覚え書き15 | ☆ココロの星屑たち☆

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喜びと悲しみとひとカケラの幸せ。。。AKKOの呟きブログです。
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キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。

自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分をよく見ることで、受け入れられる愛と導きです。

「信仰の悔い改め」の意味は神に向くこと。
行いを改めるのは、人が神と人格同士として出会って向き合った結果の心と発想の必然。人間的努力だけの結果ではなく、どんな悪い部分も良い部分もキリストと共有する決意で祈る結果だと思います。
結果は一生で変化していって出てくるもので、
神に向いていなければ重荷を一人で背負うことに。

自分をクリスチャンだと思っても、心がキリストに向いているかどうか分からず考えず意識していないと…

教会に行くことが悔い改めや信仰の表れではないこと。

教会は神に向く人の集い。

『教会に行くこと』で神に心が向いている証拠にはならない。

神に向くとは、自分を認めて個人的に委ね、どう生きたら良いかキリストに聞き、導きを乞うこと。

無意識の感情の反応で悪い何かに引っ張られる自覚があればそこから離れられます。

でも自覚できずに流されると、原因より感情、もっと悪いと正義感や使命感に転嫁されて行き過ぎ、苦しさと行き詰まりの処理が難しい。これで認知の歪みを起こすパターンがあります。

神の正義と他人の救いのために、自己犠牲と自己否定を教えられ何年もずっと繰り返され、自分を労ることが一生できず、自分も他人も責め続ける悪いパターンの熱心な信仰の姿です。

人によっては、罪意識と救いからもれる恐怖から細かいことが気になって、意識・関心が引っ張られることが、心の大きな負担になります。
いろいろ気になって気が散って事が進まないことも多く、それも2世は子供の頃からずっと苦しんでいます。

様々な感情が起こり邪魔されるのもその一つかもしれません。
実は感情の問題に気を取られ過ぎると、出口が分からなくなって何を思っていたかも分からなくなって。
感情が過去と今の何に対してスイッチが入って、何のきっかけによって無意識に恐れがフラッシュバックするのか、感情的になると判断できず、他人のせいにしたりもあります。

でも細かいことが気になるのを、焦って否定せず、大きな目標事を進ませる方向に利用するように意思を持つことで力になることも。

すべてを一気に解決するのは難しいので、大まかな常識的なこと、だいたい妥当な目標が見えれば良しとして、
細かいことに引っ張られる自分の中でも、
結局大きな望みは何なのかを見つけること、奥底の平安がある信じられるものかの方が大事で、そこに集中すべきと分かれば、

感情の暴走は、大きな原因を大まかにつかめて納得して、今と切り離せれば楽になります。


自分の内面に正直に、胸を張って正面から望める価値ある関係、共有できる信じられるもの。
人の本来的な希望を叶えるものをいつも見抜いて、そのためにできること、アイデア、妥協してなくても手に入るものを見つけるように。

自分の本望と、どの人にも価値ある信じられるものを見分けること。傷の反応というより心の奥底の本来の願いを見つけて自分を満たしてあげられるものを探して。

祈りの導きはそういうもの。
本来的に欲しいものは、
目に見えるものそのものではなくて、
代わりに満たされそうなものに振り回されることも多いから、
正面から向き合う。
自分にも、他人にも。

神に向き合おうとして、うまく行かないのは、本来の自分や今の本当の自分を知らないからか、逃げようとしたり、見ないようにしているからかもしれない。痛みも希望も、自分だけの感じ方で他人に言えないものがあるものだから。

生きるために心が本当に欲していることを直視できるように求める。

それが祈り。

祈りでキリストと対話し自分と対話して、
本来の自分を見つけて、
自分のために、回り道、迷い道にいることを見抜いて、
見た目だけの良さや的外れな願望と周りに合わせて曲げている心の正義を、自分のために自分を、
取り戻す気づきがあるはず。
 


わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。 主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。
詩篇 34:1‭-‬22 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/psa.34.1-22.JA1955

地よ、主のみ前におののけ、ヤコブの神のみ前におののけ。 主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。
詩篇 114:7‭-‬8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/psa.114.7-8.JA1955

そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
マタイによる福音書 4:13‭-‬16 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/mat.4.13-16.JA1955