7. 金海の袋状鉄斧
袋状鉄斧は、朝鮮半島南岸の金海の製鉄遺跡で、製作された直接製鉄法の塊煉鉄の鉄斧です。弥生中期および弥生後期の九州北部では最高級品です。以来尺遺跡では潤沢に10個も出土しています。朝鮮半島からの直接移民であることが分かります。一方、在地系土器の貝元遺跡では、この袋状鉄斧が1個だけ出土しています。

7.1. 経路上の貝元遺跡
芦屋上陸から、以来尺遺跡への経路上の貝元遺跡。この貝元遺跡の1個の鉄斧に注目します。   
[貝元Ⅱ(下)県, p285第311図]

[貝元II(下)県, p296]
“弥生時代の鉄器は,中国産の可鍛鋳鉄(BC5C)に始まって,鋳鉄脱炭鋼(BC3C頃),炒鋼(BC1C頃)などの製品が舶載されている。以上は高温還元の銑鉄原料となるが,他に低温還元の塊煉鉄系のものもある。こちらはBC9C頃からの開発品であり,朝鮮半島経由で列島内に導入された技術である。内容は,鍛造袋状鉄斧でみた材質であり,銹化進行の激しいものである。”

図中左下の1個が、ここで注目する貝元遺跡出土の金海の塊煉鉄の袋状鉄斧です。右側の8個は鋳造の鉄斧です。これら8個は表面だけ脱炭素処理してあります。中国では大火処理と言います。これは戦国鉄斧と言われます。中国の戦国時代に大量生産されました。鉄斧内部が硬すぎて脆く割れやすいです。一方、左上の1個の鉄斧は参考ですが比恵遺跡出土です。完形品で出土しています。おそらく雲南または四川の炒钢(Chaogang)の鋼(Steel)です。現代風に言えば鋳鋼(Cast Steel)の炭素鋼(Carbon Steel)に分類されるかもしれません。そうであれば前漢および後漢の铁官*の管理下にあった製品であり、当時は入手が非常に困難だったはずです。これが比恵遺跡から1個だけ出土していることから、弥生後期の福岡平野のリーダーが比恵遺跡または那珂遺跡に居たという説の裏付けにもなります。
"铁官*"とは、前漢と後漢の直轄の政府部門の1つです。炒钢の鉄鋼製品の製造および流通は、すべて"铁官"の管理下にありました。それゆえ炒钢の鉄鋼製品が日本で発見されることはまれです。炒钢の鉄鋼製品が外国に出るのは、皇帝から他国の国王への贈り物ぐらいです。また鉄刀の銘文中に見られる"百練"と"清剛"の意味は、それぞれ次のようになります。"百練"は、"Melting Kneaded" 製造法で百回練ったという意味で、この製造法は青銅の製造工程に一部似ています。しかし"清剛"は、錫を混ぜる青銅と異なり、混ぜ物なしに銑鉄だけから炭素含有量を調製しただけの鋼(はがね)、炭素鋼であるという材質を表しています。"百練清剛"の4文字では、百炼钢(Bailangang)です。"百練"は、四川省ではなく、山東省の铁官の製品とほぼ同一であるとも言われています。ただ山東省は曹操が皆殺しにしましたから。以下では、この"炒钢, Fining-Chaogang"は全く出てきません。
ここでは以来尺遺跡への経路上の貝元遺跡に注目しています。左下1個の貝元遺跡出土の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧だけを見ていきます。この塊煉鉄の鉄斧は朝鮮半島南岸の金海製です。

金海の王墓の変遷
-AD150:    非騎馬族の木棺墓
AD150-AD300: 非騎馬族木槨墓
AD300初頭-:  騎馬族の木槨墓

 

着目は墓制の転換です。
AD150 木棺墓 → 木槨墓
金海の大成洞古墳の王墓は、AD150から木槨墓に変わった。

 

墓制は種族を表します。金海の中心の遺跡である大成洞古墳の発掘調査より、この墓制の転換の年代AD150は確定しています。AD150-AD183頃の日本の倭国大乱期に、遠賀川河口の芦屋から大人数で上陸した[九州縦貫28 汐井掛AB]は木棺墓の集団墓地です。つまり直前に金海の王族から追い落とされた木棺墓グループです。大人数の汐井掛遺跡ABは、九州北部での芦屋-汐井掛-夜臼-比恵-(貝元)-以来尺遺跡の経路上の大拠点を築きます。

