多くのアメリカ人は中国での戦争を太平洋戦争の一部でしたとは思っていません。しかし実際には、中国での戦闘はアメリカ人が太平洋で体験しましたものより遥かに激しく、かつ凄惨な物でした。中国での死傷者は真珠湾の前にも、後にも数百万人に達しました。明らかにそれは日本の中国侵略であり(様々な「事件」をどう判断するかによって、開始の時期も1931年、1935年、1937年と変わって来ます)、この侵略が最終的にはアメリカを第2次世界大戦へと巻き込みました。
 日本は1880年代から一歩、一歩と中国、朝鮮内陸部に足を踏み入れて行きました。中国情勢を動かす日本の将軍達は、次第日本東京の政府の言うことを聞かなくなっていきました。破壊工作と威嚇を手段に日本軍首脳部は中国の広範は地域への支配権を確立しました。1930年代迄に100万人以上の日本人入植者が満洲に移動しました。しかし、日本政府は中国にいる日本の野心的な将軍達を、一度として抑えようとはしませんでした。1936年、陸軍若手将校達によるクーデターが起こりました。これは未遂に終わりましたが事件が鎮圧されるまでに何人かの政府首脳が東京で暗殺されました。これらの若手将校達は中国での戦争に対する支持拡大を望み、それを手にしたのでした。
 1937年、日中間で大規模な戦争が始まりました。満洲及び沿岸各地から出動した日本軍は中国奥地へと兵を進めました。当時の関東軍は30万人。これに日本軍将校が率いる満洲人、モンゴル人の部隊が15万人。それに対して中国側は200万人以上の武装兵力を持っていましたが、装備も訓練も指揮も日本軍より遥かに劣っていました。2年間で日本軍は中国奥地に達しましたが、進撃速度は遅く、死傷者は激増しました。1939年に日本軍は再び、かつての破壊工作と消耗作戦に戻ることを決定しました。この政策は1944年(5月から11月にかけて)中国中部のアメリカ空軍基地を蹂躪するまで続けられました。1937年と1944年の日本軍の作戦進行を妨げましたのは、補給の問題と中国人の執拗な抵抗でした。更に中国側がアメリカから受けました軍事援助と訓練は、1941年以来増大していました。1944年の中国軍による攻勢で日本軍の力は尽きかけました。1945年夏、日本軍がソ連軍にあっさり降伏する条件は熟していましたのであります。
 太平洋戦争の期間中、日本陸軍の大部隊は中国にいました。中国軍はその時期の大半、活発ではなかったけれど、日本軍の精鋭部隊は中国戦線に忙殺され、太平洋やビルマ戦線に兵を割くことができませんでした(最も戦争後半には日本軍は輸送船を持っていませんでしたが)。従って、一般には無視されていますが、中国は連合国の勝利に決定的に重要な役割を果たしています。