マイソール横浜・活動停止のお知らせ
一昨年の11月に始まりました「マイソール横浜」ですが
1月末を持ちまして、活動を停止させていただくことになりました。
これまで様々なサポートをしてくださった皆様、
日々真摯に練習に励んでくださった皆様、
すばらしいワークショップをしてくださった先生方、
ほんとうにありがとうございました。
ダン先生の指導でスタートしたマイソール横浜ですが
スタジオの移転、指導者のキャンセル、
震災や原発の影響などなど
様々な変化を乗り越え、
定期的なワークショップも軌道に乗り始めていただけに
大変残念です。
昨年後半よりマイソール横浜の存続を目指し
可能な限りの努力をして参りましたが
残念ながら力及ばず、今回のような結果となってしまいました。
ほんとうに申し訳ありません。
短い期間ではありましたが
日々の練習を通して沢山の学びを与えてくださった皆様に
心より感謝をいたします。
これからも、ご自宅で、スタジオで、仲間同士で集まって・・・
場所は変われど「ご自身の練習」をぜひ続けていってください。
それでは、残り少ないハマソでの練習、ぜひ楽しんでください!
また機会がありましたら、お会いしましょう!
ありがとうございました
三輪由美子
ハマソ1周年
昨年11月1日にマイソール横浜がスタートしてから、1年が経ちました。
ダン先生から始まり、サミ先生やアツロウ先生のマイソールクラス
そしてバリー先生、タリック先生、マキノカオリ先生のワークショップ等・・・
素晴らしい先生方のご協力を得ながら
a place for your practice
常にそこにあるプラクティスの場として、
ここに集まる全ての皆さんによって作り上げられ、
ここまで継続することができました。
これもひとえに、日々練習してくださっている皆さんのおかげです。
ほんとうにありがとうございます。
昔からずっと通ってらっしゃる方、一時的に来られていた方、
不定期ながらも顔を出される方、最近始めたばかりの方・・・
それぞれがそれぞれのペースで
アシュタンガヨガと向き合ってらっしゃいます。
生活の変化で練習を一時中断せざるを得なくなった方もいます。
スタジオ練習から自宅での練習へシフトされた方もいれば、
海外へ学びにいかれた方もいます。
私達ひとりひとりの生き方と同じ数だけ
異なった練習方法があるのだな
と、この1年を通して学ばせていただきました。
これからも、皆さんにとって必要なときに、
いつでもふらりと立ち寄れる練習の場として、
皆さんが「自分の」練習を安心して行える場として、
マイソール横浜のスタジオを常にオープンにしていきたいと思います。
この場を共有することで生まれる新しいエネルギーのパワーを感じ、
常に止まることのない変化の中で育まれる新芽の成長を共に見守り、
互いに思いやりと優しさをもって、
皆さんが自分以外の方の為に新たな種を蒔いていく、
そのお手伝いができたら幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。
ダン先生と学ぶアシュタンガヨガ
お待たせしました!ダン先生の2日間ワークショップ開催決定です。
今回は短期の日本滞在のため、残念ながら平日のマイソールクラスではなく、週末のワークショップのみとなります。この機会にぜひともふるってご参加ください!
ダン先生と学ぶアシュタンガヨガ
2011年10月1日~2日
ASANA STUDY IN DEPTH
アーサナの理解を深めよう!
アシュタンガヨガの99%を成す私達の日々のプラクティス。
このアーサナというツールへの取り組み方を
1%の理論をもって効率的に深めていくワークショップです
【クラス内容】
MYSORE CLASS
少人数制マイソールクラス(2グループ制)
伝統的なマンツーマンの指導法であるマイソールクラス。生徒全員に細かな指導がいきわたるよう、定員12人の少人数制となります。日本で長い指導経験を持つダン先生ならではの、日本人の特性に合わせた、的確かつ綿密な指導をぜひ体験してください。マイソールクラスは両日行われます。
すでにマイソールスタイルでの練習をされている方が対象となります。
EXPLORING STANDING POSES
探検!スタンディングポーズ(90分)
アシュタンガヨガの基本であるスタンディングポーズには、あらゆるポーズの要素がたくさん詰まっています。単なるウォームアップとして流すだけではなく、より深く細かなディテールを理解することで、後に続くシーケンスの様々なポーズ、特に苦手なポーズへの準備を兼ねた新たなアプローチを学ぶクラスです。また、正しいカウントとドリスティ、そして適切な呼吸とバンダの効果を、実際に体験して感じていきます。
アシュタンガヨガを始めたばかりの方から、経験者まで、すべての練習生が対象となります。
VINYASA FOR EVERYONE
みんなのためのビンヤサ(90分)
軽やかなジャンプバックやジャンブスルーは、決して上級者だけのものではありません。アシュタンガヨガを始めたばかりの方から、ある程度の経験をつんだ方まで、すべての練習生にビンヤサは必要不可欠な練習です。このクラスでは、ビンヤサの意味や意義、その効果などの理解をもって、実際にどのようにアプローチしていくかを、それぞれの身体的なコンディションに応じて具体的に学ぶ内容です。アームバランスの基礎となるしっかりとした土台、地面とのコンタクトを大切にしながら、腕力ではなく呼吸そしてバンダのパワーでエネルギーを調整し、身体を流れに乗せて動くビンヤサの醍醐味を体験しましょう。
アシュタンガヨガを始めたばかりの方から、経験者まで、すべての練習生が対象となります。
ASANA CLINIC
アーサナ・クリニック(30分)
参加者さんそれぞれの苦手なポーズや動きに対して、具体的なアドバイスや提案を行うクラスです。自分の悩みは勿論、他の方へのアドバイスも、新たな学びと気づきの宝庫となることでしょう。このクラスは両日の午後クラスの一部として行われます。
【スケジュール】
10/1(土)
08:00~ マイソールクラス・グループA
09:00~ マイソールクラス・グループB
11:30~13:30 探求!スタンディングポーズ & アーサナ・クリニック
10/2(日)
09:00~ マイソールクラス・グループA
09:00~ マイソールクラス・グループB
11:30~13:30 みんなのためのビンヤサ & アーサナ・クリニック
【参加費】
1クラス=4000円(3500円) / 2クラス=7000円(6500円)
3クラス=10000円(9000円) / 4クラス=12000円(11000円)
(カッコ内はメンバー割引金額)
【会場】
マイソール横浜
【参加方法・問合せ】
ご参加希望の方、事前予約をされる方は
mysoreyokohama@gmail.com
宛にご連絡ください。入金方法等の詳細等、こちらから追ってご連絡いたします。また今回参加人数に限りがありますので、ご予約はお早めに。(事前予約は入金確認後に確定します)
バリー・シルバー先生ワークショップ@マイソール横浜
バリー・シルバー先生の
Ashtanga Yoga in depth
探求!アシュタンガヨガ
2011年9月10日(土)&11日(日)
ハーフプライマリーレッドクラス
ヨーガスートラ入門
プラナヤマ&瞑想
お待たせしました!アシュタンガ代々木主催のバリー・シルバー先生のワークショップ開催決定です!