一方、この経路上で貝元だけは在地系土器です。通過するだけの経路上の遺跡である貝元遺跡。この在地系土器の貝元遺跡に1個だけプレゼントして同盟を結んだものとして注目しています。大型建物も1棟です。
出土したのは貝元遺跡のカマドがある92号住居跡です。カマドが福岡平野で盛行したのは古墳後期と確定しています。住居跡自体は無難に古墳後期と記されています。
[貝元I県, p57]
“92号住居跡(第40図、図版37・38)暗褐色土の埋土で北半は調査区外。カマド両袖端に花崗岩立石が深く埋め込まれている。”

しかし、この92号住居跡からは弥生後期の土器と古墳時代の土器が混在して出土しています。
[貝元I県, p57]
カマド内奥部からミニチュア1点(第41図64)出土。出土土器(第41図48-64)は60が口縁折り曲げの韓半島無文土器系か。61・62は弥生中期中葉、56・57は中期末葉、54・55・58・59は後期前-中葉、53は布留古併行期。48-52は5C末前後。他に小型鉄斧(第92図36),鉄斧刃部片らしき不明鉄片(第93図52),石厄丁(第94図25,第8表整理番号91)、太型蛤刃石斧片(第9表60),抉入柱状片刃石斧(第95:47)が出土。”

92号住居跡はカマドがある住居なので、住居跡自体は、最も早くても弥生終末または古墳初頭です。しかし同住居跡から出土した土器を次図下部の48-64に図示しています。土器の形状を見る限り、朝鮮半島系が数点混じっていますが、ほとんどが弥生中期-後期の在地系です。図中61・62は弥生中期中葉、56・57は中期末葉、54・55・58・59は後期前-中葉です。混在している古墳期の土器は、53が布留古併行期で古墳前期、48-52は5C末前後で古墳後期です。

報告書では92号住居跡自体はカマドの最も盛行した5世紀末、つまり古墳後期としています。しかし出土した土器は、弥生中期末葉-弥生後期中葉の土器が半分を占めています。これは、発掘調査時に硬化した貼床が無く、下層の弥生時代の土層の遺物も一緒に採り上げたと仮定します。弥生時代と古墳時代の土器が同時に出土した状況下、注目している1個の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧が出土しました。
[貝元Ⅰ県, p53第41図]

貝元遺跡の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧の出土状況をまとめると次のようになります。①貝元遺跡では、倭国大乱末期だけ、巨大建物「建24」が1棟だけ出現した。②当時としては最高級品の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧が、住居跡「住92」から1個だけ出土した。③塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧と同時に「住92」から出土した土器は、朝鮮半島系が数点混じっているが、ほとんどが在地系である。④これらの土器の時期は、半数が弥生中期末葉-弥生後期中葉の土器である。「住92」自体はカマドのある古墳後期の住居跡であるが、出土した塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧の時期は、倭国大乱期前後の可能性が高い。⑤後ほど「塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧の分析結果」で述べるように、この塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧は、朝鮮半島南東部の金管伽耶で造られたものに間違いない。
これらを考え合わせ、想像の膨らみをさらに増していくと次のようになります。貝元遺跡で1個だけ出土した当時の倭国としては最高級品の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧は、倭国大乱末期、在地系の貝元遺跡と同盟を結ぶ為のプレゼントである。倭国大乱の最終決戦時には、比恵遺跡の大軍が、在地系の貝元遺跡を無難に通過し、そして最前線の以来尺遺跡に集結した。
貝元遺跡の1個の鉄斧だけをあまりにも詳しく見ていくと、今回の主題である以来尺遺跡の7冊もある報告書を消化していくのが大変です。ただ貝元遺跡の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧の分析結果を、もう少しだけ見てみます。

 


貝元遺跡の塊煉鉄の鍛造袋状鉄斧の分析結果
語句説明
最初に語句説明です。元素組成は同じFeですが結晶構造が異なります。炭素含量が0.02%以下のフェライト[ferrite, α-鉄]は、BCC[Body Centered Cubic lattice, 体心立方格子]です。このBCC構造のα-鉄を900℃さらに1200℃へと加熱すると、FCC[Face Centered Cubic lattice, 体心立方格子]オーステナイト[austenite, γ-鉄]へと結晶構造が変わります。(さらに加熱して1400℃以上になると再びBCC構造のδ-鉄[δ-フェライト]になりますが1400℃の高温は今回は出てきません。) 

