平成30年度7月法話

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故人様をご供養なさる時、時々聞かれるのは「信心」「信仰心」を持つにはどうしたら良いかという事であります。

そんな時、昔教わった通りの御教義を申し上げて私達は「お救い戴くためにご供養するのですよ」と申し上げるのですが、この「救われる」という意味がよく分からないのであります。

これは伝統仏教が興った時の時代背景と関係あります。平安から鎌倉にかけて信じられていた浄土往生とは、お寺を建立できるようなお金持ちで身分の高い人のみの話で、人間扱いされない身分の低い人たちは、地獄に堕ちて苦しみ生まれ変わってもまた苦しい人生を生きなければならないと信じられていたのです。

その様な背景から「誰でも身分に関係なく等しく成仏して敬われ来世では豊かな暮らしを送ることが出来るという救い」を与えてくれるという事を信心したのであります。

身分差別の無い現代では、この様な「救い」の実感が湧きにくいのは無理からぬことではあります。

しかし、熱心にお参りされる方のお話をよく聞かせて頂くと、皆が昔とは違った意味での「救い」を求めていらっしゃることがよく解かります。それは自身の心の中にある「後悔」「寂しさ」といったお気持ちからの「救い」であります。

昔より何でもできる現代、先立つ人に「あんな事をしてやればよかった」「こんな思いを叶えてあげればよかった」などといった自分が今までして来たことへの後悔と不義理をしたことへの懺悔、核家族化でただでさえ少ない身内を失う事で感じる寂しさに皆が打ちひしがれているのです。

しかし、先立たれた方は欲と苦しみの根本である「煩悩」にまみれた肉体を脱ぎ捨てて純粋な「精神」の世界に旅立たれたのです。そこには「心残り」も「後悔」もましてや「恨み」も無いのであります。

皆さんが心に抱き続ける負い目など超越したお心で唯々残せし者が元気で幸せに暮らせることを見守っておられるのであります。

私達の心にある先立たれた方に「後ろめたい心」はとっくに許され「救われている」のであります。この事に気づき自身の残された人生を精一杯生ききる事が御仏の御本意であり、信仰というものであると思います。             

平成26年度7月法話

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人生経験の長い皆様の事ですから、今までの人生において様々な我慢・辛抱を経験されてきたことだと思います。
お釈迦様が仰るようにこの世は何一つとして自分の思い通りにはなりません。それを知らず私達は自身の煩悩を満たそうと様々な浅知恵を働かせては見当違いな事を一生懸命成し遂げようと身をすり減らすのであります。当然それでは思ったような成果は得られませんから我慢・辛抱のみがつのり悩み苦しむのであります。これを四苦八苦といいます。
この「我慢・辛抱」という言葉、同じように使われていますが実は本当の意味は違うのです。
「我慢」とは本来仏教用語の一つで自分が慢心する心、自意識過剰・自己中心的な心の事であります。自分が偉いと思うから他人を見下すばかりで、自身は何も得るものが無いという愚かな心です。竜樹菩薩は「仏性を見んと欲せば、まずすべからく我慢を除くべし」といわれています。さとりを開くには先ず自分への執着を捨てなさいという事ですね。慢心した自分の心が満たされないままに押さえ込まれ続けて来た事によりいつしか自分の心を押し殺すという意味に使われてきたのでしょう。一方辛抱とは寒さ暑さを耐える、自分の過酷な状況を耐え忍ぶなどとも使われます。
現代語ではどちらも同じような使い方をされていますが、同じ辛い立場におかれていても「我慢」とは自分が悪いとは考えずに他を攻撃する心を無理やりに押さえ込んでいる状態の様に思われます。ですから我慢はいつか爆発するのです。
それとは違い「辛抱」とは、無力な自分と言うものを理解して困難な状況を耐えてやり過ごしながらも事態が好転した時のために準備を怠らないという忍耐力としたたかさを感じます。
思い通りにいかない世の中にあって失敗してもくさらず、たとえ無駄に終わっても本当に正しいと思うことを辛抱して成し遂げればそれは「苦」ではなく「幸せ」となります。
もし、皆さんに今悩み苦しむ事があれば、それが「我慢」していることか「辛抱」していることか良く考えてみてください。「我慢」であれば、その苦しみはご自身の心の中に根本の原因があり、「辛抱」であれば、耐えて待てば必ず希望の光が見えるのです。

平成26年6月法話

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御地蔵様の信仰が日本に伝わったのは平安時代のことで、天台の僧侶が中国から持ち帰ったものだとされています。
地蔵菩薩は非常に慈悲深く、なおかつ「菩薩」とされているように私達を身近で見守り助けるためにあえて「仏」とならずにおられる有難いお方であります。
地蔵信仰は庶民を中心に熱狂的に支持されました。それは、当時阿弥陀様やお釈迦様は立派な寺院やきらびやかな写経の奉納や、高価な仏像を建立して『功徳』を積める貴族だけのものであり、その貴族のために獣や魚を獲ったり田畑を耕して生き物を殺す庶民は必ず地獄に堕ちるとされていたからです。理不尽な話ですが当時の庶民は現世においてもこの様に苦しい生活を送っているのに死んでまで地獄の責め苦に永遠に苦しまなければならないと大真面目に悩んでおりました。そんな中、大変慈悲深い地蔵菩薩様という方が庶民が堕ちた地獄まで降りてこられて分け隔てなく御救い下さるという教えを聞いて、その救いにすがろうとするのは当然の事であります。
当時の歌謡曲にあたる「今様」にこの様な歌があります。

『毎日恒沙の定に入り 三途の扉を押し開き 猛火の炎をかき分けて 地蔵のみこそ訪うたまへ』

仏は数あれど地獄にまで降りて来て御救い下さるのは地蔵菩薩さまだけであるぞという意味です。平安時代ほどではないですが、悲しい事に現在でも貧富の差はあり、昔とは違った形での幸不幸を私達は日々味わっています。仏の教えとは今、大層不幸な目にあっていても冷静にその「不幸」の中身を見てみれば自分自身の勝手な思い込みによって我が身をおとしめている事が多い事に気付きなさいと言う事、たとえ困難な状況に陥っていても世間に背を向けず正しい心をもって耐え忍んでいれば必ず救いは訪れるのだという事、そして貧しくても世間的には大変無力でも自身の内なる仏を持つ人はその人が居るだけですばらしく、有難い事であるということなのであります。これが「方便」であり「諸法実相」なのです。地蔵菩薩様はこの事を形にして私達にお見せになっているのかもしれませんね。