漆黒の王子
初野 晴 角川書店 ¥900 (文庫: 2009/09/25)

ある地方都市のマンションで、男女の死体が発見された。遺体は暴力団藍原組組員とその情婦。だが、藍原組では以前から組員が連続不審死を遂げていた。しかも、「ガネーシャ」と名乗る人物から奇妙な脅迫メールが……。一方、街の下に眠る暗渠には、《王子》他6名のホームレスが社会と隔絶して暮らしていた。連続殺人は彼らの仕業なのか? ふたつの世界で謎が交錯する超本格ミステリ。

 上側の世界――ワカケホンセイインコが大量に繁殖した街で繰り広げられる、暴力団の闇の抗争。
藍原組組長代行の紺野と、その片腕として陰で謀略を揮う車椅子の高遠。
彼らの醜悪な暴虐は、周囲に諍いの芽となる怨恨や反感を根深く残してきた。組上層部や他の組織との水面下での確執は絶えず、反目する緊張は極限状態にあった。
そんな折に藍原組を襲う、眠ったまま死に至る奇怪な連続不審死。そして、彼らに届く、”ガネーシャ”と名乗る正体不明の人物からの不可解な脅迫メール。
砂の城の哀れな王に告ぐ。
私の名はガネーシャ。王の側近と騎士達の命を握る者。
要求はひとつ。
彼ら全員の睡眠を私に差し出すこと。

姿の見えないガネーシャの執拗な敵意が、卑劣に弱者を虐げる彼らに襲い掛かる。
紺野と高遠は判然としないガネーシャの動機と思惑に過敏に苛立ち、その当然の仇として、暴力の秩序に則る相応の報復が周囲に残忍にも積み重ねられていく。だが、事件の全貌を暴くことに心血を注ぎながらも、事態は彼らを嘲弄するかのごとく、一向に途絶えることなくその後も組員の死は続いていく。
藍原組は騒然と憤懣に駆られ、本能が渇望する睡眠の恐怖に苛まれ、理解不能な連続不審死に恐慌を来していく。やがて、紺野と高遠は漆黒の運命に導かれるように、非道な抗争へと巻き込まれていった……。

 下側の世界――地下深く掘られた、排水用の暗渠に暮らす者たちの闇の終生。
人目から離れた暗闇に潜まざるを得ない、逃れられない生命の連鎖の最下層に位置する者たち――《王子》《時計師》《ブラシ職人》《楽器職人》《画家》《墓掘り》《坑夫》。そして、《ガネーシャ》と呼ばれる記憶を喪失した女性。
彼らは社会から疎外されるように地下に隔絶された、陽のあたる世界に受け入れられなかった末端の存在だった。彼らは光が遮られた失意の闇に魅せられた、不遇と悲嘆が曇天のように空を覆う数奇な星回りに翻弄される弱者だった。その幸福から見離された生涯は、いつ命脈が尽きるとも誰にも判断が付かなかった。
それでも、暗渠に暮らす者たちは西洋に存在した職業で互いを呼び合い、微かな誇りと尊厳を主張するように、暗黙の秩序を暗闇の中で保ち続けていた。漆黒の《王子》により齎されていたその支配は、生命の摂理を模した幻影に近い平安であるに過ぎないのかもしれなかったが、《ガネーシャ》は彼らの儚い生が矮小ながらも人としての社会を形成する秩序に組み込まれたのだと、次第に共感を覚えるように理解した。
誰もが少なからず被る悲しい現実を堪え忍ぶように暗渠に暮らす彼らの生き様は、やがて《ガネーシャ》の心の闇を埋め、過去の記憶を鮮明に喚び起こす。そして、彼女は星の輝かない漆黒の運命に身を委ねることを決意する……。


著者渾身の作ともいえる「漆黒の王子」は、傑作とも表現できる素晴らしい内容だった。
物語は序章において、悲運のふたりの少年が冷酷な悪意に染まる発端ともいうべき、心に刻み付けられた深い傷跡――その漆黒の闇を背負う悲劇的な生い立ちが告白されるように、寂寞とした追憶から語られる。
彼らの辿る流転の境遇は、まるで原初に決定付けられていたのかとさえ思われるほど、幼少期の辛い記憶を露に遡ることで克明に浮き彫りとなる。それは、未来を暗澹と啓示するかのごとく、負の連鎖から逃れられない不可避な悲運を象徴的に明示していた。

序章以降は上側と下側に区分される、二つの無明な闇の世界が交互に意味深に展開される。
理不尽な暴虐が横行する上側の世界と、悲壮な暗闇に包まれた下側の世界。その虐げられた世界の対比が物語では酷薄に描写される。しかし、その類似性が本質において暗に主張された二層構造は、更に深い思索を読者に要求する本格ミステリとして秀逸に機能している。

本書の要点は、様々な観点から述べられる。
上側の世界では、ガネーシャが画策する巧緻な犯罪の希少な手掛かりから、紺野と高遠(水樹)が事件の全貌を手探りに把握しようと試みる過程が、ミステリ小説として周到に構築されている。だが、本作は悪意と悪意の鬩ぎ合いともいうべき、悪辣な意思が物語から濃厚に漂わされている。その暴力と闇に支配された世界観(ノワール)は、良識的かつ演出的な探偵役の不在という光の欠如を意味している。
上記の設定ゆえに、本作の謎の解明は、名探偵によるミステリ小説としての秩序が予め喪失されている。よって、現実的に徐々に犯行の全容が垣間見えていく展開となるのは致し方なく、終盤におけるカタルシスが若干低く評価されざるを得ない可能性は否定できない。だが、その印象は本作に含まれる謎の多様性を充分に考慮する必要があると考える。

本作の物語を覆う半面は、暗黒童話的な下側の世界により幻想性が色濃く演出されている。
ガネーシャの犯行は単なるミステリ的な側面に止まらず、読者に幾重もの価値観と思考の余地を促す、更なる深い余韻を物語に与えている。その寓意が込められた神秘性が心象に残される物語性は、上と下の世界と同様、加害と被害の相関、支配と従属の関係、過去と現在の因果など、深意が覗く二面性として複雑な様相が内包されている。
また、著者は層構造を意図的に活用し、混迷の謎を縦横に仕掛けている。従来のWho(犯人)、How(犯行)、Why(動機)という主要な犯行要素に加え、Where(場所)、When(時)、What(凶器)など、あらゆる謎の要因を挑戦的に網羅するように、物語に精緻に組み込んでいる。
つまり、本書は著者が物語に欲する童話としての輪郭が、ミステリ小説として相まって作用し合うように見事に体現されている。その事実に留意するように解釈の意識を持つべきだろうし、また、著者の意欲的な姿勢と手腕を高く評価したい。

生の連鎖が奥深い示唆として組み込まれた物語の深遠な構図であり、技巧的な謎の提起・構築を充たす本作は、誇大に超本格ミステリと表現されても何ら問題はないと確信するように納得できる。
物語に込められた著者の真意を汲むように読み解く読者ならば、漆黒の曇天に遮られた光が雲間から射し込むように、この闇の物語が描く生命の連鎖という秩序に恍惚と呑み込まれることになるに違いないと、す、すす、推測する。

漆黒の闇と光のメール



『しかし彼らは失ったものを数えることはせず、残ったものを懸命に数えて生きているような気がした』