8.11. ヒッタイト滅亡後の中国 BC1200-BC1046
トルコでは、鉄器帝国ヒッタイトはBC1300-BC1200絶頂期でした。BC1200- BC1150に突然消滅しました。

中国では、商殷がヒッタイトの鉄器を輸入できなくなり、鉄器の独占輸入による求心力を失いました。求心力を失った殷墟(Yinxu)は、宮廷内での凄惨な公開拷問・虐殺など、恐怖政治です。BC1150-BC1046の100年間は、商殷末期です。支配力を誇示するために、蘭州で斉族による姜族の虐殺、山東の岳石も虐殺します。しかし蘭州の姜族および山東の岳石は、この時代は既に弱小勢力でした。逆効果です。弱い者いじめです。民意を失った商殷は、BC1046に簡単に周に滅ぼされました。そして商の故地(Shang debut land)に封されました。遼西のBC1046-BC700の夏家店上層文化(Upper Xiajiadian culture)です。

 


8.12. ヒッタイト滅亡後の欧州 BC1200-BC950
ヨーロッパも、ヒッタイトの突然の滅亡で、勢力図が激変します。ヒッタイト滅亡と同時期、全てのギリシャ宮殿も破壊され廃墟となりました。宮殿を中心として繁栄してきたミケーネ土器の代表的な器形である鐙型土器(Inverted-Pear-shape Amphora Pottery)は見られなくなります。
ギリシャ宮殿の崩壊後、BC1150-BC1050のミケーネⅢC (MycenaeⅢC)の土器は、統制された宮殿の芸術品であったミケーネⅢBから大きく変わります。タコを極端に誇張したり、独自の器形の土器が現れます。非宮殿の時代です。BC1200-BC1170のエジプトのラムセス3世の記録では、ヒッタイトおよび東地中海の沿岸都市の壊滅の原因は、西地中海の海上交易を握る「船上」の民族だったようです。さらに商人と戦車のヒッタイト王も、オリーブ油の名産地であるシチリア島を認識しており、ライバル視していたようです。また同時期(BC1200-BC1150)に廃墟となったウガリット(Ugarit)の遺跡は、ミケーネⅢBで終焉しています。これよりミケーネⅢCは、BC1150以降の土器であることが確実です。

BC1050頃、ギリシャではロクロを使わない「手製の土器」が現れます。ギリシャの土器は、宮殿崩壊後もミケーネⅢCまで全てロクロを使っていました。新しく現れた「手製の土器」の器形は、北のBC3400-BC3000頃の球状アンフォーラ(Globular Amphora)です。
中欧の青銅器の開始時期に大きな銅山があった中核地域です。次のエルブス山の北麓でMykopが栄えた時代BC2900-BC2600は縄目紋土器(Corded Ware)となり、西欧そしてロシアまで広大な範囲に拡がっています。この縄目紋土器は多分フィン-ウラルです。しかし遠く中国の内モンゴルではBC2900の紅山のy-haplo Nの壊滅を招きます。MykopはBC2600に消滅しますが、Shintashutaのスポーク車輪、戦車チャリオットと変容してステップ全域に拡がります。中欧のチェコ、スロバキア、ハンガリーはSn鉱山のあるBadenと呼ばれる地域です。ドイツとチェコ国境の世界遺産のErgebirge/Krusnohoriに、中欧の主要なSn鉱山がありました。ダニューブ川の北側の青銅器帝国です。
BC1200まではダニューブ川の南岸であるセルビア(SERBIA)は、ギリシャ支配下でした。しかしBC1200-BC1150ギリシャ宮殿は全て崩壊しました。そしてBC1050に、北のGlobular Amphoraが、ダニューブ川南岸のセルビア、そしてマケドニア、ギリシャへと南下したようです。セルビアにはマイナーなSn鉱山が数か所あります。ここで東のトルコに話が飛びます。トルコのCamardi/NigdeのCelaller近くの星印のGoltepe/KestelはSn鉱山跡です。子供の遺骨が多数発掘されています。Sn鉱山跡の坑道は子供しか通れないほど狭く低いです。Snの精錬跡なども残っています。Aryanの支配地域です。また遠く東のIndusではAryanに子供たちが連れていかれたという逸話が残っています。つまりKestelは、遠くパキスタンのIndusから連れて来られた子供のSn鉱石採掘奴隷の鉱山跡です。そして西のセルビア(SERBIA)の星印のSn鉱山に戻ります。セルビアはBC1200までAryan系のギリシャの支配地域でした。Indusの子供のSn鉱石採掘奴隷が居ても不思議ではありません。
現在でもIndus原住民と同じY-haplo Hがセルビア周辺国には相当数います。しかし途中のトルコ・イランさらにインダス川流域にはY-haplo Hは現在ほとんどいません。南インドだけです。
BC1200-BC1150にAryan系のギリシャ宮殿が滅び、セルビアのIndusの子供の奴隷たちは解放されました。さらにBC1050に北方の球状アンフォーラ(Globular Amphora)と中欧Badenのグループが来てくれました。Sn鉱石を精錬して、銅と混ぜて青銅器を作る同じ技術を持っていた。しかし時代は、ヒッタイトが滅び、ヒッタイトが秘匿独占していた鉄器技術が周辺国に拡散し、どの国も鉄器を作ろうとしていた。「時代の流れは急速な鉄器化であり、青銅器技術を持つ中欧BadenとIndusの子供の元奴隷は共に鉄器開発を急いだ。」と想像します。
融点1085℃の銅を熔かす高温炉のノウハウもあります。銅鉱石と錫鉱石を別々に精錬して混ぜ合わせという手順が、原料が鉄鉱石に変わるだけです。ただ鉄の融点は1538℃です。高温炉の温度をさらに上げなければなりません。炉に燃焼用空気を送り込むフイゴも増強したでしょう。さらに耐火炉材も1538℃に耐えるものに代えたでしょう。セルビアは、トルコからはエーゲ海を隔てて少し離れていますから、独自に試行したはずです。この試行中『銅と錫を充分に混ぜ合わせる。』という従来の青銅器製作時のノウハウから"炒鋼"が生まれた。次のような"炒鋼"storyです。