逗子のワークショップでも、毎回好評のバリー先生のレクチャークラス。小難しい哲学も、よそよそしい教義も、バリー先生の手にかかると、とっても分かりやすく腑に落ちることしばしばです。常にマクロな視点で客観的に全体像を捉え、マットの上のフィジカルなヨガから、インドの哲学・世界観まで広げ、最終的に日常生活へストンと落とし込めるのは、恐らくバリー先生自身の深い経験のなせる業!
今回は、アシュタンガヨガの古典教本であるパタンジャリの「ヨーガスートラ」を中心に、太古から伝わる心の科学、その叡智とシステムを、現代の私達がやさしくひもとくための、総合的なアシュタンガヨガ(八肢則)の入門クラス。なんと2日間のシリーズです。
アシュタンガヨガってなに?
ヨーガスートラってなに?
ポーズの練習と哲学がどう結びつくの?
日常の生活にどう活かせるの?
そんな素朴な疑問の答えを探求していく
ちょっとしたアドベンチャー。
私達のこころのしくみ
そこから生まれる私達の苦しみ。
薄っぺらなキレイごとじゃなくて
手の届きそうもない夢物語じゃなくて。
いまを生きる私達が
うんうん悩みながら
みともなく転びながら
だけど地に足つけて歩むための
生きることの“道しるべ”を
座学と実技を交えて学びます。
このワークショップはレベルや経験を問わず、どなたでも参加できます。
【スケジュール】
9月10日(土)
レッドクラス
10:00-11:15 Half Primary Led Class (75分)
レクチャー
11:30-13:00 ヨーガストラ入門①(90分)
13:15-13:45 プラナヤマ (30分)
9月11日(日)
レッドクラス
10:00-11:15 Half Primary Led Class (75分)
レクチャー
11:30-13:00 ヨーガストラ入門②(90分)
13:15-13:45 瞑想 (30分)
【参加費】
終日参加
1日6500円(6000円)
2日12000円(11000円)
レッドクラスのみ
1回3000円(2500円)
レクチャーのみ
1回4500円(4000円)
2回8000円(7000円)
【会場】
マイソール横浜
【参加方法】
メールにてお申込みください
mysoreyokohama.gmail.com
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語(後半)
興味深い変換期
グルの死というものは、得てして興味深い変革の時でもある。
最近のアシュタンガヨガの世界はまるで企業と化し、あたかもビクラムヨガのようなブランド化が顕著だ。シーケンスの厳格さが増し、金儲け主義に拍車がかかり、中央集権的コントロールがなされている。とあるプラクティショナーによると、シャラートによって最近導入された、オーソライズ指導者にとって必須となるマイソールでの2週間ティチャー・トレーニングは、容易に2日間ほどに要約される程度の内容にもかかわらず、1回あたり70人の指導者が各数十万円を支払い参加することで、アシュタンガヨガ界のヒエラルキーの中に留まろうとしている(注釈:このティーチャー・トレーニングへ参加しないとオーソライズの資格は剥奪される)
アシュタンガヨガはコントロールを保持するために、収入を保持するために、トレードマーク化していくのだろうか?ビクラムヨガのように、変革はビジネスとして進化することもあり得るのだが、自由を説く哲学の制度化、解放を約束するプラクティスの企業化を、果たしてどうやって防ぐことができるのだろうか?
恐らく問われるべきは、我々が常にどのような態度で世界と立ち向かうか、という事ではないだろうか。この世界の中で、洞察と優しさを持ちながら自立した個としてのパワーを高めていくのか、それとも、とりまく世界の支配に任せ個を見失っていくのか。
自由を得るということ、すなわち、自己変容のために必要となるのは、アウェアネス-常に注意深く気付いている状態、常に覚醒して用心深い状態、ということでもある。これと比較すると、単に肉体的身体をストレッチすることの方が、よほど容易であることに気がつく。そしてそれは、自分自身が精神的成長の旅路にあるという自覚を、時として迷わすこともあるのだ。
それぞれの異なった行程
恐らくこの精神成長の旅路は、とても時間のかかる行程なのだろう。
BSKアイアンガー師は「私の哲学的な指導は、ヨガの練習と指導を始めて30年後の1960年に入ってから、ようやく始まった」と語っているが、しかし我々にそのような長い期間を過ごす余裕が、はたしてあるのだろうか?特にあらゆるものがスピード化された現代生活において、静かに座ってマインドを観察するための時間が、どれだけあるのだろうか?
しかしこれは「一生涯をかけて悟りを成す」という意味ではなく、いずれかの時点で、それまでの何かが大きく転換(シフト)する必要が発生する、ということなのではないだろうか?では、我々は、このスピード化された現代社会の中、それ相応に充分迅速にシフトしているのだろうか?
道元禅師が長期の瞑想修行から戻った際に、弟子達から何を学んできたのかと聞かれ「やわらかいこころ」と語ったように、また、ダライラマが「最も幸せだったのはいつか?」と問われたインタビューに「いまこのときです」と答えたように、永きにわたる修行の末に、可能となるのは、こころの不安を少なくし、この瞬間に生き生きと存在できるようになるという、とてもシンプルなものなのだ。
そ れではアシュタンガヨガは、このような境地へ至る手助けをしてくれるのだろうか?私個人の見解としては、「よくわからない」という回答しかでてこない。確 かに踏み石にはなるだろうし、純然たる意識へ向かう道筋の一部ではあるようにも感じる。しかし、大抵において、身動きが取れなくなったり、あまりに厳格で 堅苦しくなったり、こだわりに固執しすぎてしまう傾向が、そこには歴然とあることも事実だ。
いったいなにがおきているのか?
