6. 女王時代の長頸壺
以来尺遺跡の出土土器です。図左がここで注目する弥生後期の細頸・長頸壺です。細頸・長頸壺の特徴は、器壁が薄く、球形のロクロ成形です。朝鮮半島からの船載品です。図右上の高杯と図右下の袋状口縁壺を必ず共伴します。袋状口縁壺は弥生後期(特にAD183以降)の遠賀川式土器です。


[以来尺Ⅱ(県), 図版26図版29図版30]
次は以来尺遺跡の北20km、福岡平野のど真ん中の板付環濠遺跡です。板付環濠のすぐ南の板付遺跡G-7abは弥生時代の始まりの遺跡です。最下層に夜臼式土器、上層に彩陶を伴う板付Ⅰ式土器が出土しました。後に遠賀川流域で同じものが大量に発掘され、遠賀川式土器と呼ばれています。芦屋上陸です。板付遺跡F-5a と F-5c は、板付環濠のすぐ北です。
[板付G-7ab, p47]


[板付F-5a, p19]  [板付F-5c, p14]

左図が板付遺跡F-5a、右図が板付遺跡F-5cの出土土器です。左図の右上方3,5-6が長頸壺です。右図上1-4も長頸壺です。以来尺遺跡の長頸壺と同じです。弥生後期の遠賀川式土器である、高杯と袋状口縁壺を共伴していることも、以来尺遺跡と同じです。

 


形態より見た細頸・長頸壺の土器編年
1類
[九州縦貫31(中), p180]
“この時期に特徴的なものとしてまず、細頸・長頸壺がある。・・・この種の土器についてはかつて次のように分類した。最も古い形態として、1類......頭の径が大きく、かつまだ頸がそれほど長くなく、底部はやや大きく平底を呈しているがややしまりがなくなっている。頸・肩の接合部内面は滑らかで稜がつかない。器面は丁寧なヘラ研磨が施されている。この形態の土器は、対馬に若干みられるが、北九州ではまだ出土例は少ない。”

左上1類は最も早期のもので、対馬島(弘法浦遺跡)で出土しているようですが、九州島では出土がありません。

 

2類
左下2類の以降から九州島の北部で出土します。
[九州縦貫31(中), p180]
“2類.....頸は細くて長くなるが、口唇部近くでわずかに内彎する傾向がある。底部は丸底化の傾向が生じているが、未だ平底を呈する。器面は全面にヘラ研磨が施される。頸・肩の接合部内面には稜が認められるが、屈曲の度合はゆるい。”


[九州縦貫31(中), p181]

 

3類と4類
ここから分類を変更しているので少し事情が複雑です。次の文中の3類が、図中では右下の観音鼻遺跡第2号石棺(4類)が4類になっています。
[九州縦貫31(中), p180]  “3類は、頸は細くて長いが、口唇部は内彎せず外に開く。底部は丸底を呈する。器面は全面にヘラ研磨を施こす。頸・肩の接合部内面の稜は明瞭なものとなる。”
図中の3類は、右上の北九州市高島遺跡第2遺構(3類)になっています。分類を変更した経緯が次のように述べられています。
[九州縦貫31(中), p180]   “3類としたものと同様な特徴を示すものに、北九州市高島遺跡第2遺構出土、山口県土井ヶ浜乾燥場北グループ出土のものがあるが、これらと比較すると、3類としたものは胴部がより扁球形を呈し、頸部の外方への開きが強い。高島出土のものについて報告書は「やや上方に広がり気味の直線的立上りをみせ、口縁あたりでわずかに内彎気味がうかがわれる」としている。このことから高島・土井ヶ浜出土の類を2類と3類の間に位置づけられよう。したがって今回上記分類の3類を4類とし、高島・土井ヶ浜例を3類としたい。以上4者の形態的差は時間的前後関係をなすものと考える。”
1-4類の分類は時間的前後関係つまり時代推移・土器編年を表します。ただ次のような記述もあります。
[九州縦貫31(中), p183]  “高島第2遺構出土の細頸・長頸壺は3類に属する。・・・高島第2遺構出土土器は細頸・長頸壺は後出的であるが、全体としては、板付井戸出土の土器とほぼ同型式と考える。”
板付井戸出土とは板付遺跡F-5a井戸のことです。板付遺跡F-5aと板付遺跡F-5cより、長頸壺14類の分類を当てはめてみます。


左図の右上方の長頸壺3,5-6は長頸壺2類です。右図上方で、1-2は長頸壺2類、4は長頸壺3類、3は長頸壺4類です。絶対的な時代編年として、共伴している袋状口縁壺より、九州北部の弥生後期後半弥生終末であることは確実です。長頸壺2-4類はこの時代です。220年-248年頃の非常に短い期間です。あえて言うなら長頸壺2類→3類→4類となるようですが、ほぼ同時代、同型式の土器のようです。

