覚え書き | ☆ココロの星屑たち☆

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喜びと悲しみとひとカケラの幸せ。。。AKKOの呟きブログです。
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教理や他人の証を頭に詰め込んで自分の行動や考えを合わせると
形だけ口だけの『クリスチャン』『教会員』『新生』『永遠の命』の身分を与えられて、実際は聖書も神も分からなくなり、一生その教会と牧師に縛られます

『全的堕落の罪を認めて自分を全否定しないとキリストが来ないし聖霊に満たされない』などと言う人の教えが最も悪いものです

自分を知るのも罪を悟るのも聖書を理解するのも、
すべては最初に素直にキリストという方を知って信じ、どの人にも例外なく内側にすぐに来られるキリスト、聖霊によります

誰もあなたを責めず、罪は赦されている
福音書のキリストはそう語りかけています
まず最初は「共にいて、すでに赦しているキリスト」が入口で
キリストが私たちの目に映るもの感じるものを共に見ていくこと、
キリストがどう人の心を休ませてどう赦しどう見ているかを知っていくことが健全でまっとうな道筋です
悪い教会には存在しないキリストの伴い赦し心の安息です

最初に私たちが罪を悔い改めたから救われるのではなく
キリストが最初に私たちを愛し赦したことからすべてが始まります

聖書信仰の名をかたって人間的な罪の悔い改めの強要を絶対条件にする福音派聖霊派の救いで心を固めてしまうと、
自分で自分をその中に入れないと平安でいられなくなり、
それを喜びと平安と天国の国籍だと一生信じ込み、
檻の中に自分を閉じ込めて自分の自由を奪うことに。
そこに熱心に真剣に長く留まるほど、そこからの脱出は苦痛と不安の時間を長くすることになります
私の場合は信じるに足りる他人の善意を信じられないようになり、自分をさえ信じられない状態が何十年も続き、無意識に心が自分と他人を裁き責めていて硬直していました
外面では対人関係のスキルでカバーしようと必死で
それに加えて教理や牧師や聖書信仰やCS教師の教えに心が侵されて子どもの頃から心に非常に大きな負担をかけ続けた状態でした
「あなたはよくここまで生き続けていた」とキリストに言われているかのようです。

他人の善意を信じるられることは人格や心の平安にどうしても必要な事ですが
教会の教える愛や寛容や親切の形は表面的で、意識の下では互いに罪を責め合っている場面があり
それが長い間意識に蓄積すると人間不信になります
また、「自分を責めることが救いにつながる」と無意識に深く刻まれます

彼らは静かに心に浸蝕するカルトです
牧師の私見が入る説教は普通にあって、肩の力を抜いて牧師を人間として見られれば、話を無視できれば健全なのですが、
牧師の言葉を聞き逃さず学び信じる、教会にとっての『良心的姿勢』を求め、世間の価値観や常識さえ支配しようとする権威的な牧師と教会にあるからくり、
そんな教会に週一日以上何年も通い続けられるようになる洗脳のからくりがあって、罪と地獄の恐怖で脅されて救われたいから意識にも無意識にも信仰として受け入れてしまうのです

そんな福音派聖霊派の教会に通ってはいけないし、話も聞いてはいけないと今ではちゃんと思えるようになりました
一見人道的でヒューマニズムを持っているように見せても、彼らは無意識に痛みを隠しつつ、責めと救いを行ったり来たりするような説得をしてきます
それを誰でも通る試練などと言いますが間違いであり、兄弟姉妹と言って縛り合い深い痛みの沈殿を共感することが愛だと勘違いさせます
安心できる依存先帰属先を探して
洗脳された感動体験に支配されて
破壊された自我から湧き出る依存先の理想化が起きます

本来、
キリストが与える命の水は内側から癒し新しく創造し流れ出るもので、
強く意識しなくても少しの信頼があれば人の中に命を生み育みます。

それに対して
悪い教会が作り出すものはキリスト・救い・命・愛を装って人間の意識や強い意志を求める感動的な創作です
行ってはいけない正統教派の教会は確かに存在します
もう影響を受けて縛られてしまっているなら
確実に離れて距離を取り
裏の無い正直な人たちと、教会色に染まっていない人間味と常識を持つ人と、付き合いを早く始める必要があります
それも緊急にです

私のように縛りが深く強すぎると、信仰と人間不信が合体して塊になってしまい素直なつもりでも頑なになっていて
解放に時間がかかります

たぶんそのおかげでこのような記事を一生書き続けることができます

三つ子の魂百までです