しかし色々と検証していくと、このアシュタンガヨガ文化だけに留まらず、おそらく全ての「伝統的」な教えの中には、欠陥や弱点があることを、常に覚えておきたい。
例えば、禅寺でとある修行僧が精神に恐慌をきたした際、彼の師は「もし死にそうだと感じるのなら、どうぞ安らかに死んでゆきなさい」と言ったという。
またある女性指導者は参加した瞑想センターで「この瞑想を行うのであれば、あなたが行っている身体の練習は放棄しなさい。他の要素を禅に混合することは、我々の伝統の系譜からは逸脱しています」と諭され、いわゆる「正統派」に潜む頑固さと対面したという。
瞑想者の一部は、生への執着を絶つために、拒絶という瞑想ツールを用いる結果、冷淡で、距離感があり、つながりが希薄な印象を与える。
瞑想という世界においても、アシュタンガ同様、懸命なまでの努力と、それに伴う妬みの心を経験することになる。
この2年ほど思案してきたことを、このエッセイに書き留めてきたが、7世紀のチャンドラキルティ師の言葉は、常に胸に留めておきたい。
「己の信ずるものへの執着、他者の異なる意見への嫌悪・・・これらが我々の思考のすべてだ」
これまで自分の精神を構成してきたものは、心が形を成そうと揺れ動く、つかの間の閃きの集まりでしかない。つまり、呼吸をして、身体を曲げたり伸ばしたりしながら、分裂と対立を容易に生み出すことも、これまた人間の心の自然な摂理なのである。これは時にとても有益となるが、また時にそれは「ブランド構築と帝国の死守」という形にもなりうる。
よりよく生きるためのプラクティスとして、それぞれの異なった道筋が、どのようにその目的を指し示すか、というのはとても興味深いところである。そして問題は、ひとつひとつの小さなさざ波が、自身を大海原から切り離された存在として認識されることであり、その分離が恐怖を生み出している。そして、このような不安定さと、どのように対応するかということ自体が、プラクティスの目的のひとつでもあるのだ。
プラクティスの目的はまた、誤った知覚認識を克服し、自身の内と外とのつながりを可能にすることによって、様々な伝統が表現するところの、精神の煌き、すなわち、洞察と平安に満ちた、内なる空の輝きを発見することでもある。
ある人はつまづくが、ある人にはそんなことは起こらない。このアシュタンガヨガというツールは、とてもパワフルな変革をもたらすプラクティスではあるが、我々は自身のプラクティスを、好奇心をもって、見つめなおす必要があるのかもしれない。
私は、自分のプラクティスを巡るあれこれに、なんらかの意味づけをしようと試みている一人にすぎない。「裸の王様」を目の当たりにした少年のように、曇りのない目でクリアにものごとを見たいだけなのかもしれない。
私の個人的なアシュタンガに対する感情は、まず深い愛情と敬意がある。しかしそこには、表面的な部分における固執もある。私にとってアシュタンガヨガは、汗だくになって懸命に努力するよりも、アサナへの執着をあまり持たない穏やかなプラクティスを、日々の慣習的行為として淡々と行うことのほうが、より深い効果が得られるようだ。
プラクティショナーとして私達が常に自身に問いかけるべきは、果たして我々の行っているプラクティスは、宗教学者のハストン・スミスが語ったように
「気づきの意識、辛抱強さ、そして寛大さをさらに高め、現代社会の複雑さ、動揺、不確実さに対して、豊かな創造力をもって対処していくことを可能にする」
ということへ向かっているのか否か、ではないだろうか。
そしてできることなら、この道に異なる視点という、ちょっとしたスパイスをふりかける必要もあるかもしれない。そうでもしないと、この道はとても狭く堅苦しく、身動きとれないほど張り詰めすぎて、神経症にもなりかねない。
「我々はプロセスであり、ほどけるがごとく変容展開しているのである」
この詩人の言葉のように、真の自己の発見は、身動きのとれない状況からは決して生まれてこないはずだ。
特別な回答など、どこにも存在しない。それよりも大切なのは、どれだけ自身に対して誠実となれるか、そしてその誠実さを、優しさをもって調和させていけるか、なのだろう。そして望むらくは、常に疑問を持ち、可能な限りオープンになり、さらなる安らかな存在への道を、心から感じられるように。
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語(中)
なにが起ころうとしているのか
多くのアシュタンギは、ポーズのシーケンスという肉体的な練習に終始するのみだが、さて、これは一体、なんのプラクティスなのだろう?
ひとりのアシュタンガ練習生が語ったことだが、彼はサードシリーズを練習することで、本当に“何か”が起こるだろうと期待していたが、実際なにも起こらなかった。その後、彼は次のフォースシリーズも完結したが、それでもなにひとつ変わらなかった。恐らく「なにも起こらなかった」という事実そのものこそが、彼にとっての最大の学びだったのかもしれない。
彼の現在のプラクティスは、週に数回スタンディングを行い、あとはただ座して自己を見つめることとなった。他の指導者の話をするときに彼は「自分の内を見つめて、その人に対して敵意や憎しみの気持ちがないかどうか確認す必要がある」と語った。
物質的な現実世界にのみ身を置く、その他大勢のアシュタンギとは対照的に、彼の誠実さは非常に深遠である。なぜならば、この瞑想の静謐さの中でこそ我々は、自己を明晰に省み、洞察深い純然たる意識を育むことが可能になるからだ。
確かにアシュタンガヨガは、我々に繊細な意識を持たせ、思慮深くさせてくれるかもしれない。しかし、肉体的なプラクティスのみを行う人々によって提唱された、「動く瞑想」というコンセプトも、我々の多くにとっては非現実的であることもしばしばである。
「動く」という行為によって我々は、自らを愉しませること可能だが、それは、この肉体的刺激に耽溺した状態に身を置くことで、自らの動揺や混乱を寄せ付けないよう防衛しているのかもしれない。黙して座し、自己の奥底を観照する、その純然たる静謐さは、こういった肉体を動かすことからは、生まれてこないだろう。
もし我々が、瞑想の退屈さを抱擁するように受け入れるならば、内面の静けさは完璧なまでの均衡状態となり、そのときに我々は喜びを求める飢餓状態から解放され、それまでの幸せを求める足掻きや、居心地の悪さとの戦いは、次第に和らぎ、ついにはリラックスするのである。
アシュタンガヨガのシステムでは、ポーズからポーズへと流れるように動くとき、意識をしっかりと向ける矛先が明確に示されている。が、しかし我々はただ肉体に固執するだけで、静謐さの中に溶けてゆくような深い地点までは向かおうとしない。
なぜならば、それを可能とするような妥当性が、システム自体に欠けていることもさながら、アシュタンガヨガが支持する伝統のひとつを崩壊させかねない矛盾を引き起こすからである。
すなわち、肉体のアサナは、八支則のうち6つめ7つめにあたるダーラナおよびディヤーナという、座して瞑想するための準備である、という伝統だ。我々の日々の汗と努力と血の涙はすべて、これらの支則によって、いとも簡単に下位へ貶められてしまうのだ。
私はアシュタンガヨガの練習がとても好きで、アシュタンガヨガが与えてくれるパワーを大切に思い、そのフロー、練習における集中は素晴らしいと感じている。しかし、それでも、そこには何かが欠けている気がしてならない。
「我々は非常に柔軟な身体を持つことはできても、こころは固いままだ」という事実を無視するかのように、なぜ我々は滑稽なまでに肉体の柔軟性に魅了され、情熱を傾けているのか。
