TBSラジオ『今晩は、吉永小百合です』でハンセン病で隔離されていた塔和子さんの詩と原爆詩人といわれた峠三吉さんの詩、原民喜さんの詩を紹介していた。
これは、吉永小百合さんが、平和朗読会でいつも始めに朗読される詩だ。
序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
グノーのアベマリアの調べに乗って 朗読されたのは
としとったお母さん
逝(い)ってはいけない
としとったお母さん
このままいってはいけない
風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ
四畳半のがらんどうの部屋
みかん箱の仏壇のまえ
たるんだ皮と筋だけの体をよこたえ
おもすぎるせんべい布団のなかで
終日なにか
呟(つぶや)いているお母さん
うそ寒い日が
西の方、己斐(こい)の山からやって来て
窓硝子にたまったくれがたの埃をうかし
あなたのこめかみの
しろい髪毛をかすかに光らせる
この冬近いあかるみのなか
あなたはまた
かわいい息子と嫁と
孫との乾いた面輪(おもわ)をこちらに向かせ
話しつづけているのではないだろうか
仏壇のいろあせた写真が
かすかにひわって
ほほえんで
きのう会社のひとが
ちょうどあなたの
息子の席があったあたりから
金冠のついた前歯を掘り出したと
もって来た
お嫁さんと坊やとは
なんでも土橋のあたりで
隣組の人たちとみんな全身やけどして
ちかくの天満川(てんまがわ)へ這い降り
つぎつぎ水に流されてしまったそうな
あの照りつけるまいにちを
杖ついたあなたの手をひき
さがし歩いた影のないひろしま
瓦の山をこえ崩れた橋をつたい
西から東、南から北
死人を集めていたという噂の四つ角から
町はずれの寺や学校
ちいさな島の収容所まで
半ばやぶれた負傷者名簿をめくり
呻きつづけるひとたちのあいだを
のぞいてたずね廻り
ほんに七日め
ふときいた山奥の村の病院へむけて
また焼跡をよこぎっていたとき
いままで
頑固なほど気丈だったあなたが
根もとだけになった電柱が
ぶすぶすくすぶっているそばで
急にしゃがみこんだまま
「ああもうええ
もうたくさんじゃ
どうしてわしらあこのような
つらいめにあわにゃぁならんのか」
おいおい声をあげて
泣きだし
灰のなかに傘が倒れて
ちいさな埃がたって
ばかみたいな青い空に
なんにも
なんにもなく
ひと筋しろい煙だけが
ながながとあがっていたが……
若いとき亭主に死なれ
さいほう、洗いはり
よなきうどん屋までして育てたひとり息子
大学を出て胸の病気の五、六年
やっとなおって嫁をもらい
孫をつくって半年め
八月六日のあの朝に
いつものように笑って出かけ
嫁は孫をおんぶして
疎開作業につれ出され
そのまんま
かえってこない
あなたひとりを家にのこして
かえって来なかった三人
ああお母さん
としとったお母さん
このまま逝ってはいけない
焼跡をさがし歩いた疲れからか
のこった毒気にあてられたのか
だるがって
やがて寝ついて
いまはじぶんの呟くことばも
はっきり分らぬお母さん
かなしみならぬあなたの悲しみ
うらみともないあなたの恨みは
あの戦争でみよりをなくした
みんなの人の思いとつながり
二度とこんな目を
人の世におこさせぬちからとなるんだ
その呟き
その涙のあとを
ひからびた肋(あばら)にだけつづりながら
このまま逝ってしまってはいけない
いってしまっては
いけない
原民喜さんの詩も2編
そのうちの絶筆 広島城址近くに石碑を友人達が建て、絶筆の詩が刻まれている。原爆で奪われなかった命を、日本国憲法第9条をもう殺さず殺されずに済むといって喜んだのもつかの間、朝鮮戦争の勃発を悲観して自ら命を絶った。
原民喜 絶筆
遠き日の石に刻み
砂影おち
崩れ墜つ
天地のまなか
一輪の花の幻