3.3. 井相田D遺跡

福岡空港の南端付近の御笠川の南岸です。福岡外環状道路の工事に伴い発掘調査が実施されました。現在は更に月隈JCTから福岡都市高速環状線も通っています。遺跡は道路の下です。

この井相田Dは1次から3次までの調査が実施されました。1次と3次は湧き水が激しく調査は中断しています。2次だけは正常に調査されていますので、ここで見ていきます。2次調査のⅡ区で弥生時代後期と縄文時代の遺構が確認されています。縄文晩期には、すぐ近くの板付G7aと板付E5・6遺跡が有名です。

[井相田D2次, p22図, Ⅱ区遺構面]

2次調査のⅡ区の遺構第5面で縄文時代の氾濫原と埋没林が確認されています。弥生前期および弥生中期の遺構面はなく、遺構第4面で弥生後期の遺物がまとまって出土しています。以下、井相田Dの縄文時代と弥生時代の遺跡を見ていきます。

2次Ⅱ区の縄文時代
[井相田D2次, p109]
“縄文時代の博多湾における最高海面期はB.P.4700をピークとするが、この最高海面期における福岡平野内陸部への海進による水位の上昇は、河川氾濫が起き易い状況を生み、その結果これら根腐れによる倒木、流された倒木が埋没林を形成したものとみなす事ができる。”


“根株の周辺からは縄文時代前期の土器片が数点出土しており、又、根株、倒木等の放射性炭素14Cによる年代測定によれば、4800士90年前を示していることから、縄文海進を裏付けている可能性は高いと考えられる。”

BC2700頃に縄文海進が最も進み、その時に御笠川の氾濫により埋没したと考えられます。BC1000頃が縄文晩期ですから、縄文中期または縄文後期初頭かもしれません。

2次Ⅱ区の弥生時代後半
[井相田D2次, p93]
“4面より深さ約1.8mの地点より、根株、倒木等を発見したため、トレンチを拡張し、発掘調査を実施することにした。縄文時代の埋没林検出面標高は9.58mで、地表からの深さは約4.8mである。調査面積は126.4㎡である。倒木、根株を合わせて30本を発見した。そのうち3本の倒木には、石斧による切り込みがみられる。”


弥生時代後半の遺構第4面の下1.8mが、縄文時代の遺構第5面です。間に弥生前期と中期の遺構がありません。同じ御笠川の河畔の石勺遺跡および中・寺尾遺跡は、弥生前期から中期に盛行していました。井相田D遺跡だけ弥生前期と中期の遺構が全く無いことは不思議です。

上流の高雄川河畔の野黒坂遺跡は古墳後期に復活します。これは上流部の高雄川の住血吸虫汚染が古墳後期に解消されたことを意味します。

[野黒坂, pp.100-102]
“古墳時代後期(その2)  10類土器 以上,10類土器を出す住居跡は全部で21軒もある。重複するものもあり,すべてが同時存在ではないが,しかしこの時期にこの場所に集落が栄えていたことは間違いなかろう。”


御笠川の上流にある高雄川河畔の野黒坂遺跡でさえ住血吸虫から開放されたのは古墳時代後期です。つまり、井相田D遺跡の弥生後期は、時期尚早であり、まだ危険な住血吸虫汚染された御笠川の河畔です。しかし弥生後期から古墳初頭に井相田D遺跡は確かに盛行しています。

井相田D遺跡は水田の灌漑用水は御笠川からではなく西側の諸岡川の小溝から引いていたようです。また縄文時代の標高9.58mから1.8m上の標高11.3mに井相田Dの弥生後期の遺構がある。この1.8mは御笠川の氾濫による埋没とするには厚過ぎるし、直ぐ西側の板付遺跡の弥生中期末から後期の遺跡は標高9から10mです。1.5m程人為的に盛り土をしたと考えられます。この時に、あったはずの弥生前期から中期中頃の遺構が掘り返されて破壊されたと考えられます。今風に言うと農地の圃場整備です。

つまり弥生後期、御笠川側に人為的に1.5mの土手を形成して隔絶し、灌漑用水は西側の諸岡川の小溝から引いた。このような特別の対策を施したことにより、この井相田D遺跡だけが、弥生後期に御笠川河畔直近で存続できた。他の石勺遺跡や中・寺尾遺跡などでは、全滅するか、または放棄して移動するかで、御笠川河畔直近の土地は活用されていません。

[井相田D2次, p108]
“古墳時代の遺構は、水路と考えられる溝だけであるが、北壁面の土層を観察する限り、この溝は青灰色粘土層より上層から掘り込まれており、同じレベルにおいても水田耕作土が存在することが判明した。”


ところが古墳時代は僅かな痕跡程度しかありません。やはり弥生後期に短期的に生活していましたが、御笠川に近すぎるために無理があったようです。

出土遺物
[井相田D2次, p78]
“SGOl出土遺物(Fig・32-12・13) いずれも弥生時代の高坏である。12は終末期、13は後期である。坏部のみの破片である。12は口径29.0cm、現存高3.0cmを測る。言縁と体部の間は屈曲し、内等する。胎土は精良で、淡茶灰色を呈する。焼成良好である。13は脚部を欠損している。鋤型の口縁部である。丸味を帯びた体部である。内面はヨコ方向のヘラミガキが施され、頸部はタテ方向のヘラナデ調整を施している。内外面丹塗りである。口径24.3cm、現存高6.8cmを測る。胎土は精良で、焼成良好である。弥生時代後期の土器である。”