 

間接製鉄法と直接製鉄法
間接製鉄法は、1200℃以上の高温で完全に熔かして、鉄鉱石(酸化鉄,Fe2O3)を鉄(Fe)へ完全に還元します。一旦完全に熔けた銑鉄にして、固体の鉄を製作する製鉄法なので間接です。しかし1200℃以上の高温ではオーステナイトのFCC構造です。炭素がどんどん銑鉄の中に熔け込みます。高炭素含量です。高炭素含有量は、刃の切味のが鋭いですが、硬すぎて脆いので刃が欠けます。対策として、現在では炒鋼(転炉)により、熔融状態で全体を低炭素化します。しかしここの表面脱炭素処理は、一旦冷却成形固化した鋳鉄を、表面だけ炭素を減らし、表面だけ炭素含量1%前後のハガネ(鋼)に調製します。表面付近はハガネになり粘り気があり硬いので刃が欠けません。ただ表面脱炭素処理の欠点は、内部は硬すぎて脆いままですから、全体が割れて崩壊します。中国の紀元前3世紀の燕の戦国鉄斧が有名です。

 

 間接製鉄法の鋳鉄  (高温,炭素含量:高い)
 ↓ 表面脱炭素処理
 ハガネ(鋼,steel)
 ↑ 表面浸炭処理
 直接製鉄法の塊煉鉄
(低温,炭素含量:低い)

 

直接製鉄法は、900℃ほどの比較的低温で、ほぼ固体の半熔融状態で鉄鉱石を還元します。塊煉鉄です。固体のまま、固体の鉄を製作する製鉄法なので直接です。900℃でのフェライトはBCC構造です。炭素はほとんど熔け込みません。塊煉鉄は低炭素含量です。内部も軟らかいので、戦国鉄斧のように全体が割れることはありません。しかし柔らかすぎて刃が切れません。対策として、表面浸炭処理により表面だけ炭素含有量を増やし、表面だけを炭素含量1%前後のハガネ(鋼)に調製します。表面付近はハガネですから、刃は切味が鋭いです。そして全体が割れません。いいこと尽くめですが、塊煉鉄の欠点は錆びやすいことです。
現在の製鉄法は、世界的には高炉-製鋼が7割、電炉-製鋼が3割です。国によって比率は異なります。全て間接製鉄法です。古の製鉄法には、それぞれ上述した欠点があったのですが克服しています。また現在の製鋼のメイン工程が転炉です。転炉は炒鋼の発展型で、現在は不純物除去もします。

 

古の表面浸炭処理と欠点克服
表面浸炭処理: 低温還元で低炭素含量の塊煉鉄を、炉に入れフイゴ等で空気を圧入すると、表面だけ1200℃ほどになりオーステナイト結晶構造になります。この表面に炭素が熔け込みます。表面だけ高炭素含量になります。これを冷却していくと730℃前後から、表面の高炭素含量領域で、炭素含量約7%Fe3C結晶構造と炭素含量0.02%α-ferrite結晶構造が層状組織になります。これがパーライト(pearlite)です。層状構造ゆえに干渉縞のある真珠(pearl)の光沢があり命名されました。余談ですが、語源は"pearl light"かもしれません。ただ顕微鏡下での各組織の命名法では、一般的に"ferrite","austenite"等のように岩石学由来の接尾語"ite"が付きますので、スペルは"pearlite"になったかもしれません。
[貝元II(下)県,p292]
“浸炭組織(Carburized Structure)…熱処理により鋼材の外周部の炭素含有量を増加させた組織を浸炭組織と呼称する。鉄の表面に炭素を浸透させて表面層だけの炭素量を増加する目的で, 木炭粉などの浸炭剤中にて適当な温度・時間加熱した後, 冷却した操作を経ている。”

不純物の多い塊煉鉄の欠点克服: 鍛造でSiO2など不純物を叩き出します。叩き出されて飛び散った破片を鉄滓と呼びます。発掘調査でこの鉄滓は鍛造の証拠とされます。
さらに表面だけの浸炭処理の欠点克服: 折返し曲げを繰り返して内部も炭素含量1%前後の鋼に調製します。
以上の浸炭処理と欠点克服により、最高級品の袋状鉄斧が出来上がります。ただし唯一の欠点は大量生産に全く向いていないことです。第2次世界大戦後までやっていたのは極東の島国の日本だけです。

