書物からの回帰

 [スペイン/マドリード美術館/ゴヤの"裸のマハ"の記念像]

僕の書棚に、日焼けした文庫本があります。この本もそのひとつです。しかし、この本の内容の記憶がほとんどありません。

裏の日付には、S48.10.28とあります。二十代初めの若かりし頃に購入して読んだのでしょう。読もうとした動機は「クロイツェル・ソナタ」というタイトルにあったのです。

クロイツェル・ソナタは、ベートーヴェンが作曲したバイオリンソナタですね。僕の一番大好きなバイオリンソナタです。

オイストラフの弾くクロイツェル・ソナタは最高ですね。

しかし、この本では残念ながら曲がもつ情熱的なイメージでの物語の展開ではなくバイオリニストと奥さんとの関係で旦那が頭にきて奥さんを刃物で殺害したという話の中で、ホームコンサートで取り上げられた曲、それがクロイツェルなのですね。

以下のさわりはこうです。

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その中で主人公ボズドヌイシェフは、「あなたはあの最初のプレストをご存知ですか?ご存知ですね!?」と叫んだ。「ララ!ラララ!・・・恐ろしい曲ですね、あのソナタは。とくにこの部分が。もっとも、一般的にいって、音楽というものはおそろしいものです!いったいあれはなんでしょう?わたしにはわかりませんよ。いったいなにをするものでしょう?またなんのために音楽は、現にしているようなことをするのでしょう?人の話では、音楽は人の魂を高めるような作用をするということです。でたらめです。嘘っぱちです!音楽は作用します、恐ろしい作用をします、----わたしは自分のことを言っているのですよ、------ が、それはけっして、魂を高めも低めもしません。ただ魂をいらいらさせるだけです。音楽は、わたしをして自分を忘れさせ、自分の真の位置を忘れさせます。わたしを駆って何か別の、自分のでない位置へ連れて行きます。わたしは音楽の影響によって、実際には感じないものを感じ、理解していないことを理解し、できないことができるようになります。・・・・」

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このクロイツェル・ソナタを作品名にしたのは、ここから来ているのですが、この主人公ボズドヌイシェフが吐いた言い分は、妻殺しのきっかけとでも言わんばかりですね。

このバイオリンソナタは、ベートーヴェンの傑作中のひとつですね。ピアノとバイオリン奏者間の魂の融合がとても素晴らしいのですが、そうした演奏における二人の強い心の結びつきを夫としてのボズドヌイシェフには暗に許せないというところがあったのかもしれませんね。

作品を読む限り、奥さんはまだ不貞をしてなかったと思えます。ただ、夫のいない間に家に招いて食事をしただけかもしれませんね。

まあ、それが不貞の前兆といえば言えないこともありませんが、音楽を通して二人が仲良くなったのが許せなかったのでしょう。

ここで、この小説の翻訳者中村白葉氏の解説を読むと次のような箇所がありました。

「しかも、白状するがこの作は、はじめて読んだ時 (五十年前、東京外語の学生時代、二十歳のころ) には、私にはよくわからなかった。肉体的にまでぐいぐい迫ってくるような恐ろしい力強さは間違いなく感じたけれど、全体的に生活の経験の浅かった私には、深いことは何ひとつわからなかった。その後十数年以上を経て、二度目この作品に接した時も・・・・・・以下所略、それが、何年か前、年も六十をかぞえる頃になって・・・・」と、述べられています。

この作品を理解するには結婚生活を経験すること、すなわち、女性というものに対して、男が家庭を通した日常生活における妻と向き合うことの難しさを知った時、初めてこの作品の意味するところがわかってきます。 

そして他の女性と妻とを比較して見れるようになってからこの作品が面白く読めてくるもののようです。

この僕も、日に焼けた文庫本の始めのさわりを読み始めたら、面白くて・・・よし、再読しょうという気になりました。若かりし頃は、この最初の出だしから退屈していたのですから大きな人生経験の落差がありますね。

実は、トルストイがこれを書いたのは六十一歳だったようで、翻訳者も、そして、この僕もそんな歳になってようやくそうした内容に理解が得られた感があります。

トルストイの狙いは、別にこの妻殺しが主ではなく、男女間の果てしない課題を語り、そして己の意見を戦わせたかったようですね。

翻訳者の中村氏曰く、性愛を取り上げた作品であるとのことですが、別に肉体的なドロドロした内容の話ではなく、宗教、道徳、慣習、行政、そして社会的秩序すなわち法律など幅広い視野で性と愛がもたらす、男女間の社会的歪、あるいは個々の男女間の歪、そうした矛盾した実態に対して文学的に哲学思考でそれを掘り下げたのです。