13の鋤型の口縁部は弥生中期前半頃にも見かけましすが、口縁部のフラットな部分が少し傾斜しています。

[井相田D2次, p74図]

[井相田D2次, p87]
“SGO2出土遺物(Fig.32-14~22) 14~17は縄文土器である。14は口縁端部に刻目を施している。内外面共にヨコ方向の条痕を施している。15・16は外面にタデ方向の条痕、内面ナデ調整を施している。17は、内外面共にヨコ・ナナメ方向に条痕が施されている。18-22は単頸壷の破片である。18・19は壷の口縁部である。いずれも内面に指頭圧痕が残されている。18は、口径15.0cm、現存高4.7cm、19は、口径15.0cm、現存高4.7cmを測る。胎土は精良で茶褐色である。焼成良好である。20は壷の底部片である。平底で、体部は外反して立ち上がる。外面はヘラミガキ調整である。底径5.0cm、現存高4.6cmを測る。胎土は2~3mmの砂粒を含み、茶灰色である。21・22は壷又は、高坏の口縁部片である。21の口縁端部は少し厚みをもつ。大きく外反する口縁部である。”

 

次図の23は、福岡平野の弥生後期の典型的な土器です。壺の口縁部が内弯しています。井相田D遺跡は確かに弥生後期に集落があったようです。

[井相田D2次, p91]
“SGO4出土遺物(Fig.33-23~26) 23~25は弥生時代後期の土器である。23は二重口縁壷である。口縁部は内弯する。屈折部に1条の突帯を持ち、頸部の外面にも1条の突帯がある。体部は球体を呈する。いずれの突帯の端部にも刻み目を持つ。口径21.4cm、現存高17.4cmを測る。”

 

[井相田D2次, p75図]

[井相田D2次, p91]
“24は甕の胴部片である。外面はナデ調整、内面はタテ方向のヘラナデ調整を施している。復原径は8.2cmを測る。胎土に1~3mmの砂粒を含み、焼成良好である。茶褐色で、煤が付着している。25は甕の底部片で、平底を呈する。底径9.7cm、現存高10.0cmを測る。外面は灰色を、内面は黒褐色を呈する。26は短頸の壷である。胴部片である。内面はユビナデ調整で、指頭圧痕が残る。頸部は緩く屈曲し、体部は球体を呈している。”

 

次図は上述の土器の写真です。

[井相田D2次, p77図]



弥生中期後葉に住血吸虫に汚染されたと思われる、福岡市博多区の御笠川の最下流域の河畔の遺跡、那珂君休遺跡、板付(市営住宅)遺跡、井相田D遺跡の3つの遺跡を見てきました。

弥生中期末に断絶した大野城市と異なり、最下流の博多区では弥生後期にも水田稲作を試みた痕跡がありました。最下流は住血吸虫の汚染が顕著に現れるのにタイムラグがあったようです。

個々の遺跡で見ていくと、まず那珂君休遺跡では弥生後期の農耕具がありましたが放棄され再開するのは古墳後期です。板付(市営住宅)遺跡でも弥生後期以降は放棄されています。別格は井相田D遺跡です。井相田D遺跡は弥生後期に水田稲作の証拠があります。ここでは御笠川側に土手を築き隔絶し、反対側から水を引いていたようです。唯一、弥生後期まで粘りました。しかし井相田D遺跡も古墳時代には撤退します。

以上、弥生中期前半から中頃に、御笠川沿いに築いた水田が、弥生中期末(井相田Dだけ弥生後期)に全て放棄されています。同じ福岡平野の那珂川沿いは逆に大繁栄していますので、豪雨による福岡平野の大洪水を原因とするのは当てはまりません。そして1980年代まで続いた宝満川の住血吸虫汚染が、何時始まったかの疑問にも答えなければなりません。全ての原因は住血吸虫です。
 
奴国王は、弥生中期前半から中頃(BC100頃-AD146)に、宝満川と御笠川の護岸工事をして水田を拡げ、約250年間大繁栄した。

宝満川と御笠川の住血吸虫は、AD146頃、突然、現れた。

住血吸虫が、突然現れたので、倭国大乱となった。

 

弥生中期後半(AD146-183)は、ずっと倭国大乱であった。

倭国大乱は、AD183に女王卑弥呼を共立することで終戦した。

AD183-248が弥生後期であり、女王卑弥呼の時代である。

宝満川の住血吸虫汚染は、AD146から1980年代まで続いた。

 

特に、筑後川合流部は住血吸虫の最大汚染地域だった。


引用文献
13. [井相田D2次]
全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19804
井相田D遺跡, 第2次調査, 福岡市埋蔵文化財調査報告書第610集, 福岡市教育委員会, 1999.