こんにちは森田遊です。


昨日自宅でいろいろ考え事してたら
眠れなくなり、一人でビールをかなりやってしまいました笑
気をつけなければ……


本日は自分にとって音楽をも超える、
僕の人生観を180度変えた出来事。


肉体的、精神的な地獄。本当に地獄の苦しみに突き落とされた
二回の僕自身の交通事故をお話させてください。


僕は小さい頃から野球少年で、中学校まで本当に夢中で野球ばかりしていました。
高校生ではもちろん趣味で音楽。ピアノはやってましたが、とにかくスポーツが大好きで

バドミントン部に入り三年の最後の神奈川県大会ではシングルでベスト4に入りました。


とにかく運動が大好きだった事、そしてなによりも健康体で
薬などとは全く無縁の生活を送っていました。


音楽大学に行っても、ピアノ弾きを仕事でしているときも、
空いてる時間は常に走ったり、腕立て伏せをしたり、
バットの素振りをしたり……それが普通でした。


忘れもしない、僕が26歳の11月14日の出来事。
横浜の自宅マンションをお昼頃に車で出発し、スポーツクラブに寄り、
仕事場へ向かう途中、品川区の洗足池の交差点で信号待ちをしてました。


突然の急ブレーキの音、耳をつんざくような金属の爆発音。
そして今まで味わった事のない頭、首や全身への大衝撃。


あとは余り記憶になく、吐き気とめまい、
身体が全く動かず、救急車で病院に運ばれました。


信じられませんが、大型トラックに思いきり後ろから追突されました。
それから外傷はほとんどなかったのですが、
理由の分からない吐き気、頭痛、息苦しさ、めまい、その他極度の鞭打ち症で、
二ヶ月間、寝床から動けませんでした。


たくさん点滴を打たれ、なんでトラックに追突され、こんなに何日も苦しいのか。
当時は医学の知識も薬の知識も全くなく、自分の身体に対して絶望感で一杯でした。


二ヶ月程でなんとか回復し、ピアノ弾きの仕事やりながら、
身体をごまかしてました。


ですが、何か24時間具合の悪い状態が続き、
ただひたすら我慢をしながらピアノを弾き過ごしていました。


決定的な事が、それから一年もしないうちにまさかの同じ交通事故。
しかも今度は、後日警察の方に「99,9%死んでたね。奥様と一歳の娘がいる前で死ななくてよかったね…………」
と言われるような大事故でした。


翌年の9月26日深夜、確かバックバンドの仕事を夜中終え、
東名高速道路の横浜インターから東京方面に向かう途中でした。


1番右車線を100㌔くらいで走ってたところ、目の前に信じられない光景が!
なんと大型タンクローリ-らしきトラックが、ジクザク運転しながら横転してしまったのです。


完璧に道路がふさがれ、私の横にいた車が私の車に時速100㌔で二回横からぶつかってきました。
その瞬間、中央分離帯の木が目の前に見え、反対車線へ飛び出すので、死ぬなこれはと思いました。


ほんの一秒の間に当時一歳の娘の顔がよぎり、心の中で「まいちゃんごめんね。さよならだ・・・」と。


その時の悲しい気持ちは今でも覚えています。
しかし、何故か私は、そのぶつけられた瞬間にブレーキをかけるのが普通ですが、
アクセルを踏んでいたのです。無意識のうちに・・・


そして奇跡的にその東名高速道路の事故現場だけ大きく道が右にカ-ブしており、
本来なら右方面に私の車が押し出され中央分離帯を乗り越え反対車線に吹っ飛ばされるところ……
僕自身は外傷なしで、車が停まり………生きていました。


本当に本当に奇跡でした。車はグシャグシャ…………
タンクローリ-の運転手は亡くなったと思います。


あとはそれ以外、救急車にのった事も覚えてないのです。
気がついたら病院のベットでした。


この日を境に私の身体は、死んだと思った恐怖で完全に身体と心のバランスは崩れ落ち、
前回の交通事故よりはるか重い身体の苦しみ、地獄を味わう事になりました。


毎日の嘔吐、24時間の吐き気、頭痛、全身打撲、首のなんともいえない気持ち悪さ、常に息苦しい。
医師の診断は極度の首の損傷による鞭打ち症でした。


私は目の前が真っ暗になり、また二ヶ月くらい寝床から動けませんでした。
なんだかわからない薬をたくさん飲まされ、そして何が何だか分からない点滴。


二ヶ月してなんとか仕事に復帰して、そこで今まで落ち入った事のない、
胸がいきなり苦しくなり、息苦しく、吐き気、めまい。
こんな発作が突然たびたび起こるようになりました。


ピアノを弾いてる時、トラックを見た時、電車に乗ってる時、人込みにいった時、爆音を聞いた時・・・。
その発作が起こり、その場に倒れて救急車で病院でした。


検査結果はいつも異常なし。


鞭打ち症だからとか、疲れでしょうとか、
医師達はあまり相手にしてくれませんでした。


そして山のような薬を渡され飲むとまた吐き。
一年くらい地獄でした。


そして私は東洋医学、針、そして睡眠療法ありとあらゆる場所に助けを求めて、
交通事故で入った300万円以上のお金をすべて治療費にあてました。

首の神経がやられてるとか、はたまた先祖がのろわれてるとか、
霊にとりつかれてるとか笑


結局どうにもなりませんでした。
そして身体が死ぬほど苦しく、病院の薬を一切否定してたある日、
一つの以前に貰った薬を飲みました。


すると、一年以上苦しんでた症状がほんの少し柔らいだのです。
なんとも言えないくらい嬉しく、その薬が神様に見えました。


しかし、その薬をしらべたら「デパス」と言う精神安定剤でした。
私はショックで動揺し、僕の身体は一体どうなってしまったんだろうと
毎日途方にくれました。


そしてどこの整形外科も相手にしてくれなかった状態の僕が、
一人の恩人の医者に何かの力で、出会いました。


丹沢病院の中沢先生という方で、私が確かタウンページを見て、
ひらめきでそこの病院に平塚から一時間かけて行きました。


そこは完全な精神病院でした。今でこそ、
うつ病に対する認知度は非常に高いですが、
当時は心療内科なんていう言葉などなかった時代でした。


僕は精神病院に行き、本当に失礼ながら怖くて恐怖感で一杯でした。
しかしその二時間後、僕は生きていける希望が沸きました。


その先生が二時間、僕の身体の苦しみを聞いてくれた事の嬉しさで、
涙が止まりませんでした。中沢先生が本当に神様に見えました。


「森田君、大変だったね」僕の話をひと通り聞いてくれた後に、
そうつぶやいて、僕の手を肩を抱いてくれました。


「僕が治してあげるから、この薬を毎日飲みなさい。
 なあに、心配する事はない。僕も時々飲んでるから」


その先生の優しさ、笑顔で私はその薬を飲む決心をしました。
ちなみにいまでも欠かさず飲んでいます。


この続きはまた明日。最後にこの僕の二回の交通事故には凄い落ちがあります。


一回目の交通事故は学生の頃まで一緒に住んでいた私のおばあちゃんの亡くなった日。
いわば命日です。


二回目の交通事故はそのおばあちゃんの誕生日。信じられないですが事実です。


やはり私は何か人様に貢献しなければいけない運命なのです。
今日も長い間ありがとうございました。



by You Morita