行法日記 第一部(2) | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

  2章 浄厳和尚の思想形成 

  

  2-1 浄厳和尚の戒

 

 『三昧耶戒印明等秘訣 草本』49歳(貞享4年1687)撰(39)。

 空海の『三昧耶戒序』を理解したうえで、さらに菩提心戒、三昧耶戒の戒相、印言義、オン字義、三昧耶戒体に関し記述している。空海の『三昧耶戒序』は、『秘密曼荼羅十住心論』を使用し各階梯における教理と戒に触れ、『菩提心論』の勝義心、行儀心、三摩地の菩提心を明かし、再度十住心の階梯を四恩をみることにより戒としている。

 浄厳は、菩提心の義を法相(二利広大の菩提心)、三論(菩提有情も皆空無自性)、天台(中道に於いて菩提を発す)、華厳(無礙融即の菩提)、密教(菩提を以て菩提を求めるを菩提心とする)の5階梯で説く。菩提心戒、三摩耶戒は、仏道に参入する前に阿闍梨より授けられる戒である。特に密教においては、この2つの戒を理解しておかないと、今後なされるであろう修法全てが、野干(狐)の獅子吼えになると浄厳は厳しく指摘する。詳細に説いているが、ここでは最低限理解して身につける内容を考察する。

 浄厳は菩提心の相に関し自心、阿字本不生、六大本有を用い説く。

 ・密教の菩提心は、自心に菩提と一切智を求め尋ねること。

 ・真言宗はア字諸法本不生を宗旨とするので、六大本有にして無始なるを、心とも菩提

  とも云う。

 この2文を合体すると、菩提を以て菩提を求めるを菩提心とするになる。次に、自心に菩提を発し即ち心に萬行を具し、心の正等覺を見て、心の大涅槃を証し、心の方便を発起し心の仏国を嚴浄すると、三種の菩提心が現れてくるとする。

 ・自利勝義心 五相、三密の修行を日夜に鍛錬して自身即仏の器を成せんと求める。つ

      まり、自己自心(衆生)すなわち六大理(身)智(心)金(心智)胎(身理)両部の

  曼荼羅(仏果)なりと知って菩提心を求める。

 ・利他行願心 一切衆生の心身、すなわち六大理智法身なりと言えども、衆生無始より

  この方この理に迷って自己の仏体を知らざるが故に、行者今、勇猛の心を起こして一

  切衆生を連れてこの自心即仏の理を証せんと願う心を菩提心という。

 ・三摩地の菩提 自心の生仏一如なる所に安住して不動なるを言う。さらに別法無し、

  ただこれ一切衆生の自性清浄心なり名付けて大円鏡智とする。上諸仏より下蠢動に至

  るまで悉く皆同等にして増減あることなし。この意を以て知るべし、この心を始めて

  発すは修生なりといえども本有の生仏一如の理を一分も動せずして解知するを以て本

  有(胎)修生(金)全て一物なり。

 ・三摩地の心(平等心)はいつも勝義、行願を離れないので、体性という。生仏一如と

  いうも全て泯絶する訳でなく生仏二界、宛然としてしかも各々万徳を具せりと知るを

  以てこの一如の知見発起する時、この三心は不二にして而二なり。畢竟両部不二の三

  心なりと知るべし。

 次に具体的に菩提心印明について浄厳の考え方を考察していきたい。

  印は金剛合掌。左の五指は衆生の迷の五大なり。右の五指は仏界の五智なり。すなわ 

  ち五仏なり。五指の頭を交合するは生仏二界不二なる義。左右の手異なりといえども

  (而二の義)合して一印なるが(不二の義)生仏の十界皆本有にして不変なること金

  剛の如くなる義を彰す。また是れ即身成仏の密印なり。生界に即してすなわち仏界な

  るが故にこの印と三摩地の菩提心と事異にして義同じ。 

 次に菩提心真言に関し次のように説くが、浄厳は特に我を三三平等で捉えている視点が重要である。

  ヲン(帰命)ボウヂ(菩提)シッタ(心)ボダハダ(発生)ヤミ(我今)

  総の句義は、我れ今菩提心を発生す。

  我は自分ではなく、十界の依正を皆、我が身心の六大と一体なりと見る我れ。法界の

  我にして無我の大我なり。

  発生とは本有平等の菩提心を修生顕発すること。修生といえども生仏本有の具徳と開

  見するが故に唯これ本有のみなり。

  菩提心とは、平等の心地なり。故にこの真言も印も三摩地たる菩提心も全て一体な

  り。是れ三密平等の故なり。

 三昧耶戒についても浄厳は、菩提心と同様に相、印明、真言で捉えている。三昧耶戒の相について、浄厳は第1に決して菩提心を忘れることなかれと説く。

  ただ前に発起しつる菩提心の堅固に決定して成仏に至るまで改転してはいけない。例

  をあげれば、諸仏、菩薩、昔因地に在して是の心を発しおわって勝義、行願、三摩地

  を戒とす。ないし成仏に至って時として暫くも忘れることなし。

 次に三昧耶に4義あることを説く。最初の2つが重要であり、最初の生仏平等の平等を菩提心の意味であると説く、全ての存在は皆菩提心を持っている(六大本有の菩提心)という考え方である。また、本誓の義は、生仏平等の理に常に住して金輪際忘れてはならないということを戒とすると説く。三昧耶戒を菩提心戒とも言う意味がよくわかる。