多くのプラクティショナーに共通する問題として、瞑想やプラナヤマへのシフトを不可能にしているのは、アシュタンガヨガのシーケンス自体が、肉体にのみ留まっているからではないだろうか。
そして過剰なまでにインテンスな練習によって、視野を狭め、箱の外を見ることを押し留めてしまうというのは、いわゆる“カルト”に多くみられる傾向でもあるのだ。
こころのおそうじ
沢山のアシュタンギが、「瞑想をする時間がとれない」とこぼすのを頻繁に耳にする。もちろん、我々は常に様々な要求に応えるべく、せわしない日々を送っている。子育てをはじめとする責務や、この現実社会で生き残るための様々な困難などなど・・・。しかし、結局は、我々自身がなにを優先するか、というだけの話である。
パタビジョイスは瞑想を「マッド・アテンション(狂った意識の向け方)」と呼び、誰にも教えることはなかったという。
実際のところ我々は、常にせわしなく落ち着きのない心の領域においてよりも、粗大な肉体の中に自身を宿らし落ち着かせることのほうが、容易に行えるのである。
パタビジョイスはまた、こうも言った。
「これは肉体のプラクティスではなく、心のクリーニングである」
我々は、いつか、いずれかの時点で、自身の内面を深く見つめざるを得なくなるのだから、「アサナの目的は、長い時間にわたって瞑想ができるように、我々の肉体をチューニングするためである。」ということを、常々思い起こす必要がある。
身体的プラクティスにおいて、感覚や知覚が最も重要だとみなすならば、それは心のトレーニングよりも肉体性を優先しているということを意味する。心と肉体は、明らかに深長な重複と密接なつながりがあるが、しかし、心と肉体への働きかけには、歴然と異なったテクニックがあるのだ。
パタビジョイス直接師事した初めての西洋人のひとりノーマン・アレンは、パタビ・ジョイス(グルジ)へこう尋ねたそうだ。
「身体的プラクティスは、いったい私達をどのくらいの高みまで連れて行くのでしょうか?」
それに対するグルジの答えは非常に簡潔であった。
「たいていの場合、どこへも到達しない。ほかのステップに進まない限りは」
サキョン・ミパム・リンポチェは、チョギャム・トゥルンパによって設立された仏教ネットワーク・シャンバラのスピリチュアル・リーダーであるが、彼はパタビジョイスに学んだアシュタンガヨガのプラクティショナーでもある。
彼は、瞑想的な形式(仏教と呼ばれるもの)と、肉体的な形式(ヨガと呼ばれるもの)の間の大きな溝を埋める橋渡しの必要性を説いている。これらの瞑想的形式の説明として彼は、こう強調する。
「何が起きているのかを理解するためには、まず状況を安定させる必要がある。ゆったりとスローダウンし、我々がなにもので、なにをしているのか、をしっかりと感じ取らなければならない。瞑想という練習を通して我々は、マインドと知覚の混乱を通り抜ける術を学ぶのだ」
我々は精悍で引き締まったアシュタンガ的肉体を持つが、究極的には、それが一体なんだというのだろう?
この肉体的卓越さのどこに、我々が蛇だと思い込んでいるロープを目の前にしたときに、その本質を認識するための、既に条件つけられた存在からの解放や、事象現象への洞察や、慈悲の心へと繋がる経験が、あるのだろうか?
へびとロープ
おそらく、パタビジョイスとチョギャム・トゥルンパは共に、ロープはロープだと認識していたに違いない。二人は共に、南インドのブラーミンおよびチベット人として、自国の文化圏外の生徒などひとりもいない環境から、幾千もの西洋人の熱狂的な信者に囲まれる運命となった。この二人のアプローチは共に、良い意味での「トリックスター」と呼ばれるものであった。彼らは次第に規定や規則を作り出し、時に生徒達の覚醒のプロセスを手助けするために、愚弄することもあった。
中略(彼らの影響が勢力を増すにつれ、コミュニティが巨大化するにつれ、個々と向きあう指導がカリキュラム化されることになる)
そして近年のアシュタンガヨガの世界における明らかな変化は、グルジの死と、シャラートへの後継だろう。
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語(前半)
先日THE BOX-BEING INSIDE LOOKING OUTSIDE:AN ASHTANGA STORY というエッセイを読みました。
http://www.yogawithnorman.co.uk/worddocs/The_box-an_ashtanga_journey.pdf
筆者のNorman Blair氏は英国のヨガ指導者。自身の15年に渡るアシュタンガヨガの経験から書かれた「箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語」というこのエッセイは、辛辣かつ正直で誠実、そしてなにより愛にあふれた興味深い内容です。
Norman Blair
アシュタンガヨガ独特のパラドクスと、そこから派生する心のドタバタ劇・・・スピリチュアル・プラクティスであるヨーガの体系が、変身願望のツールとなり、アクロバティックな曲芸技を賞賛し、頑固さと偏狭さを伝統という名の下に潜ませ、怪我や故障が勲章扱いとなる不思議ワールド・・・そこに愛と慈しみはあるのか?と問いかけたくなる現状を批判的にならずに提示し、そして疑問と熟考を促してくれます。
ヨガにまつわるアレコレで、「うーん、なんだかなー?」と思ったことのある人もない人も、とにかく一読をお勧めしたいのですが、残念ながら原文は英語のため、読む方を限定してしまうかもしれません。
しかしブログという公共の場でご紹介する以上、英語が苦手な方も含め、ご興味をもたれた方にぜひとも読んでいただきたく、ダイジェスト版ではありますが、日本語訳(長文のため今回は前半のみ)を添えさせていてだきます。
THE BOX-BEING INSIDE LOOKING OUTSIDE:AN ASHTANGA STORY
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語
罠にかかったのか、それとも、これは自己変革なのか
アシュガンタヨガの練習はかれこれ15年以上になる。最初はレッドクラスから始めて、1999年よりサーティファイド・ティーチャーの下でマイソールスタイルの練習を始めた。つま先に手を届かせようと躍起になっていた頃から、ポーズとポーズの間を滑らかに繋げられるようになるまで、その道のりはまさに旅路のようであった。
私の興味を引いたのは、このアシュタンガヨガのプラクティスは、神経症を悪化させるのか、それとも軽減させるのだろうか、ということであった。我々はみな多かれ少なかれ、ある程度の神経症的傾向があり、誰もが不安や心配を抱えており、それはユングの言うところの「落ち着きがなく、漠然とした不安を抱えた、心理的な合併症」と表現した現代の病のようなものである。
これはヨガ哲学におけるクレーシャ、すなわち「マインドにおける苦しみ」と言い換えてもいいだろう。クレーシャに相反するのはメッタ(時にそれは「優しさ」と翻訳される)であるが、では、このアシュタンガヨガのプラクティスは、はたしてクレーシャを弱め、メッタを強める効果があるのだろうか?苦しみを滅し、優しさを育てるスペースが、そこには本当にあるのだろうか?
このような疑問を持たざるを得ない我々は、アシュタンガヨガの罠にはまってしまったのか、それとも、これは自己変革の一歩なのだろうか?
