六月の花




市の図書館倉庫に、漱石の遺作小説、『明暗』が復刻本としてあるのを以前から知っていた。恐らく誰も読んでいないと思われるほど、新しく、折目がついていない。 2001年の11月に発行されたものです。お値段は消費税を入れると約一万円、だのに何故、図書館倉庫にお蔵入りになっているのか?


旧仮名遣いで書かれた本を読むのを嫌がる若者がいるが、私とて旧仮名遣い時代の人間ではないが、抵抗はない。最初に旧仮名遣いにぶつかったのは三島の作品だったと思う。彼は旧仮名遣いにこだわっていたと思う。


それにしても、文豪ともてはやされている漱石の作品を実際に読む若者は稀であろう。漱石の作品は今日のように娯楽ばかりのコンテンツがあふれている時代の人間にとっては、内容的に実際退屈極まりないと思う。


しかし、今日の享楽的な世界に住んでいる我々が、いつ深刻な事態にぶち当たることかわからない。それが恋人、友人、夫婦、親子間のいずれにでも起きうる可能性を秘めている。そうした時、人間は意外な脆さを露見する。漱石の小説から何を知るか・・・言い換えると考えさせられるものは何か?ふっと、立ち返ることも大切ではあるまいか。


昨日の夜、和室で一人、この『明暗』の最終あたりを一気に読み込んでいたら、襖の戸がすっと開いて、「親父、まだ起きていたのか!」と息子が声を掛けた。柱時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。息子は、院試の為、大学で試験勉強をしての帰りだった。


「うむ・・・あとちょっと」と言って、息子のあきれた顔を見て、また本に向かった。もともと、良い子は早く寝て、早起きするものだ。とはいつもの口癖で、自身、特に仕事が不出来でない限り、十時には床につく。おまけに、昼寝もするから、家では怠け者として公認されている。


性格的に、やりだしたら止まらないタイプであるから、あと少しで漱石、最後の小説が終わるとなると・・・やめられない、とまらない・・・といった調子で、読み終えた時は時計が一時を指して午前様になっていた。


さて久し振りに、このブログ 『書物からの回帰』 に投稿するに当たって、前回のショウペンハウエルさんの後遺症が残っていて、書くときには、すでに書くべくことが頭のなかに出来上がっている・・・書きながら考えているようでは、駄目。といった怖い忠告で、弱ってしまいますが、まあ~頭より、手がひとりでに鍵盤の上を動くようにキーボード上をすべってくれると期待して進めます。


ショルテイ(愛犬)と散歩を重ねながら、漱石の、『明暗』を創作する意図は何であったか?を特に色々思考してみました。でも、結論は本人が死んでいますから出ません。


漱石は、この小説を書き終わることなく四十九歳の若さで亡くなっています。しかし、『明暗』を読めばわかるように、とても所帯じみた漱石の若年寄的な雰囲気を感じ取ります。それは、今と昔の生活者において同歳でもかなり相違があるということでしょう。


小説には、マクロ的な展開とミクロ的な展開がありますが、この、『明暗』は、後者でしょう。ストーリーとしては、他愛の無い、良人と妻の関係から両親、妹、友人、仲人、そして最後の元付き合っていた女性と発展しますが登場人物は数少ない構成です。


そして、舞台にしてもありふれた家庭と病院・・・そして最後の療養の旅館といったところで、とても映画化しても売れることはない質素な構成です。


家庭という社会構成の核とも言うべき実在は、夫婦間の存在から始まりますが、その夫婦とは他人同士です。厳密に言えば、遠戚かも知れないし、まったくの赤の他人かもしれないわけです。


そうした夫婦間における意志の疎通は、一般的には一番ありそうですが、そうでもないのがこの世の常です。この、『明暗』も、そうした主人公である良人の津田と、妻、延子が言い合う会話を聞けばそれが話のネタになっているのがわかります。


