8.9. ヒッタイト古王国時代の中国 BC1600-BC1300
トルコでは、BC1600頃からラバルナ1世(Labarna I)の『人工鉄』のヒッタイト古王国の時代です。『人工鉄』が『隕鉄』を完全に凌駕したようです。ラバルナ1世の次は、BC1550頃、息子ではないハットゥシリⅠ世が継いでいます。ハットゥシリⅠ世は、『隕鉄』商人ピトハナの子孫であると自身で名乗っています。『人工鉄』の始祖ラバルナ1世には息子が沢山いたのですが、『隕鉄』商人が継いでいます。戦争に勝って継いだと自慢する記述はありません。遠い同族と名乗っています。
中国では、③のBC1600頃に殷商の始祖天乙が、②二里頭の夏の暗黒時代を打破します。③偃師商城は、夏末期に、②二里頭と並存しています。実質的な殷商の建国は③二里岡のBC1550の帝"外丙"とされています。

本物の始祖の天乙(Tai-Yi)の居住地はSn鉱山がある雲南省のようです。記録では天乙の都は亳(はく)であり、BC1600-BC1550である③偃師商城と言われています。ただし③偃師商城は②二里頭の末期と並存しています。始祖は天乙(Tai-Yi)で間違いないですが、商殷の初代皇帝は外柄からとする説もあります。③二里崗(Erligang)に変わるのはBC1550からです。一方、遼西の赤峰(Chiefeng)の夏家店下層・上層と殷商の文化が同じことは有名です。西南の雲南省と東北の遼東省です。同族ですが雲南の方が1つ前の世代のようです。天乙と次代の外柄は親子ではなく、遠い同族のようです。トルコの逸話に似ています。

南下して長江北岸の盤龍城(Panlongcheng)が大規模な青銅器工房です。南に銅と錫の原料を求めています。雲南省昆明にも同じ盘龙という地名があります。そして少し南の紅河哈尼族彝族(Hani and Yi tribe)自治区の个旧市(Gejiu)に卡房(Kafang)という大きなSn鉱山があります。BC1600頃に発見されたようです。大きなSn鉱山で今でも枯渇せず採掘されています。Sn鉱脈は南のTailandまで点々と続いています。彝族(Yi tribe)はアルタイ付近から南下して来た遊牧民であると言い伝えがあります。また美人村があることでも有名です。
青銅器製作は、雲南の个旧市(Gejiu)のSn鉱山のSnを、昆明市の交易拠点の盘龙を介して、湖南省の盤龍城にSnを供給していたようです。そして湖南省の商殷の盤龍城で大量の青銅器が生産された。この時代の青銅器は四川省の三星堆でも製作されています。さらに江西省の樟树市(Zhangshu)の吴城(Wucheng)と吉安市(Ji'An)の大洋洲镇(Dayangzhouzhen)でも大量に製作されています。贛江(Gan River)沿いです。四川省と江西省にはSn鉱山は無いですが、どちらも大きなCu鉱山があります。中国の主要なSn鉱山は个旧市(Gejiu)だけです。
ここで一つ注目する点は、洹水(Huanhe)は別名で漳河(Zhang River)と呼ばれます。一方で同じ漢字の"漳"で、中国南部の福建省に漳州(Zhang zhou)という地名があります。九龍江(Jiulong Jiang)という川沿いにあります。中国で唯一現存するMani教の寺院がすぐ北の泉州(Quan zhou)にあります。さらに同じ福建省の少し北の福州市(Fu zhou)はBC2000頃から継続する彩陶の遺跡である曇石山(Tanshishan)があります。闽江(Maing gong)の川沿いです。曇石山の彩陶は双耳が無く海路です。起源のSammaraやUbaidoではチグリス・ユーフラテス川の河川で運搬するので双耳は必要ない。一方、北の蘭州あたりの辛店(Xidian)の彩陶には必ず双耳が有り陸路です。馬・牛の背の両側に吊り下げて運搬します。曇石山の彩陶はメソポタミアから海路で直接です。メソポタミアから見ると日本は漳州のすぐ隣です。日本の横浜の中華街から京急(Keikyu)多摩川を渡河して東京都に入ったところに大田区の"蒲田"があります。福建省の"莆田"(Putian)と同じ地名です。繁体字(traditional)と簡体字(simplified)で違いますが。首都のすぐ隣に、海路で直接上陸するという同じパターンです。
一方、BC1500頃から山東半島・遼東半島に、アフリカ西北部・ヨーロッパ地中海西域のテーブル型(or卓子型)ドルメンが流入しています。遼東半島のテーブル型ドルメンの数から考えると相当数の人数が上陸したと思われます。これが伝説として残っている10個の黒い太陽の逸話だと思います。一方、遼西の赤峰はAltaiとチャリオット戦車軍で陸路です。さらに雲南とは相当隔世の感があります。また黒い太陽の海路で、③洹北商城(HuanBei)へ、雲南の个旧市(Gejiu)のSnを運搬していたと考えられます。