 ・生仏平等の理

 ・本誓の義、密の三昧耶戒は生仏一如平等と見て而二の悪を断し一如の善を修し而二別

  執の衆生を度せんという誓願なり。故に三昧耶戒の時、印明より前に受けるところの

  三聚浄戒も皆この意に住して受けるなり。況や三昧耶平等の戒を受けんをや当に生仏

  平等の理に住して未来際に至るまで動転すべからざる是を三昧耶戒とする。

 ・驚覚の義、平等の法門を以て生仏隔歴の迷酒に酔眠せる衆生を驚覚するなり。

 ・除障の義 平等の法門を示して衆生の隔執の障を除く。

  初めの2つが肝要なり。二義の中に平等とは菩提心なり本誓とは戒なり。是れを以て

  三昧耶戒とは唯始の菩提心の分域を出ざることを知るべきなり。

 三昧耶戒の印明を浄厳は具体的に示す。

  普賢三昧耶の印。二手外縛して二中指竪て合するなり。八指外縛は八葉の蓮華(胎)

  八分の肉団(凡心)凡人心如合蓮華、是れなり。掌中の虚にして円なるはすなわち月

  輪(金界)シッタ心(仏心)、仏心満月のごとし。中指は火大なり。心の臓は火を主

  が故に左の中指は衆生の心、右の指は仏心なり。二中合わせ立て一股の形にすること

  は生仏二界不二なるはすなわち独一法身(六大一實)の智体なることを表す。

 三昧耶戒の真言に関しては三三平等間での入我我入を説き平等が融通無礙という働きを持つことを示す。

  ヲン サンマヤ サトバム

  ヲンとは帰命、サンマヤとは平等の義。三昧耶は平等摂持を義とする。すなわち入我

  我入得名と釈す。サトバムとは(不空)に入我我入の義と釈す。謂く生仏本来平等の

  故に我れ本尊の身に入り、本尊我が身中に入り罣礙あることなし、猶し乳を水に加る

  が如し。

 以上、浄厳による菩提心戒、三昧耶戒を確認した。ただし一番重要なのは、覚悟の度合いである。生死の境にある人間が生きる望みをかけ唱える発菩提心と何の苦労もなく平々凡々と暮らしている人間が唱えるのでは覚悟が違う。逆に言えば、日々の行法で毎日唱える真言なので、その真言をいかに深い意味合いの中で唱えるかが問われている。

 

  2ー2 浄厳和尚の定・慧

 

 浄厳の定・慧に至る道(条件)を探るとやはり『真言行者初心修行作法』通論3則 に尽きると考える。特に下記の2点である。

 第1に真言の字義に通達すること。

 第2に本不生の義を解すること。

  

 『三密鈔』の第八に字相字義門として四重秘譯を展開している。

  浅略:字相とは童蒙の知る所。字義とは法性の実義。

  深秘:一字能く一義を詮するを字相とす。一相を除遣して無相に證入するを名付けて

  字義とす。

  秘中深:字相とは不可得義。字義とは圓明の心体なり。

  秘秘中深秘:能所不二圓明の字体を名付けて事相とし、還って能所を在して字体能く

  義用を詮するを各々字義という(44)。

 字相字義と共に各門各章において発音に関しても詳細に説かれる。つまり字相(身)・声明(口)・字義(意)の悉曇三密を説く。この悉曇の能力は儀軌の校合、及び『通用字輪観口訣』に説かれる無分別観による大空三昧の境地に至る重要なポイントになる。

 次に、本不生の義を解することに関して『真言修行大要鈔(45)』52歳(元禄3年1690)撰を検討する。本不生の義を解する事。この大要鈔は、問、答の形式で真言修行の大要を述べている。第一問で阿字観に関し問答があり、1阿息観(聲)、2阿字観(字)、3阿字本不生(実義)が説明され、以下のように本不生の実義が説かれる。