作家は、登場人物に己の考えや経験を代弁させて語るのが常です。そうしてみますと、漱石自身も奥さんとの意志の疎通には苦労があったと思われます。いや、何処の家庭でも、うまくいっているつもりで、そうでないのが表立って出てこないだけでしょう。


そして、『道草』の時は、義父が主人公にお金の無心をしますが、『明暗』では主人公が親にお金を無心しているから漱石も人が悪い。家庭円満とは、経済的なゆとりがなければ実現しない。それは実は家庭だけでなくお金の出入りで常に人は争う。そして、人間の本質が浮かび上がってはまた沈む。


その人間の本質を漱石は自身の小説でもって描き出そうとしているのか?その意図はわからない。しかし、こうした極小の人間関係『身近な人々』でもって動きの少ない小説を展開させる意図は、やはり人間の隠された・・・いや見えているが気付いていないその本性を・・・これだと言わしめんための作業に他ならないと思うのだが、どうでしょうか?


最近、クソラテスは、悪妻とこんな会話をしました。


「あなた、ご心配掛けましたが・・・お母さん、手術はしなくて済みました。」と妻が言う。


「あっそう。でも心配なんかしてなかったよ。」と呟く。


「そうでしょうね。あなたのことだから。」と妻が言い返す。


そこで、想うことしきり・・・。


第一、私の母が入院した時、妻の君は心の底から心配した?


第二、君の母や父はもう八十過ぎ・・・孫の顔見る事ができ、毎日することが無くて、耳も遠くなって、生きているのがつまらない、ああ死にたい、死にたいと君の父はのたまう。そのくせ、酒の飲み過ぎに注意し、健康に注意して少しでも具合が悪いと病院に行って精密検査をしたがるし、病気を恐れる。言っていることとやっていることがあべこべだ。死にたければ、早く不治の病にかかって死ぬべし。


僕の父は若干、五十五歳の時、癌で亡くなった。苦しんで亡くなった。孫どころか四人の息子嫁をまったく見ることなく亡くなった。最後は、病院の病床で、「すまんが、外を最後に見たいので起こしてくれ・・・」と言ってなんの変哲も無い、ごく普通の町並みを見て亡くなった。家族全員での旅行は、亡くなる前の一度が初めてで最後だった。今の時代は、暇と休日さえあれば何処へでも家族で旅行に出掛ける時代。君の父母も何度もあちこち行って充分楽しんだはず。


第三に、入院するのは私でなく、君のお母さん。僕ではない。手術するときも僕ではない。以前、僕が入院した時は、家族と上の兄以外は誰にも教えなかった。君の両親にも。そして、もし、あるとき自分が入院して生死を掛けた手術をするときは、家族のみ知られることになり、私はその手術に対して心配はしない。


言い換えると死ぬことに心配はない。しかし、私がいなくなる事で家族が経済的に苦しむことになれば、それは心配になる。しかし、その心配も私が生きている間だけだ。だから、それに比べると君の父母は、もう心配することが無いのだ。そういう幸せな立場の人が手術をするからといって私が媚びるように何で心配する必要があるのだろう。


そんなことを思い浮かべましたが、こんなことを云えば、きっと妻から「あなたは薄情な人ですね」と言われかねない。だから、通常は良人として心配顔をして「良かったなあ~手術をしなくて良かったって!」と喜んであげれば妻も安堵し、めでたし、めでたしなのだが、最近そんな心にも無いことを言うのが窮屈になってきた。


しかし、常識では心にも無いことではなく、人の幸せを素直に喜んであげるべきなのかもしれない。フィロソフィーをやっていると・・・こうも皮肉れてしまうのか?と言われてしまいそうだ。そして物事を突き詰めて考えることが人間にとってよいことであるのか?といった疑問も湧く。


そうしてみると、漱石も可哀想な人だとつくづく想う。この長編小説を新聞に連載し続けたのだが、漱石自身はこの小説を書くに当たって、すでに作品がまとまっていたのか?もし、そうでなければショウペンハウエル先生からは、莫迦にされるし、毎回、原稿に追われてしんどい日々を送る羽目になる。ひょっとすると、やはり出たとこ勝負で、畢竟そのストレスが彼の病魔としてあらわれたのではなかろうか?


