接交渉の機運が高まる。1977年エジプトのアンワル・サダト大統領がイスラエルを訪問、クネセトで演説し、「和平のために来た」と宣言。この事はアラブ世界に衝撃を与え、アラブ世界でエジプトは孤立するが、ここから和平への道が開かれた。1978年米国のカーター大統領が仲介し、サダト大統領(エジプト)とメナヘム・ベギン首相(イスラエル)が参加しキャンプ・デービッド合意を締結した。これはエジプトとイスラエルの和平への道を開いた歴史的な合意で、アメリカの仲介により成立した。合意内容は、イスラエルはシナイ半島から完全撤退、エジプトはイスラエルを正式に承認し外交関係を樹立、両国は戦争状態を終了し、平和条約を締結すること。またパレスチナに対しては、ヨルダン川西岸とガザ地区に5年間の暫定自治期間を設ける、暫定期間後に、パレスチナの最終的な地位を決定する交渉を開始、但し自治政府の設立は認めるが、国家承認は含まれず。その後1979年3月イスラエルはエジプトと平和条約を締結しシナイ半島を返還。エジプトはアラブ諸国で初めてイスラエルと和平を結び、サダト大統領とベギン首相はノーベル平和賞を受賞した。しかし、パレスチナ問題は未解決のまま残り、アラブ諸国の分裂を招く結果となった。その後も情勢は混迷を深め合意で提案された「西岸・ガザの自治」は実現せず、PLOはキャンプ・デービッド合意を拒否し、武装闘争を継続。1981年にはサダト大統領は和平政策への国内外の反発を受け、軍事パレード中に暗殺される。さらに1987年には第一次インティファーダが発生した。第1次インティファーダ(First Intifada)は、1987年12月から1993年まで続いたパレスチナ人によるイスラエル占領に対する大規模な民衆蜂起である。1967年の第3次中東戦争以来、ヨルダン川西岸とガザ地区は長期間イスラエルの占領下にあり、失業率の上昇、経済格差、イスラエル軍の統治による抑圧等で生活が悪化。さらにキャンプ・デービッド合意後もパレスチナ問題は未解決で、自治権の実現も無く政治の停滞が続き、国外拠点中心のPLOに対し現地住民の不満が高まっていた。発端は1987年12月、ガザ地区でイスラエル軍車両とパレスチナ人労働者の交通事故で4人が死亡、これを契機にガザや西岸で抗議デモ・暴動が拡大した。石投げ、ストライキ、デモなどの非武装抵抗を中心に地元のパレスチナ人組織(統一国民指導部)が主導、結果1988年、PLOがインティファーダを支持し、パレスチナ国家樹立を宣言した。世界の注目がパレスチナ問題に集まり、イスラエルへの批判が高まって米国や国際社会が和平交渉を促進する動きへとつながり、1993年、オスロ合意によりインティファーダは事実上終結、パレスチナ自治政府の設立が合意され和平プロセスが開始した。この合意は、米国のビル・クリントン大統領の仲介により、イスラエルのイツハク・ラビン首相とPLOのヤーセル・アラファト議長の間でなされた。イスラエルはPLOをパレスチナ人の代表として承認し、PLOはイスラエルの存在を認め武装闘争を放棄、またパレスチナはヨルダン川西岸とガザ地区で暫定自治政府を設立し、教育、保健、警察などの行政権を段階的に移譲することした。ラビン首相とアラファト議長はノーベル平和賞を受賞。しかしながら核心問題は未解決のまま、イスラエル入植地の拡大、過激派のテロ、相互不信で和平は停滞 、失業率の上昇、移動制限、生活条件の悪化がパレスチナ社会に深刻な影響を与え続けた。2000年7月、クリントン大統領はキャンプデービットにイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長を招いて再び中東和平交渉を仲介したが、アラファトは言葉を濁したため「クリントン・パラメーター」(ヨルダン川西岸地区の97%とガザ地区全域をパレスチナ国家として認める)は実現しなかった。クリントンは、残り半年の任期中に交渉を結実させようと15日間に渡り徹夜で両者を説得したが、バラク、アラファト双方の溝は最後まで埋まらず、中東和平交渉は決裂した。アラブの4度目の拒否

 

