2017/12/17 18:00の回を鑑賞。初のユーロライブ。気に入りました。

久しぶりに自分の中に眠る「表現欲求」というものに向き合えた作品でした。


終わってから後ろのお客様が「ストーリー全然わかんなかった」と仰っていたけれど、私も同じくはっきりとはわかっていなくて、けれど断片をつなぎ合わせてこういうことだろうなあ、というものはあるのだけれども、それは感情と同じく不確かなものだからあえて文章化する必要もないと思っています。


このブログで誰誰と誰がどうなってこうなって、と語る事はたやすいのだけれども、この作品はそもそもストーリーを明確に伝える事を望んでいない風に思えます。

だから台詞も少なく、シーン繋ぎも複雑にすべてメタファー的な要素で構成されているのを見ると、ストーリーを正確に理解する必要性はまったくなくて、ただそこにこういう人とこういう家族がいて、それを見て自分がどう思うかというところに私は焦点をあてて鑑賞していました。


映像は一見意味がなさそうなものから美しいアート的なものまで存在していて、おそらく意味のないものは存在しないのだろうけど、意味を慮るのは難しいものもある。そこは除外しちゃってよくて、自分にわかる意味のあるものだけを繋いでいくと、なんかその人だけの物語が出来上がっていくような気がして、お客さん一人一人が観ている世界、感じ方が違うんだろうなあ、とか他の人の存在も考えつつ。



私は「血と光」を見てから打越梨子さんのファンになって、今回も彼女を観る目的で鑑賞したんだけれど、梨子さんの存在の不思議さ、ファンタジーさが際立っていてアーティスティックでファンとしてとても満足。


私的解釈で話すと彼女はこの世に存在しないもので、おそらく「お父さん」だけが見えている何かのメタファーなのだろうけど、それが何かは私にもわからないままでした。けれどそのわからなさが、梨子さんの全身を使った舞を意味深にして、彼女の持つ独特の存在感が岩の前で際立っていて、言葉にならない気持ちになりました。


好きな女優さんがスクリーンの中でアート的に描かれるという優越感はたまりません。


私は虫が嫌いでとにかく足のカクカクしたのが無理で、今回大画面で鮮明にたくさん映っていました。そのたびに「わあ気持ち悪いなあ」と思って嫌な気分になるんだけれど、それは嘘偽りのない本当の自分。


けれどその虫のドアップに興奮する人もいれば美しいと目を凝らして観る人も会場の中にはいたのかもしれない。そこで私とその人の感情はまったく真逆に振れていて、その真逆の感情から次のシーンへ移行したときの見え方はまた全然違うと思います。


この映画はそういう内なる自分を楽しむものであって、だからこそ説明的な筋書きも押しつけがましい台詞も必要なくていいのだと、私がひとりで焼き肉をつつきながら考えた表現欲求の答えです。


最後、舞台挨拶で若い女性監督が「解りやすい作品にはしたくなかった」とおっしゃっていたと主演の方が語っていたけれど、私はそれを聞いて久しぶりに感動したというか、忘れかけていた表現欲求に火がついたというか、逆に私は歌詞を書く人間として「わかりやすくして当然」だといつから思うようになっていたんだろうと、結局また自分に返ってきちゃった。



遠い昔。20歳の頃、私は一人暮らしをしたばかりで友達もあまりいなくて(今もあまりいないけど)その頃、レンタルショップで隅っこの方に追いやられて誰も気づかないような、誰も知らないようなタイトルの映画ばかり借りて観ていた事を思い出した。


確かそれもこのような雰囲気のもので、タイトルは全然思い出せないし出演者もわからないけれど、妙にシーンだけが印象に残っていて時々思い出す。それを思い出したときには当時の私の何とも言えない哀愁みたいなものもセットになって返ってくる。


私は「呼び起こされている」。

私が私にとって良い作品だと何かしら判断するときは共感や単純な感動ではなく、「呼び起こされる」ものが基準なのかもしれない。改めてそんな表現について見直すいいきっかけになった映画「蹄」です。


なぜ「蹄」かというのも、実際に映画のなかで文学的な台詞で繋がっていくのだけれど、さして重要なものでもない気がする。ただ私達人間は服を脱いだら、ただの剥き出しの肉体で、それが牛となんら変わりがないということ、なのかもしれない。