 


8.10. ヒッタイト新王国時代の中国 BC1300-BC1200

トルコでは、同じBC1300頃から『人工鉄』のヒッタイト新王国です。ヒッタイトは、この時代、炭素含有量を減らす退火(Annealing)、表面の炭素含有量を増やす滲碳(Carburizing)の技術を秘匿していました。BC1300- BC1200頃が鉄器帝国ヒッタイトの絶頂期です。BC1285頃のエジプトのラムセス2世の寺院の壁に、交戦したヒッタイトの3人乗りの戦車のレリーフがあります。このヒッタイトの3人乗りの戦車と同じものが、少し後で、中国の戦国時代(BC453-221)の趙(Zhou)で出てきます。

 

中国では、BC1315に盤庚(Pan Geng)が④殷墟(Yinxiu)に遷都しました。この殷墟への遷都時、洹水(Huanhe)の北側の③洹北商城を破壊しています。殷墟は洹水(Huanhe)の南側です。洹水(Huanhe)とは現在の漳河(Zhanghe River)の古称です。しかし現在の河北省と河南省の省境もほぼ漳河です。

 

河南をアルタイ語の一派とされる日本語で読むと"Kanan"です。原題は"Conan the Barbarian"らしいですが"Konan the Great"という映画がありました。ここでは"Yinxiu is the Great"です。トルコ南部地域を意味する"胡南"の日本読みは"Konan"または原題"Conan"です。"Barbarian"は"蛮夷"そして"盤庚"です。日本読みは"Ban-i"です。VAN湖東岸はVAN-E(East)です。VAN湖東岸(VAN-E)そしてトルコ南部"Conan"は、BC1300頃に鉄器製作が最も盛んだった地域です。

 

④殷墟は、従来の③洹北商城を破壊して、青銅器から鉄器へ切り替えたと考えられます。1個の太陽だけ残し、他の9個の黒い太陽を射落とした伝説はこの時でしょう。しかし④殷墟自体には青銅器工房しかありません。つまり殷墟は鉄器輸入専門の商社です。そして鉄器製作地のVAN湖東岸そしてトルコ南部と深いつながりがあった。招待して接待していたかもしれません。

 

前時代にまた商殷のSn交易拠点であった湖南省の盤龍城は、殷墟の時代は大幅に縮小されました。洹北商城(HuanBei)も破壊して殷墟にいます。殷墟への遷都時に争いがあったようです。海路で来た西アフリカの弱え黒い太陽が撃ち落された逸話はこの時だと思います。陸路のVAN-E(East)の鉄器が商殷の実権を握ったと考えます。つまり青銅器を切り捨て、殷墟で陸路で鉄器輸入に全面的に切り替えたようです。四川の三星堆と江西の呉城の青銅器は継続していました。殷墟だけが鉄器輸入を独占していました。しかし青銅器を切り捨て、鉄器輸入に切り替えた殷墟に思わぬ展開が待っていました。