この年9月には2次インティファーダが発生。イスラエル野党指導者シャロンが、突然イスラム教の聖地「ハラム・アルシャリーフ(神殿の丘)」を訪問。パレスチナ側はこれを「挑発」と受け止め、抗議デモが発生、イスラエル警察との衝突で死傷者が出たことから、暴動が急速に拡大。第1次インティファーダと異なり、武装闘争が中心(銃撃、爆弾、テロ攻撃)で、イスラエル軍も戦車・戦闘機を投入し、衝突は激化。約5年間続き、死者はパレスチナ側約3,000人、イスラエル側約1,000人、これにより和平プロセスは事実上崩壊、7月のキャンプ・デービッド会談の失敗と連動し、二国家間解決は遠のいた。

2008年、イスラエルのエフード・オルメルト首相が新たに和平案(リアライメント構想)を提示したが最終的に受け入れられなかった。この提案は、ヨルダン川西岸の約93〜94%をパレスチナに割譲し、その代わり一部のイスラエル領(約5〜6%)と交換する形であった。しかし、パレスチナ側には「広さ」よりも「1967年以前の境界線回復」「完全な領土の一体性」の方が重視されており、地図が提示されなかったことで信頼感が薄く、1967年境界の回復という原則的立場に固執するパレスチナは受容しなかった。ブッシュ政権の国務長官コンディリーザ・ライスは、この提案に前向きで、「オルメルトは(パレスチナ側に)5.8%までの譲歩も視野に入れている」と述べ、交渉への誠意を評価、また東エルサレムの旧市街を含む「聖地エリア(holy basin)」への国際管理を盛り込み、イギリス、ヨルダン、サウジアラビア、アメリカなど複数国の関与を可能とする案に国際社会は支持を表明、メディア・報道機関では国際的にも注目される「画期的かつ全面的な提案」として紹介され、「中東和平における歴史的なチャンス」として報じられた。しかし、前回のアラファト同様、パレスチナの指導者アッバスは地図の不提示を理由にこの提案を拒否した。アラブの5度目の拒否

時期は少しさかのぼるが2005年8月、当時のアリエル・シャロン首相の下で、イスラエルはガザ地区から全てのユダヤ人入植地(21か所)と軍を撤退、約8,000人の入植者が強制退去させられ、ガザ地区はパレスチナ人の完全な支配下に置かれた。これはパレスチナとの交渉によるものではなく、イスラエルの一方的な決定であった。「100%の土地を渡したのに、平和は返ってこなかった」という見方がイスラエル国内では広く共有されており、その後、ガザからのロケット攻撃が増加し、ハマスが2007年にガザを掌握したことで、「撤退はテロを助長した」との批判も強まった。パレスチナ自治政府(PA)は、撤退が協議なしの一方的行動であり、和平プロセスの一部ではなかったと批判、ハマスは「武力抵抗によってイスラエルを撤退させた」と主張し、和平交渉の正当性を否定する材料に使った。欧米諸国は当初、撤退を歓迎し「和平への前進」と評価、しかし、撤退後のガザの封鎖、ハマスの台頭、暴力の激化により、「和平プロセスの枠組みを無視した撤退は逆効果だった」との見方も広がった。結局「協議なき撤退は和平に結びつかない」という教訓を残した。

これ以降も和平への努力は続けられており、イスラエルでは平和共存を望む国民も増えてきてはいるが、イスラエルはハマスからだけではなく、周辺のヒズボラ、フーシ等からも継続的にテロ攻撃を受け続けている。

 

そんな中2023年10月7日、ガザ地区のハマスがロケットや地上侵入などを含む多面的な攻撃を実施。これにより、約1,200人のイスラエル人(軍人・民間人含む)が殺害され、250人以上が人質として拉致された。10月8日、イスラエル政府はハマスに対する戦争を宣言(パレスチナ・イスラエル戦争)し、即座に空爆を開始。10月9日にはガザ地区全域を封鎖し、食料・燃料・電力の供給を停止した 。10月12日、北部住民110万人に南部への避難を命じ、10月27日から地上侵攻(大規模地上攻撃)が開始された。11月15日、イスラエル軍はガザ最大のアル=シファ病院を包囲し、これをHQ(ハマス司令部)として使用していると主張。数週間後、北ガザの病院が次々機能停止に追い込まれた。11月下旬には7日間の人道的停戦が合意され、人質交換や人道支援が行われたが、12月1日には戦闘が再開された。2024年1月26日、国際司法裁判所(ICJ)はイスラエルに対し、ラファなどでの攻撃停止を命じ、ジェノサイド行為のリスクを指摘した。2024年12月以降、カーンユニス南部へ地上侵攻が展開。2025年初頭にも新たな空爆・地上作戦が実施された。2025年1月から3月にかけ、限定的な停戦が実現。人質の一部が順次解放され、一部地域で戦闘が緩和した。長期にわたる死闘と国際圧力を経て、2025年10月に包括停戦が成立。最後の人質が解放され、しきい線(“yellow line”)に沿ってイスラエル軍が撤退し、人道支援開始が確認された。現在はこの状態。