顕微鏡写真
低温の塊煉鉄さらに鍛造している
鉄鉱石Fe2O3は鉄の価数は+3です。価数が+2のFeOは少し還元されていますが、Fe還元が充分ではありません。さらに2FeO・SiO2は土砂(酸化ケイ素SiO2)が混じった共晶体です。鉄滓に多く含まれます。このように昔の低温の塊煉鉄ではFe還元が充分でなく、さらに土砂も混じっています。鍛造は半熔融状態の鉄から、これらの土砂を叩き出します。真っ赤な鉄を大きな金槌で叩いている風景です。低温の塊煉鉄、そして鍛造もしていることがわかります。
[貝元II(下)県, p292]
“(3)顕微鏡組織…この鍛造(たんぞう)鉄斧は、第325図の②の鉄中非金属介在物でみられる様に…鋳造鉄斧の介在物に比べて大型で量も多く、組成も鉄かんらん石共晶のファイヤライト(Fayalite:2FeO・SiO2)や鉄酸化物のヴスタイト(Wustite:FeO)であって,低温還元の直接製鉄法にもとずく塊煉鉄由来の産物である。”
[貝元Ⅱ(下)県, 左p312第325図] [貝元Ⅱ(下)県, 右p313第326図]


[貝元II(下)県,p292]
“第326図は,更に刃内側の金属組織である。表面側にパーライト組織の混在領域が観察されて,母材部は炭素含有量が0.1%未満のフェライト単相からなる。①の写真左右方向に黒い点列線がみえるのは,折返し曲げの鍛接線と,展伸状の非金属介在物が存在し,これらから鍛造品と推定される。”


5回ほど折返し曲げされた鍛造品である(上図右)
折返し曲げの鍛接線が写真より5本ほど確認できることより、5回ほど折返し曲げされた鍛造品であることが分かります。50回, 100回もしてないようです。
* 話は跳びますが、ダマスカス鋼も縞模様を呈します。これも鍛造をしているようですが、元の原料はインドのルツボ法のウーツ鋼だと言われています。これは日本の山陰の玉造の玉鋼(たまはがね)の製法に似ています。完全に熔融させた鉄を冷却固化し、内部の玉鋼と言われる部分だけを分割採取して、この玉鋼を原料にして鍛造成形をするものです。この玉鋼の製法は、ウーツ鋼に大変よく似ています。ただし玉鋼の原料は砂鉄です。一方、古来ダマスカス鋼に見られる独特の縞模様は、現在は枯渇したインドの高バナジウム含有鉄鉱石に由来するという説、また隕鉄を折返し曲げを繰り返して鍛造したという説もあります。廃絶した古来ダマスカス鋼の製法は神秘的です。鉄の歴史には色々な製鉄法があったようです。

 

表面だけ浸炭処理している
”表面側にパーライト組織の混在領域が観察され…”より、表面だけ浸炭処理していることがわかります。
 直接製鉄法の低温還元の塊煉鉄は、低温であるがゆえに、炭素含量が充分に鉄成分中に熔け込まないことが欠点です。つまり軟らかすぎる。これを補うのが浸炭処理です。浸炭処理は表面付近にしか炭素は熔け込みませんが、炭素が熔け込んだ表面付近はハガネの切れ味が出ます。炭素が浸透できない内部は、塊煉鉄の特徴である軟らかさが残っています。
一方、間接製鉄法の鋳鉄は、高温であることより炭素含量が鉄成分中に熔け込み過ぎている。つまり硬すぎて脆い。これを補うのが脱炭素処理です。表面だけの脱炭素処理は表面だけしか脱炭素できませんが、脱炭素した表面付近はハガネの切れ味が出ます。脱炭素されない内部は、硬すぎる脆さが残っています。この方法の鋳鉄は、大量生産に向いています。ただ脆くて割れやすいです。中国のBC500-BC300頃の戦国時代の製品であるので、戦国鉄斧と言われます。とにかく大量に生産されています。そして中国の戦国時代末期、中国を統一した秦に滅ぼされた中国北部の燕や斉の遺民と共に、朝鮮半島へも相当数が流入しています。貝元遺跡でもこの鋳鉄鉄斧は8個も出土しています。また割れた鉄破片も小型鉄器として売買されていたようです。割れた鉄破片ですが、酸化鉄の鉄鉱石が既に還元された鉄であることに間違いはありません。各地の村の鍛冶屋で加熱再成形するだけで、小型鉄器として再使用できます。この場合の加熱はそれほど高温は必要なく、クリープ温度以上(700-800℃位)に熱して加鍛すれば、結晶欠陥や歪は残りますが再成形することは可能です。腕のいい鍛冶屋さんは、さらに歪除去や表面の脱炭処理もしてハガネの切れ味を再生することができたかもしれません。あとは砥石で研磨して、小刀や彫刻刀の刃の様に色々な用途に使われています。
* 写真は、きれいに前処理された試料で、せっかくの偏光岩石顕微鏡です。検板のカラー写真であれば、もっと結晶形態などがはっきりと確認できるのですが。モノクロ写真なので粒界の輪郭がはっきり見える程度で残念です。