スピリチュアル・プラクティスへの変換
ともあれ、パタビジョイスの功績は、アシュタンガヨガというアスレチックな運動の延長をもってして、西洋における「失われた世界」に生きる我々を、インドや東洋の精神世界へと目を向けさせたことだろう。
しかしここで疑問が生まれてくる。アシュタンガヨガは果たして、人生の無意味さや終わりなき焦燥から、我々を解き放ってくれるのだろうか?アシュタンガヨガによって我々は、平安と洞察に満ちた場所へ、少しでも近づくことができるのだろうか?
この問いかけに、「もちろん」と答える人もいれば、「そんなことはない」と反論する人もいるだろう。我々はみなそれぞれが、別々の異なった物語を持ち、互いに独立した存在ゆえ、答えは違って当然だ。
ある人にとってアシュタンガヨガは、こころの明晰な静寂をもたらす「動く瞑想」であり、また別のある人にとっては、心身を酷使し必死にもがいて懸命にポーズの成功を目指すことで、「固執」という自身の古い習慣を、対象を変えながら繰り返しているに過ぎない。
「(アシュタンガヨガのような)ひとつのシステムをゆるぎなく修練すると、“とある何か”が、取り組まれることなく、解決することなく、とり残されることがあり、それはプラクティスの残滓とでもいうべく、無意識下におかれたあなたの人生の側面が、ほぼ間違いなく垣間見てとれるのである。」
とはリチャード・フリーマンの弁だが、どうやら我々には、この「道」を多元的にとらえる必要があるようだ。
恐らく問題となるべき事実は、アシュタンガヨガにハマる人々というのが、それを最も必要としない人々、いわゆる「タイプA=目的達成型」と呼ばれる性格の持ち主達である、ということなのかもしれない。
パーソナリティ
私達のほとんどがそうであるように、このタイプAという性格は、実はアシュタンガヨガの梯子という罠に非常にハマりやすい。つまり、ポーズをひとつひとつクリアしながら、梯子を一段一段上り詰めていくプラクティスを通して、なにかを求める強欲な心を、更に強固に育ててしまうのである。
アシュタンガはときに、主に敗者よりも勝者によって語られるような、厳しい仕事を割り当てる工事監督のような存在となりうる。とあるシニアティチャーは「だからこそ、こんなに素晴らしい結果が生まれるのだ」と語ったが(この発言を疑問に思う者も多いが)、その教義と厳格な頑固さの中で、どれだけの私達が傷つき、そして壊れていかなければならないのだろうか?
この教義と厳格さによって、「ジャンプして直接チャトランガに入れば肩を痛める」とか、「ドロップバックで足を外へ向ければ膝を壊す」といった、明白な事実を指摘することすら、はばかれてきたのである。
アシュタンガにおけるアクロバットのような曲芸的側面は、先天的に身体能力に優れた者がヒエラルキーの上位に置かれ、異例の速さで指導者として認められる現実に加担している。彼等彼女らのサーカス技術は非常に崇められ、まるで道徳倫理に根ざした誠実さや思いやりといった人間性よりも、アシュタンガヨガ指導者としての重要な資質として扱われている。
増強された我々の「なにかを求める強欲な心」は、指導者のアジャストに対しての批判をも放棄してしまう。時にアジャストは殆ど虐待的であるのだが、ポーズを先へ進めたい欲に駆り立てられた私達は、それすらも甘んじて受けているのが現状だ。
生徒それぞれの個性がアシュタンガという四角い穴にキッチリ治まるように、熱意にあふれた指導者が躍起になって、アジャストという釘を打ち付けている様は、まるで悪夢のようだ。
あまりに沢山のアジャストが無自覚になされ、生徒の身体は「寺院」どころか、ポーズの完成形を作り上げるための「戦場」として扱われている中、一体どれだけの正式指導者達が、ベカーサナやガルバピンダーサナ、マリーチアーサナBのアジャストで、生徒の膝や大腿骨を
傷つけてきたことだろうか?
そしてこのような事故や怪我は、指導者の過剰な熱意と、「ポーズはこうあるべきである」という執着によって、現在も毎日のように引き起こされている。
つながりへの架け橋
しかし同時にアジャストは、適切に行われたなら、練習を勇気つけ、可能性を高める、パワフルなツールとなりうる。肉体の可能性の広がりを垣間見せ、不可能と思っていた地点へ達する手ほどきとなり、純粋な架け橋となるのである。
このようなアジャストには繊細さと技術を要し、他人を模倣することからは生まれない、ということを確信させる。なぜならそれは、愛と労わりから生まれるからである。
そして、そのようなアジャストは、現実には殆どありえない。そして私はアジャストを受けるたびに「愛はどこにあるんだろう?」と常に思っていた。
アシュタンガヨガの練習生を対象にした、怪我や事故の正式な統計はなされたことはないが、肩と腰の問題が多く見うけられる。膝関節の手術経験が、あたかも勲章のようにとらえられる環境で、永い経験を持つプラクティショナーはみな、どこか身体に不調を抱えている。
ただここで知っておくべきなのは、これは他の流派のヨガにもあてはまり、アシュタンガヨガでは膝の問題が多いように、アイアンガーヨガでは股関節の問題が多く発生する。
長い経験を積んだ真剣なアシュタンガヨガの練習生が、関節を過剰に酷使することを示す、沢山の逸話的な証拠がある。もちろん、人生そのものすなわち歳を重ねることそのもの自体も、これに加担してはいるのだが。
仮に、「ポーズの練習というのはパドマーサナ(蓮華座)を安全に組むためにある」のだとすれば、なにかがどうも間違っているとしか思えない。アシュタンガヨガでパドマーサナは常に右足から組むが、これは積み重ねた末にラクダの背骨を折ってしまう藁のようなもので、(訳注:イスラムの諺)、サードシリーズまで練習が進むと、右足を先にかけるのにはもうウンザリだ、と身体が悲鳴をあげるようになる。
癒しとしてのアシュタンガ
もちろん多くの人たちが、アシュタンガヨガを通して、ガンやその他の慢性的疾患から癒された経験があることも、よく知られており、病気の症状が改善された沢山の例もある。練習そのものは、確実に疾患回復の効果がある。