それが出来たのもトルストイの家庭生活があってそれが基底となったからでしょう。トルストイの奥さんは世界三大悪妻に仕立てられていますが、やはり、この小説が書けたのも悪妻あってのことだと思いますね。

小説家では、夏目漱石も森鴎外も奥さんには参ったようですが、まあ、結婚してからの妻との付き合い方には難しいものがあるのは事実ですね。

さて、この小説には「 後語 」というトルストイのこの小説に関する所見がついています。

しかし、現在の世代の人がこれらを読んでもピンと来ないかもしれませんね。そもそも今の人はこの小説を読むこと自体ついていけないかもしれません。

現代人の宗教観も変わってきていますし、離婚も日常茶飯事になっていますから、男女間の関係も最終的に法律と金で片付きますからドライになっています。

結婚していても好きな人が出来れば簡単に浮気して離婚する人もめずらしくない世の中です。でも、そうしたことが出来なくて悶々とした人も多くいます。(笑)

色々なケースがあって、夫婦間がとても仲良くても浮気をすることもあるくらいですからまあ人のなせる行為にはいつの時代も制限がありません。

春にスペインを旅行した時、ツアー仲間に一人の未亡人がいましたが、その方は、大恋愛の末、ご主人と結婚され家庭においてもとても仲むつまじくされて、ご主人にとても尽くされたそうです。

ご主人は、肺がんでお亡くなりになったそうですが会社の役員をされていて、海外の出張が多かったようです。

ひょっとすると、仲むつまじかったのもご主人の出張という仕事のせいでお互いにある程度の物理的な距離間があったからかもしれません。

今は、結婚適齢期を過ぎた息子さんとご一緒に暮らされているそうです。今度は、息子さんに尽くされているようです。(笑)

さて、どんなに主人に尽くしたかをしっかり聞かされましたが、その方が、「あなた独身?」と聞いてきたので一人旅だったのでそう思われたのかもしれませんが、少し、むっとなって 「いえ、悪妻が一人います。」なんて言いました。

すると、「あら、奥様のことを悪妻だなんて!」と、笑ったので、今度は僕が、家庭内の悪妻との生活を述べることになりました。

スペインツアーは、VIPバスでの長距離移動が多かったのでバスの中では、ほとんどみなさんお休みされています。

高速道路から見た外の景色は、石ころや木々や緑の少ない痩せた土地ですから退屈です。

それで、悪妻であることの証明を家庭生活における事例をあげて、延々と話していたら。。。急に、その方は、「まあ!あなたの奥さんは悪妻じゃないの!」と、思わず声を上げました。

「だから、僕が最初から僕の妻は悪妻だと言ったでしょう?」と、僕が少し怒って言うと、バスの中では、失笑とくすくすとした笑い声が聞こえてきます。なんのことはない、傍耳を立てて聞かれている方もおられたのです。

話をトルストイのこの本での問いかけに戻しますと、トルストイが言わんとして語ったことと現代の世相とはいささかのギャップがありますが、僕がこうした問題に関心を寄せていることに次のことがあります。

それは、夫婦間の不貞ということに関しては、今の日本の法律では、性交があったという事実、あるいはそうしたことが必然的に考えられる状況証拠があった場合に適用されるようです。

ですから、ただ、手を握ったとかキスをしただけでは適用されません。もちろん、ラブレターや電子メールでの愛の告白だけでもダメです。その文面の内容中に二人が出来てしまった関係が書かれていたら、それは証拠となりますがそうでない愛の告白だけでは適用されません。

つまり、日本の法律で照らすと主人公ボズドヌイシェフは、そうした妻の不貞にあたる事実もそれをうかがわせる証拠すらないのですから、殺人の罪で軽い刑で釈放というわけにはいかないでしょう。

法律は不思議なもので定量、定性的に判別をしょうとします。これは科学と同じですね。現代の法律はやはり科学的な手法のもとで平等を保とうとしています。

愛し合った二人のキスとただの肉欲的な性欲で走った性交とを比べたとき、果たして後者が不貞であって前者はそうでないと言えるのか?という言葉を超えた大きな疑問が生じます。

法律は、精神的な愛を前提として性交を行ったものとして扱っているのでしょう。しかし、「精神的な愛」が無い場合は、不貞とはならないとしたら、今度は「精神的な愛」があったかどうかの立証が難しいですね。

