部隊が師団単位で帰還するとなると、装備を完全に整え直した上で、ブロードウェーで勝利に歓喜する群衆にパレードで応えてやらなくてはなりませんでした。これが第1次世界大戦後に帰還しました歩兵部隊の凱旋方法でしたが、結果として第2次世界大戦後には大きな戦勝パレードは稀でした。
 殆どの部隊は、入念に作られました「点数制度」に基づいて兵隊単位で帰国しました。入隊中に兵隊は毎月、1点を貰う。海外派兵中は1点増しとなります。戦闘に従軍中は更にもう1点増しとなり、妻や扶養家族がありますと、それに応じて点数が増えます。受給点数が高い程早く帰国の途に付けます。
 この点数制度は、幾つかの部隊を骨抜きにしてしまいました。例えば第45歩兵師団は、再訓練と太平洋への転進のために1945年8月に一旦アメリカ本土に帰す予定になっていましたが、それまでに将官600名、兵隊1万1千名、つまり全師団の65%が帰還してしまいました。砲兵スタッフ等はたった1人残っただけ、それも師団の砲兵司令官その人でしたのです。
 欧州からはVEデー(第2次世界大戦欧州戦勝記念日=1945年5月8日)と共に、それも慌ただしく帰還が始まりました。最初は部隊の移動は純粋に陸軍の問題でした。と言うのは、海軍は欧州で不必要な戦争を免除されました後、全てを太平洋に注ぎ込んでいましたからです。最初の移動には、戦時船舶庁の600隻近い船舶と若干の雇用船が充てられました。それにクイーン・メリー号とクイーン・エリザベス号の超豪華客船2隻も含まれていました。この豪華船はそれぞれ1万5千人を乗せる事が出来ました。その後直ぐ日本が崩壊し、時期は予想しましたより1年も早かった。