しかし、その進撃も、要塞化された町、トブロクで止まった。その後、4月の終わりから111月半ばにかけて、リビア・エジプト戦線で押しつ押されつの戦いが続きました。独伊両国から機甲師団の増強を得ましたロンメルは、イギリス軍の支援部隊を迎え、同時にトブルクの占領を図って、殆ど成功するかに見えました。だが、11月に増援部隊を加えましたイギリス軍は、逆に彼を押し返し、スタート地点に迄後退させました。
 1ヶ月も経たないうちに増援軍を得たロンメルは、日本軍が地球の裏側で大英帝国に襲いかかったニュースにも勇気づけられ、再攻撃を開始し、2週間以内(1942年1月21日ー2月4日)にトブルク近郊まで押し戻しました。ここでイギリス軍は、町の前面に念入りな防衛線を構築しました。「ガザラ線」であります。両軍は膠着状態に入りました。5月末、イギリス軍が増強中なのに気づいたロンメルは、攻撃再開の許可を得ました。
 両軍の果敢な戦闘の末、ロンメルはイギリス軍の側面を抉り、イギリス数個師団を孤立させました(重装備を捨てて全員が脱出しました)。「ガザラの戦い」は1942年5月26日から6月13日まで続きました。トブルクの陥落は、1942年6月21日であります。次の29日間で、独伊軍は200マイル先のエル・アラメインまで進出しました。
 ここには地中海からカタラ窪地まで、通行不能に近い約30マイルの塩泥地が走っており、イギリス軍司令官のクロード・オーチンレック卿は、ここで迎撃態勢を整えました。7月初め、機動戦による死闘が続き、独伊機械化軍団の進撃は停止しました。対峙しました両軍は、第1次世界大戦の第2次世界大戦版とも言うべき長期戦に突入しました。鉄条網が延々と幾重にも延びる砦が築かれました。