近くに墓地登録部隊がいない時は、部隊の指揮官が兵隊の士気に留意しまして、即席の葬式を行いました。部隊によっては、葬儀屋でした人達を探すと、何人かはいましたものであります。この俄仕立ての墓地登録班員達は更に幾つかの葬儀をこなした後、戦死者の面倒を見る任務に付きました。これは容易ならざる仕事でした。熱帯性気候の中では、死体は急速に腐乱していきます。悪臭が物凄いのは言うまでもないが、埋葬されない死体から発生する病原菌による感染の問題もありました。墓地登録班は出来るだけ早く戦死者のところに行こうとしました。IDタッグ(身元確認票)がなくなっています死体の身元を確認するには、指紋を取ることが1つの方法でしたからであります。これにより確度が落ちる方法は身長、髪の色、入れ墨、傷等身体的特徴をノートに書き留めて置く事でした。
 こうした方法も、死体が腐乱してきますと、歯の手入れ具合等を除けば、非常に難しくなります。墓地登録班の次の仕事は墓地の場所を決め、墓穴掘りを監督する事でした。墓穴掘りの経験者を探すのは容易でした。兵士が戦場で応急に埋葬された場合でも、墓地登録班は取り敢えず埋葬しました場所を注意深く記録して置く等、何を記録して置くべきか知っていました。
 1944年にもっと多くの墓地登録部隊が到着するまでに、少なくとも味方の戦死者に付いては、一応処理出来るようになっていました。日本人の死体はもう1つの問題でした。というのは、日本軍は最後の一兵迄戦って死ぬ傾向があったからであります。日本軍が塹壕や洞窟の中で戦死した場合は、入口を塞げばそれで良いから、そんなに問題はなかったが、アメリカ軍陣地の前で何千人という兵士が折り重なるように死んでいる場合が良くありました。こうした死体を大急ぎで埋葬する事は大仕事でした。
 その上、まだ生存している日本兵は、死体を片付けています墓地登録班の兵隊を狙撃しようとしました。もう1つ奇妙な事は、ジュネーブ議定書が戦死者は敵味方を問わず、平等に扱う事を決めている事であります。特に欧米の場合、基本的には身内の人に取って、彼らの最愛の人が死亡しました事を確認し、「戦闘中の行方不明者」のままで済まされてしまわない事が必要でした。日本人の死者の場合は、最後の儀式は頭数を勘定して共同墓地に埋葬しました。祖先崇拝を大切にしている国にとって、これは辛い事でした。事実、今日でも、多数の日本人遺族が太平洋の古戦場を訪れ、肉親の遺品を探す虚しい努力を続けていました。
 アメリカは太平洋戦争の勝者ですが、何千人というアメリカの戦争行方不明者もまた太平洋の島々の茂った植物の下で、墓標もない墓場に眠っています。