1941年10月
 季節的な長雨がロシア戦線を泥土と化し、ドイツ軍の進撃を鈍らせ、或いは停止させました。フィンランドは防衛一辺倒の態勢に変え始め、その姿勢を戦争終結迄維持しました。同国の対ソ攻撃作戦は1941年12月で終了しました、1941年6月以来の同国の死者は2万5千人に達しました。ソ連は工場で生産されましたばかりのT34戦車を前線に振り向けました。この戦車の出現で、ドイツ機甲部隊の優位性は終わりを告げました。同時期、モスクワ南東の戦線で、ドイツ軍はソ連軍を粉砕、70万人以上のソ連兵を殺害、又は捕虜にしました。

1941年11月5日
 石油の対日輸出禁止という連合国側の経済制裁に耐え切れなくなりました日本は、太平洋地域における英・米・蘭の植民地に対し、戦争に踏み切る事を決意しました。

1941年11月25日
 ドイツ軍は最後の猛攻でモスクワへ後19マイルの地点に迄迫りましたが、そこで食い止められました。これが北部戦線でのドイツ軍の進撃の極限でした。戦闘開始後5か月間で、ドイツ軍はソ連兵200万人以上を殺すか捕虜にする一方、ドイツ軍の損害は75万人に留まりました。ここから形勢が逆転します。

1941年12月6日
 ソ連は100万人の新兵力を投入、兵站線の延び切りましたモスクワ前線のドイツ軍を叩きました。この日から始まりましたソ連軍の2か月間に渡る反攻で、ドイツ軍は100マイルの後退を余儀なくされました。偶然な事に、この日からアメリカは原爆の製造に取り掛かりました。