全員が戦時急造の搭乗員で、年齢も背景も様々でした。機長のハットンは25歳で操縦を始め、この時は26歳の既婚者でした。平時なら年を取り過ぎているという理由で失格する所でしょう。ここで2か月後に死の彷徨を共にする9人の氏名と年齢を掲げておきます。
  主操 ウイリアム・J・ハットン中尉(26)
  副操 ロバート・トーナー少尉(27)
  航法士 D・P・ヘイズ少尉(23)
  爆撃手 ジョン・S・ウオラブカ少尉
  機関士 ハロルド・S・リプスリンガー軍曹(22)
  通信士 バーノン・L・ムーア軍曹(21)
  射手 ガイ・E・シェリー軍曹(26)
  射手 ロバート・E・ラモット軍曹(22)
  射手 サミュエル・E・アダムス軍曹
 9人の乗るB-24がソルク基地に着任しましたのは3月下旬、最初は予備員に入れられ、戦場慣れの為一度ずつ分乗させられましたが、爆撃任務には出ない内、4月4日ナポリ港爆撃に出動する命令が来ました。薄いピンク色に塗られました「善良な淑女」号を与えられましたのは、当日になってからでした。
 この頃北アフリカ戦線では独伊枢軸軍が敗退しつつあり、5月にはチュニジアに追い詰められました枢軸軍が降伏します。連合軍は7月に予定しましたイタリア進攻に備え、大規模な爆撃作戦を発動していました。ナポリ港爆撃もその一環で、この日は、アルジェリアから106機のB−17とソルクから25機のB−24が出撃しました。援護戦闘機は足が届かないので、爆撃機だけの高高度爆撃であります。