その理由のひとつとして、全身をくまなくストレッチすることには非常にセラピー効果があり、緊張の解放や、感情のこわばりをほぐすからである。アシュタンガヨガが癒しであることに異論をはさむ余地はないが、このプラクティス自体が、我々に「肉体を超えた広い視野」をもたらすかどうか、という疑問は抱きつづけるべきだ。
恐らく、ときに何かが間違ってしまう、ひとつの理由として、アシュタンガヨガには一種の傲慢さがついて回るからかもしれない。もちろん傲慢さだけがアシュタンガヨガを行う者の唯一の特性である、というわけではないし、ほかのスタイルやシステムのヨガだって、同じように傲慢ともいえる。
しかしアシュタンガヨガの傲慢さの中には、高いレベルの「肉体的熟練」が伴っている。「我々のこの肉体は時とともに衰え滅んでゆく」というのが、この不確実な世界における数少ない確実な真実のひとつであるならば、もし仮にそこに執着をすれば、おのずと苦しみがうまれてくるのではないだろうか。
ふたりの瞑想者が、このような問題について語っている。ツォキニ・リンポチェは「ハタヨガ実践者が、肉体のみを使った場合の落とし穴のひとつは、傲慢さである」と述べた。リドゥジン・シックポは「肉体的なヨガは、パワーとパワーの実感をもたらす。パワーの実感は、ヨガの練習の成果によって他者をコントロールできることから生まれる。肉体的なヨガの成果はまたプライドを生み出す。この種のプラクティスは達成にとてつもない努力を要するが、自身のこころと真っ向から向き合って働きかける難しさの足元にもおよばない」と記した。
このパワーと肉体性への固執は「アシュタンガヨガのタントラ」と呼んでもさしつかえないだろう。
ヨガシステムの観点からしても、アシュタンガヨガは、その呼吸とバンダとドリスティを強調する面からタントラ的であると断言しても、あながち間違ってはいないだろう。神聖なる肉体へのアプローチというものは、タントラからインスピレーションを得ている。
しかし過剰な執着という危険を避けるために、タントラヨガの修行者は、自らの肉体が朽ちて腐敗し骨から剥がれ鳥に啄ばまれ動物に食らわれていく過程を瞑想することで、バランスを図るのだ。
多分我々現代のアシュタンギは、火葬場を訪れたり、死を迎えるホスピスで奉仕活動等を通して、避けることのできない肉体のはかなさを再確認し、フィットネスクラブやボトックスでの若作りは決して、病と老化と死を回避することはできないことを心に焼き付けるべきではないだろうか。
からだのやわらかさ、こころのかたさ
この固執と傲慢と同様、長い経験を持つ練習生の中に見受けられるのが、こころの非柔軟性だ。これは、肉体的な柔軟性のレベルを考慮すると、とても皮肉的ではあるのだが。
たとえばある指導者は、他の場所で練習をしたがる生徒を罵倒したり、自分の生徒が他の指導者の手助けをすることを禁じたり、とあるサーティファイド・ティーチャーに至っては、生徒がブロックを使ってよいかと尋ねたときに、「だめです、それはヨガではありません」と答えたそうである。
分かち合う代わりにコントロールをしたがり、自己防衛的であったり、グループ派閥を作ったり・・・、まるで我々は一体なにを修行しているのだろうかと疑問視される、このような態度に効果があるのは、恐らく純然たるスピードで行うプラクティスであろう。
アシュタンガヨガの練習で、ポーズを5呼吸の間保持することは、実はとても上級の技であり、普通は呼吸は簡単に浅くなってしまうものだ。パタビッジョイスの指導とは別途に、「長い呼吸をすること。10秒間でひとつの吸う息、次の10秒間でひとつの吐く息」とリノ・ミヤレは推奨していた。しかし、たいていの練習中の呼吸は、これよりもはるかに短くなってしまう。
とある研究結果では、短い呼吸と激しい肉体的運動のコンビネーションは交感神経を刺激するといわれる。これは急性ストレス反応の「戦うか、逃げるか、すくむか」という状態である。これにより、私達は、自己防衛的になり、他者を排斥したり、独尊的になる。また一方副交感神経が働くと、結びつきあう能力が生まれる。これは、柔らかく、友好的で、くつろいでいて、ゆっくりと消化していく感覚である。
アシュタンガヨガの練習は、ともすると交感神経を刺激しかねないという説は、実際考慮すべき問題であろう。この早い呼吸の良い例として、シャーラートのプライマリーCDが上げられる。
この中で、それぞれのポーズを保持する5呼吸は、およそ20秒である。これは単純計算で一呼吸あたり4秒となり、ひとつの吸う息で2秒、ひとつの吐く息で2秒ということだ。この超高速呼吸で激しい肉体運動を行うとことは、すなわち「戦うか、逃げるか、すくむか」という反応を引き起こし、オープンで包括的で豊かで思いやりに満ちるというよりはむしろ、制御と硬直をもたらしてしまうことだろう。
だけど、オープンになり、全てを包括し、豊かで、思いやりに満ちることこそが、プラクティスの意義だったのではなかったか?実際ヨガというものは、肉体だけの問題ではなかったはずだし、仮にそうだとしたら、それは単なる体操でしかない。深い愛とやさしさによって、バランスのとれた洞察を、さらに高めていくような意識の変容そのものが肝心なのだと、わかっていてはいても、アシュタンガ・ボックスの中にいると、何故かそんな風には感じられなくなってしまう。
なぜならそこには競争や敵対する意識があって、なぜならそこに対話はなくて、まるでそれぞれが自分の帝国を死守しようとしているように見える。もちろんこれは人生と同じく、「アシュタンガヨガは、“既に存在していた傾向”を映す鏡でしかない」、という説を裏付ける証拠も沢山あるのだが。
しかし、たとえば仏教の学びにおいて生徒は、まさにその“既に存在していた傾向”を滅するため、常に違った伝統の違った指導者から学ぶことを推奨されるが、これは、「練習、練習、ただたすら練習、そうすれば全てはおのずとやってくる」というアシュタンガヨガ原理の中では、とうてい成立しない論理といえよう。
。
(続く)
タリック先生ワークショップ報告
昨日開催のタリック先生ワークショップ、大盛況のうちに無事終了しました!