ガザ地区では10月7日以降、推定78,000人以上が死亡(68,800人以上が確認済)。 イスラエルでも1,600人以上が死亡、200人超が行方不明・人質に。ICJ(国際司法裁判所)やICC(国際刑事裁判所)によるイスラエル・ハマス双方に対する調査・勧告。ICJは人道法違反の可能性を指摘、ICCは長官による逮捕状も発出。この戦争は単なる短期の軍事紛争ではなく、大量殺害・人道被害・国際法的争い・地域的広がりを伴う構造的混乱であり、依然として和解の道のりは険しい。

ガザ住民の心理調査によれば、圧倒的な被害の記憶が残り、「イスラエルに対する根強い抵抗感」「和解への心理的障壁」が顕著である。 一方、イスラエル国内でも和平支持派は少数派となり、強硬姿勢継続を求める声が多数である。

パレスチナ人はこれまで何度となく国を作る機会があったにもかかわらず、パレスチナ人内部の権力争いに終始し、統一国家の建設を放置してきた。これまでの和平交渉の過程を見てみると、イスラエル側の譲歩に対し交渉を受け入れることなく、内部の抗争相手との関係で強硬姿勢を崩さず(1967年以前の領土に固執)すべて拒否し続けてきた。

 

これほど強固に固執する理由は何なのであろうか。

1988年のハマース憲章ではパレスチナは以下のように規定されている。

「パレスチナの地はイスラーム・ワクフ(聖域)」(ワクフとは寄進行為)
「パレスチナの地はイスラーム・ワクフであり、終末の日までイスラム教徒のために留保されている。誰もそれを放棄したり、所有権を放棄したりしてはならない」。     ジハード(聖戦)義務の根拠
「ムスリムの土地が奪われた日、ジハードはすべてのムスリムにとって個人的義務となる」とされ、土地の奪還が宗教的義務として規定されている。            「平和イニシアティブ、和平案、国際会議はイスラム抵抗運動の原則に反する。パレスチナ問題の唯一の解決策はジハードである」と明言。                 ハマースは、イスラエル国家の存在を完全に否定し、「ユダヤ人との共存は不可能」と明言している。                                  イスラエルの存在を「イスラムの聖地に対する侵略」と位置づけ、宗教的・政治的に排除すべき対象としている。

2017年に改定された憲章では、                         イスラエル国家の否定は維持しつつも、「ユダヤ人そのものに対する敵意はない」と明記。                                     「ハマースの闘争はユダヤ人に対するものではなく、シオニズムと占領に対するものである」と述べている。                               1967年の境界線に基づくパレスチナ国家の樹立を「暫定的な解決」として容認する姿勢も示唆。

ハマースの学校教育におけるユダヤ人の扱い                    「ユダヤ人は嘘つきで策略家」
ある宗教教育用教材では、ユダヤ人が「嘘つきや策略家」として描かれている。また、イスラエル国家を「植民地的存在」と見なす記述が含まれている。           学校の教材では、イスラエルという国自体が存在しないかのように地図が描かれ、現実の国境や存在を「消去」している。                         「石とナイフで抵抗を」
小学校では歌や詩を通じ、ハマースのスローガン「石とナイフ」でイスラエルに抵抗するよう教えられる。ロケット攻撃などを「英雄的行為」や「聖戦(ジハード)」と喝采する教材も含まれている。                              殉教やジハード礼賛
「殉教行為」や「ジハード」はイスラムの最高の義務であり、天国への道とされ、教師もそれを繰り返し強調している。                          否定的なステレオタイプの強化
ユダヤ人は「裏切り者」「経済を操る」などの否定的ステレオタイプで描かれ、「陰謀犯」として不信を煽る記述が目立つ。                       歴史教育における偏向
歴史や数学の資料でも、「ハイファは嘆く」「ユダヤ人が地球を支配する」などといった反ユダヤ的暗喩が散見される。                          

ハマース運営または影響下にあるガザ地区の学校教育は、「ユダヤ人との共存」を支持するものではなく、むしろ反ユダヤ的メッセージと暴力的抵抗を奨励する内容が強調されている。これが長期的にパレスチナ社会の和平合意形成に対する障害の原因の一つと考えられる。