移動経路


図に長頸壺の移動経路を示しました。対馬から遠賀川式土器の「芦屋」に上陸します。長頸壺は遠賀川式土器の袋状口縁壺を必ず伴っています。「芦屋」に上陸した長頸壺は、「汐井掛」を経由して、「板付」さらに「以来尺」へと進出します。一方、少し離れた東の北九州市の「高島」やずっと南の筑後市の「狐塚」でも長頸壺が出土しています。「汐井掛」から南への経路沿い「竹原」ー「王塚」ー「田主丸」ー「八女」には、古墳時代の大規模な装飾古墳が造営されています。
※ 壱岐航路は楽浪土器の短頸が多勢です。女王卑弥呼時代つまり弥生後期、一大国(壱岐)-伊都国が楽浪郡との外交窓口になっていたためです。女王卑弥呼時代の対馬と壱岐航路は全く異なります。
時代背景として、朝鮮半島南東部の製鉄の遺跡である大成洞遺跡の影響大です。AD150以降、支配者層は非騎馬族木槨墓です。これが細頸・長頸壺グループです。ゆえに九州北部の遠賀川式土器の遺跡だけに、豊富な鉄器と長頸壺が出土します。ただ九州北部の芦屋に、実際に上陸した大多数は木棺墓と箱式石棺です。「汐井掛」です。
※ 朝鮮半島南東部ではAD107頃まで奴国の勒島貿易です。AD107頃-150は木棺墓が大成洞遺跡の支配者層です。わずか40年程でその後に記録が無いのですが、AD107に後漢に記録のある倭国王の師升だとしています。

図の狐塚遺跡(筑後市)出土、左上の長頸壺は、長頸の長さが少し短い。図左下の長頸壺も長頸の長さが少し短い。同じ筑後市若菜出土です。前々図の高島第2遺構出土の3類の細頸・長頸壺に形態が近い。細頸・長頸壺は船載品である可能性が高く、筑前と筑後・豊前という出土場所の地域性は言い難い。ただ筑前の高島第2遺構と筑後市の狐塚は、芦屋の勢力範囲から少し離れた場所であるという共通点があります。細頸・長頸壺は、供献土器さらに墳墓の副葬品としての一面もあります。大きな時間的前後関係さらに各グループ系列により、供与が多少異なるとも考えられます。


[狐塚(筑後市), p19p48p73]
AD240以降の弥生終末期、東廻りからの南への進出に重点がおかれました。この頸の短い長頸壺3類はAD240-AD248頃の特殊部隊作戦の頃の型式かもしれません。西の正面の大集落の「以来尺」では出土していません。皆が見ている「以来尺」から「吉野ヶ里」へは表立って攻め込めない。なぜなら「吉野ヶ里」は魏に冊封されているので。「板付」では長頸壺3類は1点出土していますが。
上図右は同じ狐塚遺跡(筑後市)出土の高杯です。右図上方1-3の高杯は、九州北部沿岸部の典型的な弥生後期の高杯です。しかし右図下方5-10の高杯は杯部に大きな丸い膨らみがあります。南の有明海の縄文末期の山ノ寺式土器の影響があるのかもしれません。この高杯の杯部の大きな丸い膨らみは壱岐でも見られます。長崎県の沿岸海域の地域性かもしれません。
次の左図の左下2番目の502の土器です。「胴部が膨らみ」さらに「胴部に2条の刻目突帯紋」がある甕です。「胴部に刻目突帯紋」がある甕は福岡平野付近では珍しいです。福岡平野では「口縁部に刻目突帯紋」があります。「胴部の刻目突帯紋」は朝鮮半島の南東部の慶尚南道に見られます。ゆえに『この以来尺遺跡で出土した「胴部に2条の刻目突帯紋」の甕は、朝鮮半島南東部から芦屋に上陸し、福岡平野は素通りし、以来尺遺跡に直接移住した。』と考えることができます。

左:[以来尺Ⅱ,p125] 右:[神水遣跡II, p58]
図中上側が4層です。左上497は倭国大乱終戦時つまり女王卑弥呼の即位時の183年頃の福岡平野の特徴的な袋状口縁壺です。図中下側は下層である5層です。前時代の倭国大乱期(146-183年頃)と推定できます。右図の左下の土器です。「胴部が膨らみ」さらに「胴部に2条の刻目突帯紋」がある甕です。熊本平野の弥生後期の神水遺跡出土です。口縁部の4個の穿孔は、朝鮮半島の孔列紋土器を連想します。

[神水遣跡II, p56]
図も神水遺跡の出土土器です。注目は左下のⅡ-Y122です。頸部を欠損していますが、長頸壺の胴部です。長頸壺も神水遺跡まで来ています。ただし南からの免田式土器の影響かもしれません。

神水遺跡への経路を示しました。前ブログの長頸壺とほぼ同じ経路です。対馬経由で遠賀川河口の芦屋に上陸します。遠賀川上流・小石原・筑後川上流を南下し、菊池川上流さらに熊本平野まで南下します。そして神水遺跡は、なんと白川南岸まで力強く進出します。

熊本平野の白川は一級河川ですから川幅が大きいです。また勢力的にも境界線になるので、北から白川の南岸へ抜けるには、うまくスルリと抜けるか、兵力で力強く抜けるか、少し大変です。即効です。

 

 涙、涙の物語。
 あの時だけは、大変だった。

という逸話があるかもしれません、