西洋音楽史 ロマン派初期 | myu Music&Hobby

西洋音楽史 ロマン派初期

■西洋音楽史 ロマン派初期

世界
● フランス革命(1789~1799)
● ナポレオン1世即位(1804~1814)
● ウィーン会議(1814~1815)


日本
● 本居宣長『古事記伝』(1798) 江戸時代(1603~)
● 伊能忠敬『大日本沿海輿地地図』(1821頃)
● 異国船打払令(1825)


音楽史
● ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》作曲(1797~1798)
● ハイドン《天地創造》初演(1798)
● ベートーヴェンが「ハイリゲンシュタットの遺書」記す(1802)
● ベートーヴェン交響曲第5番《運命》初演(1808)
● シューベルト《糸を紡ぐグレートヒェン》(1814)
● ヴェーバー《魔弾の射手》初演(1821)
● シューベルト 交響曲第7番《未完成》作曲(1822)
● ベートーヴェン 交響曲第9番《合唱付き》初演(1824)


人物
● ゲーテ(1749~1832)
● モーツァルト(1756~1791)
● シラー(1759~1805)
● ナポレオン1世(1769~1821)
● ベートーヴェン(1770~1827)
● ヴェーバー(1786~1826)
● シューベルト(1797~1828)


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■ヴェーバーからヴァーグナーへ ドイツのロマン主義オペラの始まり

●シュヴァルツヴァルトに縁のあったヴェーバー一家

カール・マリア・フォン・ヴェーバーは、ベートーヴェンとシューベルトのほぼ真ん中にあたる1786年に生まれました。

ヴェーバー家は代々、南西ドイツに広がるシュヴァルツヴァルト(黒い森)地方で暮らしていました。

彼の父は彼の誕生日の翌年、巡回歌劇団の主催者になっていました。
ドイツ北部のオイティンで生まれたヴェーバーは、さまざまな地方を巡業しながら、彼自身、6歳で舞台に立っています。

ところで、ヴェーバー家はモーツァルトとも関係がありました。
父の兄の娘で、ヴェーバーの23歳上のいとこにあたるコンスタンツェはモーツァルトの妻。

父は神童モーツァルトのようにカールを育てたいと思っていたようで、巡業の行く先々で、息子を有力な音楽家のもとで学ばせていました。

そして、11歳の時、カールは《愛と酒の力》というジングシュピール(ドイツ語の民衆的な音楽劇)を習作。

13歳で作ったオペラ《森の娘》は、ザクセン地方の市立劇場で上演されました。

このオペラは残念ながら成功しませんでしたが、すでに、後のヴェーバーの「森のロマン主義」を予感させるものでした。



●ドイツ・オペラの金字塔《魔弾の射手》

やがて、当時の有力なオペラ作曲家の弟子となり、その力を認められたヴェーバーは、弱冠17歳で、現在のポーランド南西部にあるヴロツワフの歌劇場の指揮者兼オペラ作曲家になります。

結局、いわれのない中傷によって3年でこの職を辞したヴェーバーは、それから10年以上、プロイセンの首都ベルリンを含むさまざまな地方を転々とします。

1813年からはプラハ市立劇場に籍を置き、指揮者として活躍しますが、彼が落ち着いた生活に入るのは1817年。
ドレスデンの宮廷劇場の音楽監督になってからのことでした。

そして、後のドイツ・オペラの金字塔となる《魔弾の射手》を作曲。

新しい劇場のこけら落としのために作られたこのオペラは悪魔伝説をもとにしていました。

当時は、霊界現象や自然界の神秘など超科学的なものに対する関心がドレスデンなどでも高く、1821年にベルリンで初演されたこのオペラは、翌年ドレスデンでも大成功を収めます。

ドイツの精神とも言われるシュヴァルツヴァルトを舞台に、ドイツ人らしい登場人物が出てくるこのオペラは、民族の誇りともいうべきものでした。

そして、ドレスデンでのヴェーバーの輝かしいオペラの成功を、8歳のリヒャルト・ヴァーグナーは熱い眼差しをもって見つめていました。




カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786~1826)
ヴェーバー
ドイツの作曲家。ドイツのロマン主義音楽の先駆者。
イタリア・オペラに対するドイツ・オペラの普及と向上に力を注ぎ、ドイツのロマン主義オペラを確立。
色彩豊かなオーケストレーションや、総合芸術としてのオペラのあり方など、後のヴァーグナーに大きな影響を与えました。
オペラのほか、ピアノ曲や協奏曲でも有名。



《魔弾の射手》
Der Freischütz Ernst Kozub Arlene Saunders Edith Mathis Hans Sotin Gottlob Frick Hamburg





■「会議は踊る、されど進まず」会議が広めたウィーンのワルツ

●フランス革命からナポレオン戦争

1789年、バスティーユ牢獄の襲撃から始まったフランス革命は、主権が人民にある共和党が宣言されたものの、長続きはしませんでした。

農民や下層市民の支持を受けたジャコバン派が一時は実権を握りますが、独裁的な恐怖政治はクーデターにより、1794年に崩壊。

5人の総裁が行政を担当する総裁政府が立てられますが、依然、政権は不安定なままでした。

このような状況を背景に台頭してきたのが、コルシカ島生まれのナポレオン・ポナパルトでした。

ナポレオンはパリの士官学校を卒業後、革命軍に参加。

1799年には、クーデターを起こして総裁政府を倒します。

統領政府の第一統領として軍事独裁政治を行い、1804年には、自ら戴冠します。

彼に共感していたベートーヴェンは、フランス革命軍の英雄ナポレオンを称えようと、交響曲第3番《英雄》を作曲していましたが、この戴冠の知らせを聞いて、「彼も権力が欲しいだけだったのか!」と怒り狂ったと言われています。

皇帝になったナポレオンは、ヨーロッパ制覇に乗り出します。

神聖ローマ帝国を解体させ、イギリスへの経済封鎖も実現したナポレオンですが、1812年、ロシア遠征に失敗。

その翌年には、プロイセン・ロシア・オーストリア・イギリスの同盟軍に敗れ、その支配は終わりを告げます。

10年におよぶナポレオン戦争の混乱を整理しようと開催されたのが、「ウィーン会議」でした。



●ヨーロッパの列強たちが終結した会議

「会議は踊る、されど進まず」という言葉で知られるウィーン会議は、1814年9月から1815年の6月にかけて行われました。

議長を務めたのは、オーストリア帝国の外相クレメンス・メッテルニヒ。

会議には、オーストリア皇帝フランツ2世をはじめ、プロイセン王国のアレクサンドル1世、イギリスの外相、フランスの外相、そしてローマ教皇領の枢機卿まで参加していました。

各国代表の思惑が複雑に飛び交う中、なかなか会議は進まず、夜の舞踏会ばかりが開催されていました。

結局、ナポレオンがエルバ島を脱出する3月まで、会議は進展しませんでしたが、その脱出の知らせが入るやいなや各国の代表は妥協し始めます。

そして、「ウィーン体制」が始まります。

しかし、この半年以上にわたったウィーン会議を通して、当時、ウィーンで流行していた3拍子のワルツは、ヨーロッパ中に広まっていきました。



ウィーン会議
ウィーン会議







森本眞由美著