[貝元II(下)県,p292]
“該品は浸炭処理が施してあるので, 外周側の組織から述べる。
 第324図の①は, マクロ組織写真(第329図の②)右側の黒い浸炭部の拡大組織である。両端の黒色部は,フェライト組織を分散させたパーライト組織を主体とした0.6%炭素含有量の金属組織である。また, 下側左は,ややフェライト組織が増加した約0.5%炭素を含有するフェライトとパーライト組織である。①の中央の金属組織は,フェライト粒界にパーライト組織が生成して, 炭素含有量が0.25%前後に推定される。以上, 第324図は,残存金属鉄浸炭組織としてのとしての高炭域を提示した。”

[貝元Ⅱ(下)県,p311第324図]


[貝元Ⅱ(下)県, p312第325図]

 
[貝元II(下)県,p292]
“第325図の①は,外周部から3.5mm程度内側へ移動した個所での金属組織である。マクロ組織の表層に約1mm深さに黒色を呈する浸炭域が観察されて, ①の拡大組織の⑤より炭素含有量が約0.6%程度のパーライト組織を主体としていることが判る。①の中央から上側の白色の強い領域が母材組織で,炭素含有量0.1%前後のフェライト組織を主体とし,点状にパーライト組織が分散している。このパーライト組織は一部球状化しており, 700°C前後に保定された熱履歴をもち, この間にパーライトが分解・球状化したか,もしくは, もう少し高い温度に加熱された際に,未溶解のパーライトを核として, 冷却中に生成した球状パーライトであろう。これらの金属組織の特徴からも, 本鉄斧は刃の外周部より浸炭処理が施されたことが裏付けられる。なお, ①の組織の中に大きく亀裂が走り, その周辺は,フェライト組織に取り囲まれて局部脱炭が起っている。これは,鉄斧製造中に酸化鉄を伴った割れと, 母材部の炭素が反応した脱炭現象と推定される。”

 

BC1200に滅びたトルコのヒッタイトが秘匿していたのがこれです。鉄器の表面のみ、炭素含有量を調整します。表面の炭素含有量を増やすのが浸炭処理、表面の炭素含有量を減らすのが脱炭素処理です。脱炭素処理は中国では大火処理と呼ばれていました。中国へはBC400頃の春秋時代末に伝来しました。そして中国は壮絶な大乱闘の戦国時代に一気に突入しました。
日本でも後年導入され、日本では『大火の改芯』と呼ばれています。日本は、第2次世界大戦後まで、『大火の改芯』をやっていたことで有名です。

 


7.2. 以来尺遺跡と汐井掛遺跡
以来尺遺跡は弥生後期の住居跡が数百あります。それに伴う土器を見てきましたが多量に出土していました。しかし以来尺遺跡は集落の遺跡で墓地がありません。実は、次のような墓地が近くに在ったそうです。
[以来尺Ⅲ・上,p62]
“以来尺集落の占地する台地の西端部(現在の筑紫938番地周辺)では時期不明の石棺墓群が存在していたらしく、集落と墓地の関係が基山町千塔山遺跡に近いものであったと考えると、倉良遺跡に後続する以来尺集落の墓地であった可能性がある。” 

