競馬、私の最強世代(22) 良血馬、戴冠 | ワイビーのブログ(おもに競馬)

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超良血馬キングヘイローにとって、3歳~4歳の2年間はいばらの道でした。

 

クラシック最有力候補といわれながら、3歳時は1冠どころか1勝も出来ず。短距離路線に舵を切った4歳時は、東京新聞杯と中山記念を連勝したものの、安田記念では11着とダービーに次ぐ2桁着順。秋にはマイルチャンピオンシップ2着にスプリンターズステークスで3着と善戦はしたものの、GⅠを勝つまでには至っていませんでした。

 

スペシャルウィークやセイウンスカイ、エルコンドルパサーにグラスワンダーら同期が華々しい活躍をしているかたわらで、蚊帳の外に置かれた存在となっていた99年夏、キングヘイローの父ダンシングブレーヴがこの世を去りました。

 

凱旋門賞などを勝ち、今もなお1980年代最強馬の呼び声高い名馬。不治の病にかかって、なかば見捨てられた形で日本へやってきてからも、病と闘いながらも、関係者の懸命の努力によって種牡馬を続けました。

 

体調を見ながら途中で種付けを中断したことも多々ありましたが、桜花賞馬キョウエイマーチ、エリザベス女王杯馬エリモシック、また後の話にはなりますが二冠牝馬テイエムオーシャンや繁殖牝馬として多数の重賞勝ち馬を送り出したエリモピクシー等を送り出し、日本の競馬に確かな足跡を残しました。

 

血統的にも、亡くなった偉大な父の後継者として多大な期待を寄せられたキングヘイローは、5歳となった2000年初戦、ダートのフェブラリーステークスに出走しました。

 

キャリアで初めてのダート戦ながら、母グッバイヘイローは北米ダートのGⅠを7勝。その血統からダートの適性を期待されて1番人気に支持されたキングヘイローでしたが、後方から全く伸びることなく11着に敗退。勝ったのは同世代のウイングアローでした。

 

かつての中央競馬は、芝がダメならダートを走るという風潮もありましたが、この頃は地方競馬を含めたダート競馬の体系が確立されつつあり、勝ったウイングアローは3歳の1戦を除き一貫してダート競走を走り続けていたダートのスペシャリストでした。

 

また、2着ゴールドティアラ(後の南部杯勝ち馬)や3着ファストフレンド(後の帝王賞勝ち馬)、4着メイセイオペラ(前年の勝ち馬)と上位に入ったのはダートの猛者ばかり。血統だけでは、すぐに結果を出すのが難しい時代になっていたのです。

 

なすすべなく惨敗してしまったキングヘイロー。陣営に対しては何故ダートに出走させた、という批判の声が上がりましたが、芝に戻した高松宮記念で、ついにその時が訪れました。

 

中団から追走したキングヘイローは直線、外に振られながらも豪快に追い込んできて、スプリンターズSの覇者ブラックホーク、フランスGⅠ馬アグネスワールド、そしてかつてのパートナーであった福永祐一騎手のディヴァインライトが接戦を繰り広げる中、それらをまとめて差しきり優勝。GⅠ挑戦11戦目で栄冠をつかみました。

 

4歳の時から多くのレースで手綱を取った柴田善臣騎手が淡々とインタビューに応えている一方、管理する坂口正則調教師はあふれる涙をハンカチで拭っていました。GⅠを勝つことが宿命づけられた良血馬でありながら、なかなか結果を出せない日々。試行錯誤を繰り返し、結果批判を浴びたこともありました。ようやく、待ちに待ったGⅠ勝利を飾り、これまでの苦労が報われたのです。

 

キングヘイローが歓喜の時を迎えましたが、同じ日、東ではグラスワンダーが大敗するという大波乱が起こりました。