 

"炒鋼" Story (1/4) START:

製鉄の熔鉱炉から出銑した炭素高含有の熔融状態の銑鉄に、棒を挿し込んで、決められた回数だけ棒で煉って、空気を混ぜ込む方法です。シンプルです。化学反応としては、銑鉄中に混ぜ込んだ空気の酸素O2が、銑鉄中の炭素Cを燃焼させて、二酸化炭素CO2で散逸する。処理された銑鉄は、煉る回数により、意図する炭素低含有の鋼(ハガネ,Steel)となる。これが"炒鋼"です。今の転炉の原型です。セルビアのもどtt。彼には「何でも望むものをやろう。」という特別褒賞が出た。Indusの子供の元奴隷の望みは、「家に帰りたい。」だった。BC334アレキサンダー大王に連れられ、マケドニアからIndusへの帰途に出発した。
"炒鋼" Story (1/4) END

 

 

8.13. ヒッタイト滅亡後のアジア

図はBC1200ヒッタイト滅亡後の広域です。トルコの南東部、現在の"Hatay Province"から南のシリアのダマスカスの地域に都市の連合体が現れます。BC1100-BC900の"Syro-Hittite"です。北部はヒッタイトの秘匿していた表面処理技術の"Neo-Hittite"です。"TABAL"と呼ばれます。"Hama"はその交易拠点でした。南部は旧アムル人のダマスカス地域で"Syro"と呼ばれます。ほぼ今のシリア地域です。ダマスカス鋼が有名です。BC2000頃の鍛造隕鉄(Forged Meteoric Iron)はアルタイで製作していました。アルタイは伝統的に鍛造拠点で、中国名では"蘆無" or "芦矢" or "葦名" (Gokturk or Tujue)で登場します。『隕鉄』の最初期、BC2200にビシュリ山に現れた遊牧民アムル人は純粋な『隕鉄』商人でした。
しかしBC1000頃は『人工鉄』の時代に変わっています。インドのウーツ鋼を原料として、アルタイ人の鍛造工人がダマスカスに来て鍛造加工し、鍛造ウーツ鋼(Forged Woots stell)を製作する拠点に変わります。この頃のダマスカスはインドWoots鋼の輸入拠点・鍛造製造拠点・商業拠点を兼ね備えていました。巨大な複合都市です。また鍛造工人のアルタイ人は遊牧民であり戦車とは関係ありません。BC1300頃にエジプトと対戦したHittiteの戦車とは異なり、鉄器重武装歩兵に変わってきています。ずっと後年BC333のアレキサンダー大王遠征に、全滅するまで激しく抵抗したのはこの地域です。旧アムル人から、似ているのですがアラム人です。
この頃に南シベリアのアルタイすぐ北のTyvaで騎馬族が現れています。メソポタミアにも直ぐにAssurとして騎馬族が現れます。鉄器重武装歩兵+騎馬族へと戦術形態が変わってきます。"Syro-Hittite"都市連合は、BC900に鉄器騎馬族のAssurに征服されます。BC625にはBabyloneに征服されます。Babyloneも金属器の技術を持っていました。さらにBC550にはAchemenes Persiaに征服されます。VAN湖東岸にこの頃の製鉄遺跡が多数あります。しかし最終工程で表面だけでも鋼(Steel)へ変換する表面処理技術を持っていた"TABAL"地域の"Neo-Hittite"の『人工鉄』商人が、まだ強い影響力を持っていたようです。