8.2. Catal Hoyuk 崩壊
①BC6100 Catal Hoyukの東丘が消滅します。直後BC6000からHassunaの円筒印章が栄えます。メソポタミアのHasakaと幾何学パターンのSammaraの彩陶(Painted Pottery)も栄えます。少し後BC5500にCatal Hoyuk西丘も消滅すると、黒海の西北域で彩陶の③Cuuteni&Torypolye が栄えます。


 

東の広大な平原のStepから見ると、Carpathian山脈とモルドバ丘陵の間の谷の狭い傾斜地と見えたのでしょう。"狭斜の地"と呼んでいたようです。出土遺骨の骨格は、東のStep似で大柄です。


BC4700に金属器の真鍮(Brass Metal)が現れます。真鍮は銅-亜鉛合金であり、銅器より金属器としての用途が拡がったようです。金銀の装飾品も出てきます。BC4700から彩陶の勢いは少し弱まります。しかし継続します。ところが④BC3700に青銅器(Bronze)が現れると、住居形態が完全に反転していることが、図よりわかります。人類の生活形態が、石器・骨器・木器から、青銅器へと大転換した証拠です。
⑤BC3000に車軸に青銅器を使った Mykop が現れると、住居形態の反転は決定的になります。BC3000-BC2800にMykopは爆発的に発展します。従来ウバイドなどは木工加工の木製の車軸でしたが、Mykopの金属加工の青銅製の車軸は重量物・長距離にも運用可能になりました。限りなく平原の続くステップでは、長距離の馬車は大変有用でした。ステップの圧倒的な支持を得たようです。

 

ただMykopの特徴は、車軸の石製鋳型です。石家です。ゆえに以後の青銅剣の全盛時代にも石剣が常に並存します。当時、石器→青銅器への転換が急速に進んでいました。しかしMykopは石器のお爺さん・お婆さんに人気がありました。Mykopは青銅器の鋳型を作っていますが、実は、古い文化であるCucuteni-Trypolyeの人でした。そしてドニエプル川の西側に限定されていたCucuteni-Trypolyeの東への進出を招き入れました。ずっと後の紀元後に、日本の九州北部の遠賀川に上陸した時も、在地の石包丁製作の立岩遺跡の近くに拠点を築きました。立岩堀田遺跡とも言います。各地の急速な青銅器化・鉄器化の中で、旧態の石器の集落を、「お爺さん・お婆さん」と訪ねながら拡販していきます。翁媪キラー・豹泥棒です。墓石に梵字を刻む仕事も、あるようです。また大規模な集団横穴墓が、新しい強味で、各地に残っています。そしてCucuteni-Trypolyeが難なく通過していきます。

 

BC2900-BC2800、Mykopは爆発的に発展しています。この時に長距離馬車の生産台数も増えて、大衆化したのでしょう。次図のように大人数のCucuteni&Torypolyeが、ついに長距離馬車で、BC2900にヴォルガ河(the Volga)を東へ越えました。そして遠く中国の紅山に現れました。

 

その前のBC3000頃、中国の遼寧省西部(遼西)の牛河梁に碧眼(Blue eyes)の巨大な女神廟が現れます。碧眼はエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国が起源と言われています。Cucuteni-Trypolyeとは異なり、その北側です。Mykopの最初期で、まだ長距離馬車の台数も限られていたと考えられるので、たぶん王族でしょう。


BC2900の大人数の長距離馬車は、途中、通過するだけです。徒歩の遊牧民のように途上の痕跡は残りません。しかし中国の内モンゴル自治区烏蘭察布市察哈爾(Caqar)の集落の家の中で集団の遺骨が発掘されています(Miaozigou and Hamin Mangha)。ホロコーストと話題になりました。原因は伝染病と言われています。その後のBC2900- BC2000の内モンゴルの紅山地域は人が住んでいません。遺跡がありません。この察哈爾(Caqar)の集落は、後ほど出てくる後年BC1900の石家河に龍が現れ、黄帝"啓"が戦車で攻める出来事と関連がありそうです。さらに後年BC260、秦の将軍・白起は戦車の国の趙の将兵四十万人を生き埋めにしたという逸話があります。誇張した数字のようですが確かに長平では多数の集団遺骨が発掘されています。伝染病・生き埋めと、山西省とその北の内モンゴルで事件が続きます。中国の紅山(BC5000-BC2900)は殆んどy-haplo Nでした。しかしBC2900の事件でy-haplo Nは紅山と共に内モンゴルから消えました。北の紅山は彩陶が少ないのですが、南の黄河の仰韶の彩陶とは緊密な関係がありました。南の仰韶は少し後のBC2600に終わりました。しかし黄河流域は空白にならず、仰韶から龍山へ変わりました。黄河流域はBC2900の北の伝染病からのダメージが少なかったようです。しかし黒海のMykopも⑥BC2600に急激に衰退します。

 


8.3. Before BC6100
次図でBC6100の前を見てみます。『農民』の誕生。そして『人工頭蓋変形』と『麦』が同時に現れるという驚きの現象を中心に見てみます。まず中国の古い歴史では、BC25000に北のバイカル湖よりMicrolithが南下して来ます。氷河期の極寒期に東のベーリング海峡から北米大陸へ移動した頃です。BC14000に中国南部よりPotteryが、北のシベリア経路で西へ伝播しています。そして、

 

BC10000に中国南部の湖南省永州市道県の①玉蟾岩(Yuchanyan)で稲栽培が始まります。『農民』の誕生です。シリアのアサド湖(Lake Asad)の湖底の①Abu Hureyra Ⅰの麦栽培が同時期です。Abu Hureyra ⅠはNatufian系です。ここで特記するのは、同じBC10000、少し東のイラク北部①Shanidar Caveに『人工頭蓋変形』が現れていることです。Natufianの石器が出土していることより、Natufian東限のホモサピエンスサピエンスの『人工頭蓋変形』です。「8.4」で後述します。さらに同じBC10000、遠く中国東北部の吉林省大安市の①后套木嘎(Houtaomuga)にも『人工頭蓋変形』が現れます。この吉林省のHoutaomugaでは『人工頭蓋変形』が継続的BC10000-BC3000長期間実施されています。

BC7500から湖南省最北部の②彭頭山(Pengtoushan)で稲栽培です。Syriaの ②Abu Hureyra Ⅱでは大規模な麦栽培です。Turkyの ②Catal Hoyukでも麦栽培が始まります。Catal Hoyukは大きく1万人以上の大集落です。東丘はBC6100まで、西丘はBC5500までです。そして同時期に、再び『人工頭蓋変形』が、少し東の②Ganj Dareh(BC7500-BC6500)そして②Bouqras(BC6500-BC5500)に現れます。偶然ではなく、『麦栽培』と『人工頭蓋変形』は必然的なセットのようです。

 

Catal Hoyuk東丘はBC6100に消滅しました。同じBC6100に、遠く中国の遼寧省西部の来河・牛河に、②'興隆窪(Xinglongwa)と興隆溝(Xinglonggou)が現れます。トルコのCatal Hoyukと同じ「家の床下に遺骨を埋める」珍しい墓制です。Catal Hoyukと同じく「カマド」もあります。近くの興隆溝(Xinglonggou)ではCatal Hoyukと同じ「農業」が確認されています。ここが"衛"の故地です。そして"衛"はCatal Hoyukの遺民と断定できそうです。すぐ北の吉林省の①Houtaomugaでは『人工頭蓋変形』がBC10000-BC3000の期間継続中です。