小説を読む機会が、殆どない昨今です。それは日々の現実に追われて、小説など読むようなやわらかい心が持てないからでしょうか? 今回、遠藤周作の『深い河』を読む気になったのは、私のもうひとつのブログである『あれこれの木
』に、『遠藤周作という人
』というタイトルで記事を書いたところにあります。それで彼の講演テープを聴いて、読んで見ようという気持ちになったからです。
そして、もうひとつの理由は宗教といったものを理解するに当たって、作家としての遠藤周作を通して宗教の見方が変るのではないか?といった期待があったからです。それと池田晶子さんの宗教を捉える視点とをリンクして色々考えてみたかったからです。
作家にはクリスチャンとして遠藤周作の他に、曽野綾子さんがおられますが、講演テープを聴く限り遠藤周作の方が、キリスト教信者であるにもかかわらず、自問自答を繰り返すことで、西洋的手法のキリスト教に対する不審を抱き続けているところがあり、強い関心を持ったからです。
さて、この小説は少し変っており十三章からなる話の展開があり、ひとりの主人公によって話が展開されるようにはなっていません。小説というより一見、体験談のまとめといった風な構成になっています。しかし、作家が遠藤周作ですから当然、主な登場人物の吐く言葉はすべて遠藤周作の心の葛藤と自問自答です。
遠藤周作は西洋のキリスト教としてのあり方に対する疑念を抱き、東洋の宗教に対する考えまでをこの物語で思考させようとしています。そして遠藤周作は、神を『たまねぎ』という代名詞にして神の存在についての展開を
進めてゆきます。
そして、この小説は中断するかのように、意外な終わり方をしています。それは読者に後はご想像に任せますといった小説とは、少し違います。遠藤周作は信者として、キリスト教を通した宗教としての神が、キリスト教に拘ることなくもっと普遍的な神であることを見出そうとしたところの要因があるのではと思います。
読後感は、この小説とはまた違った発想をもたらしました。
この世界は弁証法的に出来ていますが、すなわち正反としての白黒、有無、生死・・・etc.から止揚して生成されるカオスの世界。これらは言葉としてすべてセットです。白は黒があるから白であると云えるし、有は無があるから有であり、無は有があるから無であると。
こんなことを書けば、無というものがあるということは、それは無ではないという言葉の追求になりますから、そこのところの思考は止めますが、この弁証法的論法で行きますと、神と人間も同じように、表と裏の関係ではないでしょうか?すなわち、神は人間がいての神であるし、人間は神がいての人間であると・・・。
曽野綾子さんは、講演で善人と悪人に対して、神が善人に対して悪人よりも尽くしてくれないのは何故か?という問いに対してそんなことをしたら悪人が神の恩恵を受けようとして偽善的に働くから区別が難しいみたいなことをいっていましたが、それって神の名を借りた人間的思考ですね。神はすべてが見通しでないとは神とは言えませんよね。
そもそも神がいるのならば、最初から善人ばかりを創っておれば何も問題は起きなかったのですよ。でも、善人ばかりの世界では、神の存在価値は無くなりますね。すなわち善人=神となってしまいます。すると今度は、神と悪魔の関係になって、悪魔がいての神であり、神がいての悪魔である。そして止揚として人間というものが生成された!つまり、人間は神と悪魔の申し子であるということになり、人間の心には神の心と悪魔の心が融合しているということになりますね。 ここで人間の心には善悪が存在している証明になりますが、果たしてそういうことでしょうか?
by 大藪光政