だから、法律はそこを触れていないのでしょう。その代わり、偶発的な浮気では不貞行為には該当しないとした見解もあるようです。つまり、ある程度の継続性があるというのが条件ですね。

こうした法律を通した見解からすれば、日頃、夫婦間が不仲の世の男女は堂々と家庭を出たら他の男女とお付き合いをすればいいのですね。しかし、一線を越えたらダメですね。

でも、恋すると段々深まってついには、別れてでも一緒になりたくなるのは世の常ですね。そうして、一緒になるとまた同じ繰り返しになったりして!(笑)

しかし、たとえそうした純愛であっても第三者がそれを見つけたとき、あそこの奥さんは、あそこのご主人と仲がいいなどとうわさを立てられますね。

そうなると、すぐに道徳的に如何なものか?とか、倫理が無い!ということにもなる。

つまり、世間の目はそれが許せないのか、うらやましいのか?わかりませんが、いらぬおせっかいをするものです。

純愛といっても色々な二人の付き合い方があります。芸術を通した共同作業の中での愛の交換すなわち音楽では合奏、スポーツを通した心の交流、習い事のグループ間でのコミュニケーションを返した愛のメッセージ、仕事とのつながりからの心の助け合い。

はたから見ると気が付かないか?薄々、あの二人仲がいいねぇ~と、表面上そう思われる程度で収まります。

しかし、心の中では二人はとても愛しているとなると、とり残された夫婦のもう一方は、どうなるのでしょう?

そうなれば、遅れずにもう一方の方もそうした外に向かった純愛を求めればいいのですが、なかなか、それが出来ない非社交的な方もおられますね。

しかし、それがたとえ純愛であっても自分の妻、あるいは夫とは違う外の男女を愛するとなると、良心の呵責が自然と発生するものです。

それは何故だろうと考えると、『思いやり』というものが心の中で起きるからでしょう。他の人を愛することで伴侶がそれを知って悲しむとしたらという思いやりが起きると良心の呵責が起きて当然でしょう。

だから、そうした『思いやり』の無い人にとっては、良心の呵責が起きるはずもありません。

人を愛することは『思いやり』の表現でもあるのに、それが為に別な『思いやり』で呵責が発生するとは不思議なものです。

人は純愛であっても一人の人しか愛してはいけないのか?という問いかけも出てきます。

逆に、純愛だからこそ、唯一あなただけ!となるのでしょうか?

映画やテレビドラマでの純愛は、必ず、一対一ですね。一対一だからこそ、視聴者も製作者も純愛だと認めているのです。

つまり一途ということですね。どうして複数ではダメなのでしょうか?

現実として、これが複数を愛している主人公だと脚本が成り立ちませんね。(笑)

「愛」という見地でとらえると愛することは別に人間だけでなくすべてに掛かってきます。但し、自然なものが対象でしょう。SFではロボットに恋をする話もありますが、その前提はロボットにも心があることが想定ですね。

ロボットに心があれば、それはもう人工知能を超えた意識を持った生命体に等しい。だから、これは少しおかしな話になります。

さて、その自然なるものの身近なものとしては、ペットであったり庭の花壇の花であったりするわけです。そして、わが子や親戚の子であったり、年老いた両親であったりするわけですね。

生きている以上、こうした自然のすべてを愛することは何の罪もありませんし、むしろ、自然に対する『思いやり』は善いことですね。

その自然の一部として、男女間も位置しているわけですから、そうした考えでいけば、たまたま、相手が男女同士の『愛』であっても問題は無いはずですが、その『愛』がただならぬ愛に変調していくことが問題となるのですね。

その変調とは、お互いの魂が段々密になってしまうことを指すのでしょう。無数の中からたった二つの愛し合った魂に絞られていく過程で、それが社会的にすなわち、道徳、宗教、法律などにおいて許されるものか?ということになっていくのですね。

飯塚のあの白蓮事件は、愛と社会的制約の結末が駆け落ちということになったようですが、やはり、心をお金や権力、そして法律でも抑えきれない人がいるということですね。そうした人は社会的制約にも屈しない意志が働くからでしょうが、それは愛する力がそうさせているのでしょうか?

普通出来ないことですが、花も犬も人間もほぼ同じ情熱で愛して生きることが理想なのでしょうが、やはり、生身の人間にとっては男女間の愛だけは特別なものになるようです。

それが自然なのでしょう。

by 大藪光政