風船上戸 -3ページ目

ついていく

インストールされた道徳にもとづいて、「かわいそうな人」を助けたいという単純な感情が起こって、「助ける」ことで充足する。

自分の「やさしさ」というのが、そういう刺激―反応の連鎖なのかと思うたびに、ぞっとします。

結局のところ、「やさしさ」のルールに則って、社会的な道徳行動を遂行することで自尊心を高めているような。


自分と話すことで安心してもらえることは大事なことであって、ミッションではないのに。


悲しんでいるあなた、不安のただなかのあなた、ではなくて、悲しんでいる人、不安な人のことばかり考えている。


肩をもませてもらうと、あなたの苦労の中身はわからないけれど、あなたが他の人とはちがう、たったひとりの苦労をしていることが感じられます。 もちろん、肩の凝らないひとだって苦労はしているけれど、肩をもむことは僕にとってはとても大切な方法。


「すべき」「見過ごしてはいけない」のルールだけがある気がする。

でも、それだけでもない気もする。


「だけ」という思考方法に偏りすぎているだけかも?


不安なあなたの不安が解消されて、たとえば自立心が強くなったとき、わがままのようになったとき、僕はひとりでお祝いできるかなあ。

正直、僕の「やさしさ」には、殺意とまでは言わないまでも、支配欲や、そのつがいの寂しさがあるとおもいます。


自立心が強くなったこと、ではなくって、不安の中で誰かを信じて生きていくあなたに出会えたことならお祝いできるかなあ。

もちろん悲壮感はナシ。



あおだいしょうの話

冬眠明けのあおだいしょうの肉は割に臭くない とじいちゃんが教えてくれました。


朝起きると、まっさらで、依る頼りもありません。


いつもは生臭い自分でも、そういうときはいろんなつまらないことが消え去っているようです。



亡くなった人やいま生きている人のことがぽっかり浮かんできます。

みんな 行かないといけない時間が来て、行ってしまいます。


また一時間もしないうちに生臭くなってゆきます。


おばあちゃんが行って、自分がどう悼めばいいかわからないうち。

あの方の言葉は本当に雪に散らした花の粉のようで、声は柔らかい、かすれた楽器の音でした。

百二年愛して、百二年愛された。


また、おばあちゃんが行きました。

毎朝、眉毛を鉛筆で描いていて、削るのは僕の役でした。

明け方に苦しそうな呼吸をしていたそうです。

その午後、食堂でいつもどおり手早くお茶を入れて、振り返ると、そのおばあちゃんが見えました。

いつもお茶の時間に少し遅れて、車椅子をこいできました。


二人とも、からだじゅうがいたかった。

二人とも、この世に居る場所がないと知って、行ってしまったように思えました。


愛に時間を

おひさしぶりのおやじどの

ポルポトの話を聞いて、外に出たら焼き鳥屋さんが鳥を焼いていた


タテタカコさんのライブは音響が強すぎて、しかめつらしていた我らのおやじは

その話を聞いた後の強烈な音はこれでいいと思った


原爆ドームを見て、外に出た。 ドームボートがあった。


そういうことを、誰がどこでいつなにを、をかっとばしながら話すのには腹が立ったのです。

そういうまざったまんまの経験で、分かれていない経験で、それを息子に伝える。

立った腹に、じょじょにたまっていきました。