確かに、漱石は文筆家としてはすこぶる腕がいい。比喩もうまいし、装飾文も最高だ。文章に格調がある。そして、この、『明暗』は、『草枕』と違って気取っていない。自然体で書いている。


なのに、引っ掛かるところがある。それは小説の進行というか、行き先がどうも不明なのだ。この小説は、主人公にお金で困ることがなければ、最初から筋書きが成り立たない。そんなことを言ってしまえば作家は皆、莫迦を言えと怒るだろう。作家の立場は常にそうだ。


この小説は果たして文豪の作品として称えることが出来るだろうか?福田恆存は、川端康成の小説を子供の文学と揶揄した。そうして比較すると、漱石の文学はまぎれもなく大人の文学だ。だのに、どうもつまらないと感じる。何故だろう。この、『明暗』は、復刻本として七百四十五ページにもわたって書かれてあるが、その長文にしては中身が無い。後半になってようやく、昔の恋人である清子の登場で津田と清子とのやりとりが気になるところぐらいである。


この、『明暗』を読んでいて、次の展開シーンが読者の方から事前に察しできるのもつまらないと感じるところである。平凡な意図的な展開ほど退屈なものは無い。もし、漱石が哲学思考を、小説と云う一つの実験的表現手法で、人間の本質をあぶりだす為に、良人と妻の深層や昔の恋人との心の読み具合を通して描こうとしたのなら、それは窮屈と言わなければならない。


また、漱石は登場人物によって色々な口論を延々として良人の立場、妻の立場そして友人小林の立場と次々に登場人物による立場の違いを浮き立たせて、人の本性をスケッチしているが、何のことは無い、それはすべて漱石の立場なのだ。


漱石の非凡さは、そうした退屈で平凡な庶民のなんでもないところから、人間の本性を見出す作業をしようとしているところにある。こんな風に云うと、漱石を下げたり、上げたりになってしまいますが、実に、この若さでそれをなそうとしていますから、やはり作家としては大変な努力です。


話は変わりますが、先程、クソラテスが、「入院するのは私でなく、君のお母さん。僕ではない。手術するときも僕ではない。」と述べましたが、それは個人主義でもなければ、利己主義でもない。もしそうだとしたら、クソラテスは最後に、「私がいなくなる事で家族が経済的に苦しむことになれば、それは心配になる。」と何故言うのだ。


人間の本質は常に矛盾を抱えているといえる。だから、漱石も、私も、そして人は皆矛盾を抱えている。人間は自然の生成物であるが余計なものを持っている。つまり心だ。それも複雑な心だ。だから矛盾を孕む。人間を生んだその自然は冷酷だ。自然災害を見よ!善人悪人の区別なく人を襲いすべてを死に至らせしめる。だからある意味で自然は平等だ。しかし、自然は矛盾を持っていない。あるのは秩序だ。別名『自然の法則』という。


生きると言うことはやっぱり矛盾を抱えて生きるということだから、夫婦間の温度差はあって当たり前、そして『明暗』にあったような夫婦の思惑のずれも当然です。まして友人間、仕事仲間においてであればそれ以上であろう。その矛盾による摩擦熱をどう処理して行くかが、ひとつの処世術かもしれない。


福田恆存が講演でその処世術について面白いことを言っていたが、彼の云わんとしていた事は『処世術』を卑しいことだと思ってはいけないというところであった。若者はそうした言葉を嫌うでしょうが・・・私も嘗てはそうでしたが、やはり生き抜くための智慧なのだと思う。死にたい人には不必要なものかもしれない。


漱石は、ある意味で処世術に長けていたのだけれども、残念ながら病には勝てなかったようだ。その根源は『生真面目』だったからだと思う。『生真面目』と『処世術』が同居した矛盾を漱石はもっていたのだろう。


話はつきませんので、この辺でおしまいにします。


by 大藪光政