故人様をご供養なさる時、時々聞かれるのは「信心」「信仰心」を持つにはどうしたら良いかという事であります。
そんな時、昔教わった通りの御教義を申し上げて私達は「お救い戴くためにご供養するのですよ」と申し上げるのですが、この「救われる」という意味がよく分からないのであります。
これは伝統仏教が興った時の時代背景と関係あります。平安から鎌倉にかけて信じられていた浄土往生とは、お寺を建立できるようなお金持ちで身分の高い人のみの話で、人間扱いされない身分の低い人たちは、地獄に堕ちて苦しみ生まれ変わってもまた苦しい人生を生きなければならないと信じられていたのです。
その様な背景から「誰でも身分に関係なく等しく成仏して敬われ来世では豊かな暮らしを送ることが出来るという救い」を与えてくれるという事を信心したのであります。
身分差別の無い現代では、この様な「救い」の実感が湧きにくいのは無理からぬことではあります。
しかし、熱心にお参りされる方のお話をよく聞かせて頂くと、皆が昔とは違った意味での「救い」を求めていらっしゃることがよく解かります。それは自身の心の中にある「後悔」「寂しさ」といったお気持ちからの「救い」であります。
昔より何でもできる現代、先立つ人に「あんな事をしてやればよかった」「こんな思いを叶えてあげればよかった」などといった自分が今までして来たことへの後悔と不義理をしたことへの懺悔、核家族化でただでさえ少ない身内を失う事で感じる寂しさに皆が打ちひしがれているのです。
しかし、先立たれた方は欲と苦しみの根本である「煩悩」にまみれた肉体を脱ぎ捨てて純粋な「精神」の世界に旅立たれたのです。そこには「心残り」も「後悔」もましてや「恨み」も無いのであります。
皆さんが心に抱き続ける負い目など超越したお心で唯々残せし者が元気で幸せに暮らせることを見守っておられるのであります。
私達の心にある先立たれた方に「後ろめたい心」はとっくに許され「救われている」のであります。この事に気づき自身の残された人生を精一杯生ききる事が御仏の御本意であり、信仰というものであると思います。