太平洋戦争を勝利に導くための戦略は、日米で全く違っていました。アメリカが戦争に先立って立てました「オレンジ計画」では、中部太平洋を突っ切ってフィリピンに行く事になっていました。中部太平洋諸島の大半は日本の統治下にあり、その多くは厳重に要塞化されている事が分かってました。そこで戦うとなれば、主要戦力は、戦艦で、空母がその支援に使われます。敵の戦艦と遭遇しましたら、決定的な戦いが行われ、アメリカが勝ちます。6か月余りで戦いは片が付くでしょう、という事になっていました。
 1930年代の後半迄に、アメリカ海軍の将校達はオレンジ計画では上手く行かないという事に気付き始めていましたが、かといってそれに代わる計画が提示された訳でもありませんでした。無論、海軍の考えていました事は正しかった。実際に戦争になりました時、フィリピンを始め、ハワイより西の殆どが日本軍の手に落ち、真珠湾で沈まなかった艦船も空母艦載機の攻撃に晒されるようになってしまいました。この為、アメリカ軍はやむなくオーストラリアを太平洋に於ける前進基地にしました上、先ず南方から前進を開始、ニューギニアを通って戦争開始から3年後にフィリピンに到達しました。これを支えたのは空母と地上基地からの航空機でした。一方、1943年末までにアメリカ海軍は多数の空母と支援艦を建造しましたので、中部太平洋経由の攻撃を提案しました。圧倒的な空母空軍力と大規模な上陸作戦で、この中央突破は達成されました。同作戦遂行に関しては陸軍に手出しさせまい、と海軍の提督達は決心していました。
 これに対し、日本軍の作戦は太平洋のできるだけ多くの島を手中に収め、これを陸軍と航空機で防衛する事によって、連合軍が日本に来られないようにする事でした。だが、これは上手く往かなかった。日本の戦略の要になっていましたのは軍事資源であります。日本本土には殆ど天然資源がなく、産業に必要な資源は全て輸入に頼らねばなりませんでした。中国と朝鮮は日本に充分な鉄鉱石と食料を供給できましたが、石油はインドネシアから入れねばなりませんでした。
 日本がアメリカ、イギリス、オランダと戦争したのは石油へのアクセスを確保するためでした。日本の戦略は絶望の戦略でありました。結果としてインドネシアの油田は日本の必要を満たすだけの石油を生産できませんでした。もっと問題なのは、インドネシアからの石油輸入に必要な油送船を、日本は建造出来なかった事であります。連合軍の潜水艦は日本の船、特に油送船を沈めていきました。日本軍の指導部の多くはこの戦争の無益さを認識していましたが、兎に角上層部の命令を実行しました。日本軍にあっては「辱めを受けるより死を選ぶ」というのは単なるキャッチフレーズではなかったのであります。