◎あるタイガースフアンの 一(激)喜 一(激)憂

 
あるタイガースファンの一喜一憂。

勝った次の日は最高の笑顔で最高の上機嫌。
負けた次の日は、だれも近づけないくらいの世界中の不満足を一人で背負っているような不機嫌。
「551の豚まんがある時・・・ない時・・・ 」 よりももっと大変な恐ろしい違いです。
 
 
 

勝った時は、機嫌よくずっとニコニコして周りの人とよくしゃべっています。でも、負けた時は、不機嫌を通り越してずっと怒っているようです。だれも声をかけることができません。
ですから野球に興味のない人でも毎回阪神が勝つことを願うほどです。

私はまわりから温厚とか怒ったりしない優しい人のように思われています。(本当は自分が思っているだけかもしれません。でも、本当は、そのように装っているだけです。)
どんなことを言われても、どんなことをされても、その時に怒りを爆発させたことがありません。でも、家に帰ってからムラムラと怒りがこみ上げてきて我慢できないくらいになります。
すぐに怒る人を瞬間湯沸かし器とか言いますが、私は三日遅れくらいの蛍光灯です。

私は嬉しいことがあれば喜び、悲しいことがあればどん底に落ち込んでしまう者です。
私も先に書いたタイガースファンのように一(激)喜一(激)憂する者です。

しかし、クリスチャンは、いつも喜ぶことができます。
どんな困難や苦しみがあっても、いつも喜ぶことができます。

「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
<新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節>

私たちのまわりには、喜びを奪ってしまう泥棒がいます。

第一に、状況が私達の願い通りでない時、私達は喜びを失います。  

第二に、回りの人々の存在・言葉・行動が私達の喜びを奪います。

第三に、持ち物の有無とか、欲しいものが手に入ったか入らなかったかとか、せっかく持っていると思っていたものを失ってしまった、ということも私達の喜びを簡単に左右し、奪います。

第四に、私達は明日のこともわからない存在ですから、実に様々な思い煩いによって喜びを奪われています。 

しかし、、いくら「喜び泥棒」に出会っても、決して奪われない喜びを持つことができれば素晴らしいことです。
実はそれこそが、神様が下さる喜びなのです。 

それはどのような喜びなのでしょうか。
 
 
 
私達が喜びを失うのは、喜びの土台を、過ぎ行くもの、変化するもの、頼りないものに置いているからです。 
しかし、喜びの土台を、決して過ぎ行かない永遠のもの、変わらないもの、絶対に信頼して裏切られないものに置くならば、私達の喜びはどんな時にも奪われないのです。  

聖書はその永遠に変わらない信ずべきものは神でありキリストであると教えているのです。
 

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