訓練はロンドン北東のファースフィールド基地で始まりました。8月2日最初のテスト飛行でジョーは爆薬と同重量の砂袋を積んで離陸し、機は「ペリカンの様に浮かんで貨物列車の様に」降りましたが、ジョーの全身は汗みどろでした。続いて母機のベンチュラ機と共に飛び立ちまして誘導を引き渡し、FM電波の指令で左右上下に機を自在に飛行させる経験も積みました。
 ファースフィールドには米空軍の無人機部隊も展開し、どちらが先陣を切るか、微妙な競争が生まれました。
 更に、ノルマンディへ上陸しました地上軍がV兵器発射基地の占領を目指して猛進撃を続けていました。地上部隊に占領される前に早く出撃したい、という焦りは空軍、海軍双方に合ったらしいです。
 結局、第1撃は8月4日空軍の手で実施されます。海軍側が遠い本国から駆け付けました事、悪天候でベンチュラ機が3週間もグリーンランドに足止めされました事が、祟ったようです。
 この日、ジョーも見守る中で第3爆撃師団に所属します4機のB−17は滑走路を1杯に使って浮上しました。母機のB−24と直衛機のP−38編隊が随行します。
 ですが第1撃は完全な失敗に終わりました。1番機のプール大尉は水平飛行に移りました地点で信管のタイマー・ピンを抜いて落下傘で飛び降りましたが、2番機のフィッシャー大尉は同乗者を脱出させました後、母機への操縦を移すのに手間取っている内機体と共に墜落死亡、3番機、4番機の操縦者は降下しました物の、1人は背骨を折ってしまいます。
 そしてプール機は海峡上空で、別の2機は目標のワッテン直前で何れも撃墜されてしまいました。
 空軍は数日後に第2撃を決行しますが、出動しました2機は共に海峡上空で爆発し、目標に届きませんでした。
 こうして12日に出撃が決まりましたジョーは、最初の成功者となる可能性に興奮しましたが、一方では、この攻撃法に何処か無理があるのではないか、と疑い始めていましたようです。
 その前日ー飛行場では10時間かかって、整備員の手で374箱のトルペックス火薬が白色に塗られましたT−11号機に積み込まれました。操縦席迄詰め込んだので、同乗するウイリーは座る席がなく、主操縦席のジョーの背後に立ったまま乗り込む事になりました。
 整備が終わると、もう一度点火回路のヒューズがチェックされ、計器でアンペア量が計測されました。異状なし、全ては順調に進んでいるかの様でした。だが点検を済ませて宿舎へ帰る途上で、オルセンは肩を並べたウイリーに、「フィラデルフィアで工事を急ぎ過ぎましたのか、回路の設計にちょっと心配な点があります」と言い出しました。「しかし回路は修理して、もう1つ安全ピンを入れましたじゃないか」とウイリーが反問しますと、オルセンは口籠りまして「それでいいはずなんだが、最初の設計をもう少し念入りにやってくれていればね」と半ば独り言の様に呟きました。「心配するな。100%の安全なんて無理なんだ」
 オルセンには、ジョーが同乗者としてウイリーを指名しましたのに引っかかる気持ちも゙ありましたが、それ以上言うのは控えました。
 その夜、ジョーは飛行場から戻ってくると、フライパンで卵のスクランブルを料理して同室のシンプソン大尉に勧め、恋人に電話をかけて暫く話し込みました。2人は翌日の日曜日に友人のサイクス夫人邸で会う約束をした様でした。それからいつもの様に、跪いて就寝前のお祈りをすると、ベッドに潜り込んだのをシンプソンは記憶しています。