午前のマイソールクラス・午後のワークショップともに、早い時期からキャンセル待ちが出るほどで、さすがタリック先生の人気ぶりが伺えました。
午前中のマイソールクラスは、タリック先生の長年の経験に培われた的確でていねいな指導が、参加者さん全員にゆきわたるように、12人に定員を設けての2部制。いつものレギュラークラスよりもマット間隔が広い環境で、ゆったりと落ち着いて気持ちのよい練習ができましたでしょうか。
タリック先生の指導は、決して甘えさせず(!)しっかり頑張らせてくれますが、でも無理は絶対させず、むしろ思った以上にもっともっとリラックスして練習を楽しむように励ましてくれます。ポーズのアライメントも、生徒さんの身体のコンディションに合わせて無理なく負担なく、カタチだけの完成形を押し付けるようなことは消してありません。
今回は腰や肩などの怪我や不調を抱えている参加者さんも多かったのですが、それぞれに「現在の身体でできる範囲での練習」を指導していたのが印象的でした。そしてマイソールクラスの間じゅう、タリック先生の「リラーックス:D 」の声が、本当に何度も何度も聞こえてきました。
そして後半はレクチャー&ワークショップ「スリアナマスカラから学ぶアシュタンガヨガの基礎」。初心者さんから上級者まで、すべてのレベルのアシュタンガヨガ練習生のために、大切な基礎の部分を学ぶ内容のクラスでした。
前半のレクチャーでは、ビンヤサとはなにか、アサナとの違いはなにか、それぞれの特性はなにか、それぞれが互いに影響しあって生み出されるのはなにか・・・といった普段あまり意識しない部分を「再確認」することから始まりました。
アシュタンガヨガにおける「柔軟性」と「力強さ」のバランスは、アサナとビンヤサを共に行うことによって整っていきます。アサナによって柔軟性と集中が養われ、ビンヤサによって力強さと熱が生まれてきます。
アシュタンガ・ビンヤサ・ヨガ・システムの原点となった「ヨガ・コルンタ」という古代テキストにふれ(・・・現存していないので真偽のほどは別として)、その中で
“O Yogi, do not do asana without vinyasa”
(ヨギよ、ビンヤサなくしてアサナをするなかれ)
という一説があったことから、ビンヤサの重要さと、ビンヤサこそがアシュタンガの礎となっているとの説明がなされました。
そしてビンヤサは、単なるジャンプバックとジャンプスルーの独立した動きだけを指すのではなく、すべてのポーズに入るまでの道のりと、そのポーズから出てくる足跡、その全ての動きが呼吸とバンダとドリスティによって導かれ、ひとつの流れとなって繋がっていくことであるということを、実際の練習のときに、自分の身体を隅々まで意識的に観察するように、マンインドフルに行うことで、練習の質そのものが劇的に変化する、ということを、何度も繰り返していました。
また、動きを導く呼吸が、それぞれ本当に丁寧に「吸いきって」それから「吐き始め」そして「吐ききって」から次の吸気に繋がっているかどうか、の問いに、はっ!とした方は多かったのではないでしょうか。毎回何度も繰り返すビンヤサの動きは、おざなりに、惰性的に、楽に流すようになりがちです。しかし、こういう見落としがちな部分こそ、どれだけていねいに意識的に練習するかがとても大切なのだ、と思いました。
プライマリーのシッティングに入ってからのビンヤサ、とくに左右のポーズのある場合は、病気や怪我などの特別な事情がない限り、飛ばさずに行うのがベストとのこと。なぜなら、ビンヤサにはリセットをする効果があり(これをタリック先生は「お口直し」と表現していました)、それにより常にバランスを上手くとっていくことができるからです。
そしてこのビンヤサを可能にするために、トリスターナ、すなわちアシュタンガヨガの3つの神器があります。視点を定めるドリスティ、呼吸&バンダ、そしてアサナです。タリック先生はこのトリスターナを、「集中のための重要なポイント」と表現されていました。ヨガはすなわちマインドの練習であり、難しいポーズ云々は目的ではなく、あくまで集中をもたらすためのツールであるという前提で、練習における呼吸と集中の大切さを説いた後だったので、初心者の方々にもとても分かりやすい説明でした。
このトリスターナはアシュタンガヨガの「入門クラス」などでは、必ず最初に説明される事柄ですが、興味深いのは「バンダ」をどこに位置づけるかによって、その先生がどのように練習を積んできたのか、どんな指導者についてきたのかが見て取れます。逗子で先日ワークショップを行ったバリー先生はバンダをアサナの一部として、マイソール横浜の初回指導者のダン先生はバンダを独立したものとして、以前教わっていたスティーブン先生はタリック先生同様バンダを呼吸の一部として、トリスターナの説明をしていました。
さておき、理屈としてのトリスターナは脇に置いて、このトリスターナが実際の練習において、どのように働くのかを、検証しつつクラスは実技へ移っていきました。
では普段の私達の練習は、トリスターナ的には、どんな感じでしょう?多分、取り組んでいるアサナに、まず意識が真っ先に向かっているのではないでしょうか。うーん・できない、うーん・つらい、等々・・・そして、次に呼吸に意識が向くかもしれません。そしてもしかしたら多分ドリスティにも意識が向く・・・かも?といった感じ。
タリック先生は、まずはドリスティに意識を向け、次に呼吸(すなわちバンダ)へ、そして結果としてアサナがついてくるのだ、と説明しました。私達のマインドはいつも気が散ってばかりです。練習の途中で気が散ったら、まずドリスティに戻りましょう、そして呼吸にもどりましょう。と。
ドリスティは意識の集中をもたらすツールであると同時に、背骨全体を整える働きもあるので、同じアサナでも身体の状況によってドリスティが変化していきます。タリック先生は、ご自身の怪我の経験からか、特に首を大切にするアライメントを推奨し、ほとんど全てのポーズで、肩を耳から遠ざけて首を長く伸ばしてスペースをとるように指導します。たとえば、パッシモッタナーサナでお腹がペトンと足につくならドリスティは鼻先(シャラートを含む大半の指導者はドリスティ=つま先と指示します)にして、首を含む背筋全体をまっすぐ気持ちよく伸ばしましょう、とのこと。
呼吸に関しては、まずはなによりも呼吸を最優先することと、「アシュタンガヨガは呼吸の練習」であることを再確認。そして前述しましたが、意外と見落としがちなのが、呼吸を「吸いきる・吐ききる」ことと、吸う息と吐く息が均等に同じ長さになる、という2点です。例えば太陽礼拝では、チャトランガやアップワードドッグなどが短くなったり、Bのビラバドラーサナへの移行で長くなったりと、なかなか均等な呼吸にはなりません。吐ききらず、吸いきらず、中途半端な呼吸で次の動きに移らないよう、そういう「意識的な」練習をするよう、とても強調されていました。
そしてアサナは、筋肉の力で無理に行うのではなく、呼吸を使って深めていくように、呼吸を深めてポーズに「溶けていくように」入ってみましょう、と何度も力説されてました。呼吸で深めるアサナでは怪我はしないということ、アサナの途中で呼吸が止まったら、それ以上深めないようにするということ、つまり呼吸とともにリラックスしてアサナを行いましょう、ということ・・・当たり前のことですが、できないアサナと奮闘しているうちに、ついつい忘れてしまう重要なポイントでした。そしてタリック先生は、こう言います。
「沢山の生徒さん達を教えてきましたが、上級者と初心者の違いは、ポーズが“できる・できない”とか、“上手・下手”とかではなくて、リラックスの度合いです」
