済州島四・三事件

初めに

大東亜戦争終結により日本の併合状態が連合国により解放されましたがアメリカ及びソ連の介入が最初から共産主義化とそれに反発する構造となり朝鮮半島全体が政治的に不安定なものとなっていました。その中で朝鮮半島南方の済州島(チェジュド)で、1948年に反政府闘争が生起しました。

 この闘争の中で多くの住民が闘争側と鎮圧のための政府側により虐殺されました。この闘争が激しくなったことにより避難した多くの住民が日本へ密入国をしました。一般的に「済州島四・三事件」と言われています。実際に日本への密入国者があったことで無関心ではなくこの事件の詳細について日本人も知っておく必要があると考えます。大東亜戦争後に多くの朝鮮人が朝鮮半島に帰れなくなった理由も見えてくると思います。
 

四・三事件

19458月、日本の大東亜戦争敗戦により、朝鮮半島は36年間にわたる日韓併合から解放され日本の一地方ではなくなりました。しかし、朝鮮半島の戦後処理として半島の中央部を南北に分ける北緯38度線を境に、南部には米軍が、北部にはソ連軍が駐留しそれぞれの監視下におかれました。さらに東西冷戦の開始の兆しが見え、朝鮮半島国内での政治路線についての北部と南部の対立と共産主義と資本主義がそれぞれに朝鮮半島全体に影響していました。様々な要因により、朝鮮半島での統一国家の実現は困難に直面していたのです。。19479月に開かれた第2回国連総会において、19483月末までに国連委員会の監視下で朝鮮半島総選挙を行い国会議員の選出を行おうとしました。朝鮮国「国民政府」を樹立することを決議したが、ソ連軍政当局と共産主義の北朝鮮人民委員会は、朝鮮統一のためには駐留軍(米軍)の撤退が先決であるとし、38度線以北へ国連委員会の選挙立会人が立ち入ることを断固拒否しました。この時に既に北部ではソ連軍政下による統治が進んでおり、朝鮮半島全体に共産主義を主導する運動が活発化していました。この時の宣伝スローガンは「地上の楽園」でした。アメリカは、これ以上の朝鮮半島の共産主義化を阻止するためにも南朝鮮だけでも選挙を実施するという内容の決議を国連小委員会でソ連の了解のないまま採択させました(19482月)。このような状況下で選挙が実施されれば、朝鮮半島の分離が固定化されるのは明らかな状況でした。連合軍の司令官であったマッカーサーはこのとき始めて日本が併合までして共産主義の南下を止めていたことを思い知らされたと後に述懐しています。

 南部朝鮮では、19482月初旬にこの国会議員選出のたの選挙に反対する共産主義者による反対運動が各地で行われていました。朝鮮半島内にはいたるところに共産主義の工作員が入り込んでいたのです。済州島でも、同年31日(三・一独立運動記念日)に大規模な選挙反対デモが行われ、所処で散発的に起きていましたが43日未明にはデモが暴徒化して警察署等が襲撃される事態に発展しました。これに対して、デモ鎮圧のために本土から完全武装の国防警備隊、警察隊や青年団組織が送られるようになりました。多数の一般島民と闘争部隊は、同島の漢拏山に旧日本軍が残した武器を集め大東亜戦争末期に作られた塹壕などに立てこもり、断続的にパルチザン的闘争を繰り返していました。闘争が激しかったため済州島では選挙を実施することができませんでしたが、南朝鮮での510日の単独選挙(混乱のため済州島の議員は選出できず、翌年5月に再選挙となりました)により、8月大韓民国(韓国)が成立しました。大韓民国の成立から2か月後の10月には、済州島のパルチザン闘争を鎮圧するために移動を命ぜられた国防警備隊が、南朝鮮労働党の影響を受けて部隊を指揮する隊長自ら命令を拒否し、警備隊内部の反乱も発生しました。国の成立はしたものの韓国政府は内政において南朝鮮全体を掌握はしていませんでした。しかし、政府側は済州島の膠着した状況を打開するため一般島民とパルチザン部隊を分離させ勢力の弱体化を計り鎮圧を試みました。デモ隊の闘争部隊の抵抗がすさまじく鎮圧部隊との激しい戦闘を繰り返す結果となりました。闘争軍は殆どが一般住民と同じような服装で非戦闘員との区別が難しく、このことが長く続く戦闘により住民の多大な犠牲を発生させることとなりました。政府軍側にも青年団組織という一般人の服装で戦闘に加わっていました。翌19495月になりようやく闘争は一応の終息をみましたが共産主義者の隔離までには至りませんでした。住民の犠牲者を多く出した原因は「赤狩り」と呼ばれる共産主義者の選別が苛烈を極めたことでした。パルチザン部隊と鎮圧部隊による住民選別の行き過ぎた行動により無抵抗の住民を虐殺する事態も起きたのです。女性や赤ん坊でも殺す白日テロそのものの惨状が起きました。

 済州島は大きな島ですが、島であるために逃げ場を失った住民が多数犠牲になったのです。

この事件の死者は、少なくとも3万以上、北朝鮮からの脱出者も多く島に来ていたこと(数が不明)と虐殺の隠滅のため地中に埋められてしまったため数万人に及んだともいわれています。現在までも正確な犠牲者の数は判明していません。19506月、朝鮮戦争(1953年7月停戦)が勃発すると、済州島ではふたたび闘争部隊だった者が中心となり島内の各地でパルチザン闘争が活発化し散発的にゲリラ戦が起きました。韓国国軍が北朝鮮軍との戦闘と済州島の鎮圧の2局面の対応が出来なかったため抑止することができなかったのです。このために19549月ころまでの長い期間にわたり散発的に闘争が続きました。この事件は、韓国内では公にされることなくその真相が1980年代まで韓国国民に知らされませんでした。未だに遺骨収集活動が行われています。