大字筑紫938番地というのは、というのは、以来尺遺跡から300m程西南です。石棺墓群があったという言い伝えだけです。ずっと昔のことなので、発掘調査もなく、新興住宅として宅地造成されて消滅したようです。完全に削平されて全く何もありません。ただ弥生後期の福岡平野、特に須玖岡本遺跡にみられる甕棺に蓋石を伴う「王墓の上石」という、長崎県や糸島市に多くみられる支石墓系の墓ではないようです。"石棺墓群が存在していたらしく" ということなので、弥生後期に筑紫平野で点在して見られる箱式石棺の可能性が高いようです。対馬島でも相当数が発掘されています。

 

ただ"石棺墓群"として密集した集団墓地は、汐井掛遺跡ABの"石棺墓群と木棺墓群"が似ています。以来尺も木棺墓があったかもしれません。発掘調査ではなく宅地造成では、石棺だけしか認識できなかったかもしれません。以来尺遺跡の土器は、完全に遠賀川式土器系であり、福岡平野で弥生後期に見られる大多数の土器とは異なっています。

 

これより以来尺遺跡の弥生後期後葉の住人は、福岡平野を素通りした、朝鮮半島、特に南東部から、遠賀川河口の芦屋を経由して直接渡来した移住民である。そして朝鮮半島の土器なので、日本国内での土器編年が確定しずらい。ただ福岡平野でも同様の土器は散見されるので、大まかに弥生後期の土器であることは間違いない。

 

宮若市の汐井掛遺跡ABで弥生後期の300以上の大墓地群が発掘されました。芦屋の10kmほど南で、芦屋から以来尺遺跡への途上にあります。以来尺遺跡と全く同じ金海の袋状鉄斧が汐井掛遺跡ABで出土しています。どちらの遺跡も10個前後で潤沢な個数が出土しています。この時代の在地系土器の遺跡では出土しても1個です。

図中「芦屋」に上陸した「九州縦貫28 汐井掛AB」から、「以来尺」への経路を想定しています。50kmほど距離があります。「九州縦貫28 汐井掛AB」は弥生後期の数百もの墓地のみの遺跡です。住居跡は見つかっていません。弥生土器は数点しか出土していません。墓地の副葬土器もありません。弥生後期の墳墓から馬具は見つかっていません。非騎馬族です。しかし次の古墳時代の同じ場所の汐井掛古墳群からは多量の馬具が出土します。朝鮮半島南岸の金海の大成洞遺跡で、新たに現れた騎馬族が、それまでの非騎馬族の木槨墓の王墓を破壊して、馬具が多数副葬された騎馬族の木槨墓を造営するのは、AD300以降からです。それゆえ、九州北部に馬具を伴う騎馬族が本格的に上陸するのも、古墳時代のそれ以降からです。

 

「以来尺」は同時期の弥生中期末葉-弥生後期ですが、「九州縦貫28 汐井掛AB」とは逆に、数百もの住居跡のみの遺跡です。多数の住居跡と大量の弥生土器が出土しています。前述したように、すぐ近くに大墓地群があったようですが、発掘調査が始まるずっと前に消失しています。馬具はありません。以来尺は古墳初頭に廃絶しますので古墳時代はありません。

 

住居跡遺跡が無く副葬土器がほとんど無い墳墓群だけの「九州縦貫28 汐井掛AB」と、墳墓群が無く300もの住居跡と大量の出土土器の「以来尺」、この2つは比べようがないです。しかし両方の遺跡で、鉄器の鍛造袋状鉄斧が多量に出土しています。次図のようにほぼ同じものです。これだけ潤沢な数を持てるのは、AD150から金海の大成洞遺跡を支配した木槨墓グループと思われます。実際に九州に上陸したのは石棺墓と木棺墓のようです。

更に次図のように、ほとんど同じ鉄鏃が出土しています。特に攻撃用の鏃は部族を表します。同じ型式の鏃は必ず同じグループです。弥生後期の「以来尺」と「九州縦貫28 汐井掛AB」、全く同じ鉄鏃と言えます。

左上の左から2番目の鏃は先端が平形です。これはずっと北方の内モンゴル・モンゴル高原の騎馬族に特徴的な鉄鏃です。しかし1個だけです。2世紀末-3世紀前半の日本の弥生後期、朝鮮半島南岸では木槨墓ですが、まだ馬具は見当たらず、非騎馬族の木槨墓です。朝鮮半島南岸に騎馬族が現れるのは、4世紀初頭、中国の西晋が滅んで以降です。