サーブロン・システムは戦略的に大きな意味を持っています。戦争初期、戦闘艦、取り分け空母は作戦が終わる度、弾薬や食料補給の為母港に帰らなければなりませんでした。サーブロン・システムが出来てから、空母機動艦隊は作戦行動の前夜にサーブロンと洋上でデートし、燃料、食料、部品、交代要員を積み込んで出撃する事が可能となりました。
 作戦行動中も、1944年中頃迄通常3乃至4隻の空母で構成されていました個々の機動部隊は、必要に応じてサーブロンとランデブーし、補給を行い、その間は姉妹艦隊が戦争を続行しますという事も可能になりました。この方式ですと、機動部隊は必要に応じて交互に作戦行動を何時までも取れる事になります。この点での戦略的意味は大きいです。日本軍を常にアメリカ軍の圧力下に置けたからであります。
 この補給システムは実に効果的でしたが、戦争末期になると、苦しい面も出てきました。太平洋に展開しているアメリカ軍の規模が巨大な物になるに連れ、燃料、弾薬、食料等に対する需要も膨れ上がり、1945年春、夏の沖縄戦の頃には物資の不足状態が生じて来た事であります。政治的理由や誇りの問題を別とすれば、この補給物資の不足が、イギリス海軍を太平洋の最後の作戦に参加させなかったアメリカ軍の1つの理由であります。しかし、イギリス海軍はサーブロンの長所を自分自身の為に利用しようと試み、全部で92隻の補給船団を持つに至りました。そのうち、17隻はタンカーで、13隻が弾薬船でした。
 こうした効果的なアメリカ海軍の補給体制に比べ、日本海軍の補給体制は戦争初期から全く不適切という他ないです。マリアナ作戦の頃になっても、フィリピン海の戦闘に参加しました機動部隊に対する日本の補給船団ですら、小型タンカー6隻で構成される燃料補給グループ2つと、同数の護衛駆逐艦だけで構成されていました。その多くは民間の商船会社から供出させたもので、民間の乗組員が操船し、洋上での補給を可能にするような改装も行われていませんでした。結果として、日本は遂に一度として洋上補給を学んだことはなかったのであります。