事件後の真相解明への動き

この事件後、反共産主義を国是とする韓国においては、済州島四・三事件について「共産主義者による暴動」であると評価され、事件に触れることがタブー視され続けました。国内各地で起こった共産主義者による暴動等の詳細を韓国国民が知ることはできませんでした。反共産主義活動に関係する事実の新聞報道等も政府により規制されていました。

事件後に大統領の不正選挙に対する学生を中心とした抗議行動であった19604月革命(四・一九革命)を契機とする真相糾明運動も成果が期待されたが、翌年の 正煕(パク・チョンヒ)による五・一六軍事クーデター勃発により挫折してしまった。事件後から日も浅かったことからこの時に真相解明ができていたらかなり正確な情報を得ることが出来たと思います。残念なことですが韓国は、この時からしばらくの間軍事政権が続くことになります。済州島出身者が多数居住する日本では、この闘争中に日本へ逃れた多くの住民がいたことと、旧南朝鮮労働党関係者や小説家金石範(キムソクポム)らの努力により、ある程度の事実は日本国内では知ることができたが、本国韓国との関係は国交が正式に結ばれていなかったため韓国側への情報提供が断たれたままであった。そのため他の反共産主義闘争も含め国民に情報が知らされない状態が続きました。

 しかしながら、1980年の再軍事クーデターにより韓国国内に反政府運動が活発になり、1987年の6月抗争(大統領全斗煥(チョン・ドファン)、与党民正党代表委員盧泰愚(ノテウ)合作の「六・二九民主化宣言」を引き出し、金大中(キム・デジュン)らが復権)を契機とする韓国の民主化の進展が進みました。社会的情勢の変化を受けて済州島四・三事件の真相糾明運動の再開を促し、1988年には事件発生40周年を記念して多くの研究成果と文学作品が刊行されるに至りました。

翌年には現地で初めて犠牲者の追悼行事が開催された。また、新聞等による事件の詳細が発表されるに至ったことと、専門研究機関である「済州四・三研究所」が設立されるなど、事件の詳細を知ろうとする動きが一気に高まったとともに、ようやく韓国内に済州島での闘争事件の事実が広く知られることとなりました。
 1993年金泳三(キム・ヨンサム)政権が発足すると、済州島四・三事件における事実の検証と評価の論議が韓国国内及び日本の済州島出身者の間で活発になりました。事件について日本に逃れた島民が多く証言しています。済州道議会には真相調査や名誉回復・慰霊事業のための四・三特別委員会が設置され、国会に四・三特別法の制定と四・三真相糾明特別委員会の設置を求める要求を行いました。

しかしながら国会は委員会の設置をすることを拒みつづけていました。その後も、道議会や道民、済州島選出議員などにより諦めることなく国会に対する請願が繰り返されました。また、道民や有識者らによる独自の済州島における調査活動も盛んになりました。これらの動向には、台湾の国民党政府が「二・二八蜂起」に対する名誉回復と被害補償(犠牲者3万人)を行ったことや、韓国各地で日韓併合から解放直後及び朝鮮戦争期に発生した「良民虐殺事件」の真相解明を求める運動が発生したことが、大きく影響していました。ただし、これに反発した保守派が、犠牲者が多かったことでその実態が明るみになる詳細な調査活動そのものが反政府主義を助長するとし「共産主義暴動論」を展開する事例も国内各地で散見される状況でした。同時期に韓国国内では、共産主義者の摘発が各地で起き、同時に犠牲者も発生していました。朝鮮戦争の3年間において500万人の犠牲者が発生したとも言われています。

 政治的に韓国国内は安定できていない状態が長く続いていました。

未だ真相解明に至らず
 1995年韓国の地方議会である済州道議会は、事件後40数年にしてようやく『四・三被害調査第一次報告書』を発表しました。

その一方で、1997年には済州島四・三事件をテーマとする韓国ドキュメンタリー映画『レッド・ハント』が製作されました。しかし映画の内容表現が過激であることから国家保安法違反で検挙されるなど、事件がなおもタブーであることが露わとなる事態も生じました。この映画のDVDを探していますが見つかりません。一度観てみたいと考えます。また、同年末済州島事件をはじめ他の反共産主義に係る事件を含めて真相糾明と関係者及び犠牲者の名誉回復を公約に掲げる金大中が大統領に当選したことは、事件見直しの絶好の機会となり韓国全体で同様な反共産主義による悲惨な事件が他にも生起していたため関心を集めました。1998年に事件発生から50周年を迎え、済州島の各地で多彩な追悼行事が催され、慰霊祭等には韓国政府代表が初めて参加をしました。そして、半世紀を経てようやく「済州四・三真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が公布されました。ただし、この法律が事件から52年を経ていても、名称を「済州四・三」とだけ称しています。住民の犠牲者を多く出したkの事件を「暴動」とも「抗争」とも「蜂起」とも呼称していないことからわかるように、事件の性格をどのように評価するかについては、韓国国内でいまだ決着していないとする研究者も多いのです。

韓国国内では大東亜戦争終結後から真に国内政治が安定するまでに反共産主義運動と並行して公然とした「赤狩り」が行われ白日テロと言ってもおかしくないほどに虐殺が起こりました。この事実をよく理解して韓国の戦後史を捉えることが重要と感じます。個人的には事件の性格から、「済州島四・三暴動」であると考えます。

参考文献 岩波現代文庫 済州島四・三事件 文京洙著  岩波新書 韓国現代史 文京洙著  新幹社 済州島四・三事件記憶と真実 済州島四・三事件を考える会・東京(編集)