仏教は無我(「自我」が無い)を教えるが、釈迦は輪廻を教えた。「自我」が無ければ、僕はどうやって転生するのか?
その答えは「『業』のせい」だ。サンスクリットで、業の翻訳は”Karma”だ(パーリ語で、上座部仏教の言語、”Kamma”です)。”Karma”とは行為です。”Karma”すると、行為する。因果のせいで、何かをしたら、何かが起こる。例えば、落ちたら、怪我をする。因果は法律と同じだね。ボールを投げたら、ボールは移動する。不可避 だ。論理学によると、すべての行為は結果がある。(結果が一つも無い行為を想像出来る?)
残念ですが、人は時々死亡する。死亡の結果は何か?もちろん、友達は悲しむけど、「僕」が影響を及ぼす結果は何か。?釈迦にとって、僕は新しい人になる。輪廻だ。それはなぜか。
その答えは「『縁起』のせい」だ。(縁起について僕はこの記事の中で「転生」のことだけを話す。だから、縁起の他のアスペクトを読みたければ、ウィキペディアの記事が良いと思う。僕は日本語が下手だから、縁起について全てを書けない)前世で人は因果と法を知らなかったら、「業」をした。業をしたから、結果がある。結果が起こるために、良心が必要だ。だから、死亡した後で、新しい良心と体をもらう。前世が悪ければ、動物か幽霊になり地獄へ行き、良ければ人か神になる。その後、もう一度死亡すると新しい体がもらえる。
でも、新しい体をもらう事は良いだろうか。いや、仏教徒にとっては良くない。理由は命が苦だからだ。僕たちの友人は死亡し、花は腐敗し、力をなくし、老いる。それから苦がある。もちろん、苦を止めるのは良い事だ。だから、仏教徒は業で苦を止めたい。どうやって?釈迦にとって、欲求があるから、行為をする。だから、業を止めるためには欲求に答えてはならない。業をしなければ、輪廻を止めることができる。