バンダについては、この後の実技で普段の10倍20倍くらい強く意識してエンゲージするよう指示されるのですが、決して身体の緊張は伴わない、ということが印象的でした。バンダを解剖学的肉体における力学でのみ捉えるなら、それは筋肉の単純な収斂を意味しますが、もう少し繊細な微細な次元で捉えるのなら、それは体内エネルギーの保持を意味します。バンダを呼吸の一部と捉えるタリック先生の意図することは、呼吸=プラナすなわち生命エネルギー(気の流れ)のコントロールの延長線上にバンダという概念がある、といったところでしょうか。
ウディアナバンダは、「ビーチでカッコイイ異性に出会ったときに、自分を少しでもスマートに見せるためにキュッとお腹をへこませる“あの感覚”」、ムーラバンダは「グルジが生徒にムーラバンダの説明を求められると“肛門をキューっとしめる、以上!”とだけ答えていた」という話がありましたが、バンダがすなわち「お腹をへこます」「肛門をしめる」という粗大な肉体の大きな動きだという訳ではなく、最初のとっかかりとして行う粗大な肉体の動きによって引き起こされる、身体の内部の奥のほうで発生する微細なエネルギーの変化、それをコントロールするのがバンダなのだ、というのがタリック先生の意図するところだったと思います。肛門をギュっとしめた結果、体幹の奥のほうでエンゲージされる「バンダ」が制御できるようになれば、もう肛門をギュッとしめる必要がないように、「バンダは強く意識して、だけど身体の筋肉は使わないで!」という表現がなされたのではないかと思います。
以上をふまえた上で、スリアナマスカラABを、何度もブレークダウンして説明、そして実践、そして説明、さらに体感する・・・その繰り返しで、実際に身体に落とし込んで、それぞれの参加者さんたちが、それぞれの気づきと学びを発見していったことと思います。
呼吸を均等に、全ての呼吸をていねいに吸いきって吐ききる。ドリスティを意識して、背骨にスペースを作り、胸を開き、膝や肩に負担がかからないアライメントで、呼吸に先導されるように、前進を伸び伸びと気持ちよく広げ、体幹の奥はしっかりとバンダをエンゲージして身体を保護して、少しアイアンガー寄りの無理のないアライメントで、スリアナマスカラからスタンディングのポーズをいくつか、全員で一斉に練習していきました。
毎回の練習で何度も繰り返しているポーズが、理解を深めて意識的に行うだけで、これだけ様変わりするものなのか!と思うほど、皆さんの練習光景はとても美しかったです。
「一番の先生は練習。私はちょっとだけ経験が長い、みなさんのガイドです」
とタリック先生がおっしゃていましたが、今回のWSはタリック先生が自身の練習から得た沢山のポイントやアドバイスが満載でした。参加された方々にとっては、今の自分にドンピシャなものも、ピンとこないものもあったかもしれません。でも、本来の先生である「練習」をこれからも続けていくことで、今日蒔かれた沢山の種は、きっといつの日かひょっこりと芽を出しているかもしれません。
そしてWS全体を通して伝わってきたメッセージは
「せっかく私達はマットの上に立っているのだから、体操じゃなくて、ヨガをしましょう」
「アサナを完璧にすることが目的じゃないから、あんまり執着しないで、まずは練習を楽しんでね」
という言葉に凝縮されていたような、そんな気がします。
ご参加された皆様ありがとうございました。
タリック先生ありがとうございました。
最後ですが、タリック先生の名言集
オレンジ・スクイ~~~ズ
ビンヤサでお口直し
ウトプルティヒは、やり放題
(日本語上手すぎ)
みんなのためのアシュタンガ
確かに、サマスティティヒから始まる太陽礼拝から、最後のウトプルティヒを終えてサマスティティヒへ戻るまで、常に呼吸に合わせた決められた一連の動きを、止まることなく行っていくこの練習は、スタミナと柔軟性と力強さが知らずと培われるほど、私たちの心身に努力を要求します。
ただそれは、あくまで練習する方自身の環境やコンディションによって、適切な努力を行う、ということであって、決して不要な無理や頑張りをするということではありません。体力のない方も、柔軟性のない方も、それなりの適切な方法で、無理なくゆっくりと練習を進めていけるのが、アシュタンガヨガの、特にマイソールスタイルの練習の良い部分です。
アシュタンガヨガは本来、病気や怪我をしていても、若くても年をとっていても、全ての人に対応できるシステムのヨガです。ただし「怠け者」は除く。
とはいっても、私たちは常にエゴを抱えて生きていますので、できないことや、つらいことから逃げたり、反対に無謀な戦いを挑んだりしがちです。「できる気がしない」と言いながら努力をせずに結果がでないと嘆いてみたり、心身のコンディションを省みず無謀に無理をして怪我をしたり・・・。
肩が痛くて手が上がらなかったら、上げないで練習をすればいいのです。ポーズの外側のカタチだけに囚われず、そのポーズのエッセンス~心身に及ぼす効用を最大限に生かす練習をしてください。色々な工夫があると思います。試行錯誤も時には必要です。行き詰ったら指導者に相談しましょう。指導者というのはそのためにいます。
先日見たYoutubeの動画です。大腿骨を骨折した男性がアシュタンガヨガの練習を行っています。これを「アシュタンガじゃない!」と糾弾する方がいたとしたら、多分その方はヨガの本来の意味を履き違えてらっしゃると思います。
できるか、できないか、といった「白か黒か」的視点で物事を判断することで、私たちの限りない可能性をがんじがらめにせず、さらに広い大らかな視点で、限られた条件化での自由と変化を謳歌していきたいですね。
明日もよい練習を!
タリック先生のレクチャー&ワークショップの詳細
当初は「入門クラス」と明記しておりましたが、内容詳細をつめていった結果、初心者から上級者までオールレベル対象となりました。
アシュタンガヨガの練習で、とても大切な「アシュタンガヨガの基礎の基礎」を、太陽礼拝というシンプルかつ深遠なシーケンスを介して、新たに深く学ぶまたとない機会です。
アシュタンガヨガに関わらず、ある程度の経験をつむと私たちは、「わかったつもり」とか、「知っているつもり」といった、一種の傲慢な気持ちが生まれてきます。「私には基礎クラスなんて必要ない」という色眼鏡をかけてしまい、そこから新たな学びを得ることを自ら放棄してしまうことがあります。
ビギナーズマインド。常に初心者の気持ちで、あらゆるものに対してオープンになり、見るもの聞くものすべてが、新たな学びの源であると、謙虚になることで、たくさんの発見が生まれてきます。いつもキラキラの心でワクワクと過ごした子供の頃のように、新しいなにかを学ぶ喜びこそが、本当に大切なことなのではないかと思います。
11:30~13:30 レクチャー&ワークショップ
「スリアナマスカラから学ぶアシュタンガヨガの基礎」
【詳細】
その動きの要素ひとつひとつを、ていねいに注意を払いながら確実に習得していくことによって、あなたのアサナの練習に大きな変化が顕れます。
ひとつひとつのアサナを単独で練習することよりも、アサナとアサナをつなぐ間を、ビンヤサと呼ばれる動きをどのように行うかの方が、より多大な影響を私達の練習にもたらしてくれます。
このワークショップでは、すべてのヴィンヤサのあらゆる側面に焦点をあてて、ステップ・バイ・ステップ方式で段階を追いながら進めていきます。適切な呼吸 とバンダそしてドリスティを明確に理解・体現しながら、正確なアライメントとビンヤサイン&アウト(ポーズへの入り方&出方)を、しっかりと学んでいきま す。
このワークショップは初心者から上級者まで、オールレベル対象です。
お時間のある方は、ぜひどうそご参加ください!















