エチオピア 1936年にイタリアに占領されると直ぐエチオピアでの活発なレジスタンス運動が広まりました。1941年にはエチオピア救援に乗り出しましたイギリス軍がイタリア軍を制圧しましたが、イタリア兵はエチオピア人パルチザンの怒りの前に屈するよりはと、イギリス軍に我先に降伏しました。

欧州のユダヤ人住民 ドイツのユダヤ人絶滅政策に対する地下抵抗運動は欧州のユダヤ人住民の間に急速に広がって行きました。各地で森に逃げ込んだユダヤ人達は、ドイツを始め他の枢軸軍に抵抗するゲリラ組織を結成し、各地でパルチザンと協力する事が多かったが、たまには彼らに拒絶される事もありました。各地のユダヤ人ゲットーでは自衛の為に武装しました。ワルシャワのゲットーの場合、勇ましく蜂起しましたが、残忍な殺し方で潰されました。
 レジスタンス・グループは強制収容所の内部でも結成され、時々反乱を起こしました。多くのユダヤ人は、ユーゴスラビアのパルチザンの様な各地の民族主義者のレジスタンス・グループに参加しました。
 ユダヤ人の武装レジスタンスがそれ程多くなかったのは、1つにナチがユダヤ人大量虐殺計画、所謂「最終的解決」をゆっくりじわじわと、且つ賢明に始めていました為です。この絶滅計画が決定されましたのは1942年になってからでした。その後も秘密にされてきました(この種の事柄が秘密を保たれる限りですが)。ドイツがユダヤ人の虐殺を始めても、ひたすら犠牲者を人目に付かない様にして終戦を待とうとしました。ナチや各地の反ユダヤ主義者から迫害を受け続けますと、ユダヤ人にはその目を掻い潜ってパルチザンに参加しましたり、武装レジスタンスを組織したりする事が不可能になっていきました。それでもユダヤ人の抵抗にはかなりの威力がありました。