  あらゆる天地の間の万物は本有にして始めもなく終わりもない。常住にして動転する

  ことなく遷変することなしと知る。是を本不生の実義と言う也。但し此の義は甚深幽

  玄にしてかりそめに知らるる處にあらず。唯、佛のみ能く此の真実を明め玉へり(46)。

 最後から2問目の問答で、本不生の義をどうしても理解できない者は、どのように修行すべきかとの問いが発せられる。答えとして、

  日常常に、万事着衣喫飯までも節りに触れる事に随いて是れにはかぎらずと念ずべ

  し。中道により喜怒哀楽愛悪欲等の境界に我心を動かされず、逆に我が心が能く諸法

  を使って自由自在を得て、煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏の位となる。実に貴く

  べき事であるとする。六大を本体として万法皆此れ六大を体とす六大の處に万法挙げ

  て有りと立てるなり。此の故に一微塵までも万法を具して本有常恒なり(47)。

 そして以下の三密加持の徳用を説く。

  真言には一字に無量の義を具し一印に無辺の徳をあらわし一心の中に諸尊を観想す又

  纔に両手の十指を以て無量無辺の密印を結顕し一の舌を動かして恒紗の真言を唱うる

  に其印其真言に亦各無辺の徳用を備えたり(48)。

 本不生の義を体得するには、教理を学ぶだけでは理解できない。本不生の義を体得するため日々の密教行法を継続し行い、教理・事相の説くところを信じて行法を研鑽し向上させ大空位の境地を目指すことである。

 

  2ー3 浄厳和尚の実践

 

 浄厳の三種秘観の理論、実践方法を以下、確認する。基礎資料は(別次第)、(随次第)及び(別秘記)を使用する。

 1、入我我入観

 (別次第)(随次第)とも妙観察智の説明より始まるが、(別秘記)では、語密念誦が最重要であり、念誦を行うにはまず、心(我)、佛、衆生、三平等観をなす。三平等観の場として3者とも遍法界に存在するということが重要である。そしてこの遍法界をキーワードに、四智の理論が展開され、入我我入観で何故妙観察智の定印を結ぶのかが(別秘記)に説かれる。

  凡そ四智の行相、大圓鏡智は一法界を圓滿す、平等性智は一如平等の理、妙観察智は

  邪正を分別して不謬不妄の智なり、成所作智は業用を成就して所作空からざる徳也。

  然るに今差別智の印契を以って平等の観門に用いることは、自宗の所立は平等と言う

  と雖も混同して一なるに非ず。心佛衆生の十法界其の相は別なるに似たりと雖も性に

  は全く同一なり。差より無差に入らんが為に妙観察智の印を結ぶ也(51)。

 四智、五智は因位の九識から転じた金剛界大日如来の内証の智である。

  大圓鏡智は第八阿頼耶識を転じて得る所の圓明無垢の智であり、大圓鏡の萬像を写す

  が如く一切諸法を明に照見する徳用がある。平等性智は第七末那識が転じた智であ

  り、末那識は愛慢癡見等の煩悩と相応して差別見を生ずるが、果位に至れば却って自

  他生佛一切の差別見を離れて諸法の平等性を照見する。妙観察智は、第六意識転じて

  妙に所化衆生の機類を観察して説法し、彼等の疑惑を断除する。成所作智は、前五識

  転じて化他の所作事業を成辨する(52)。

 この所見に従うならば、平等性智に至るためにその前段階である妙観察智の印を結ぶということであろうか。著者が考えるには、差から無差に至るには麁から微細の視点(原子、電子、量子レベルでは皆平等)、つまり極微細レベルでは全て平等、同一性があるという平等性智を認識、体得した上で萬物の営みを正見する妙観察智の印を結ぶということである。次に入我我入する本尊は、月輪の上に種子を観じ、三昧耶行、羯磨形を観じ、道場観で観じた三三平等(佛、我、衆生の三密身口意が全て平等)である本尊である。またここで重要なのは、本尊の身口意、種三尊、内証の三摩地をどれだけ観行できるかである。更には三三平等に追加し、三大が以下のように(別次第)に説かれる。

  六大無礙にして常恒に相応するが故に心、佛、衆生の三密各々法界に遍じて互相加入

  し彼此摂持して感応道交し速疾に顕得す(53)。

上記では何が三大であるか(別秘記)を解読しなくてはわからないが、(随次第)には、三大がわかりやすく理解できるよう次のように説かれる。

  是れ法性たる六大、無障無礙の故に、常住不変故に、相応渉入の故に(體大平等)。

  心佛及び衆生、互相輪圓して足り(相大平等)。

  各々三密の用、彼此互いに加入し、自他相い摂持して、生佛合して感応すれば、

  速疾に悉地することを得(用大平等)(54)。

 上記は(別秘記)に記載されている内容が(随次第)に取り入れられた事例である。またこの文章は空海の即身成仏の偈、即身部分の体相用と同意であることがわかる。入我我入観の考え方、理論の総括として(別秘記)に以下の文書がある。

  六大の體性凡聖に周遍して平等一味なるが故に身口意また遍法界也。(道理紙上に現

  證殫し難し也。)復次に身(地水火)口(風空)意(識)即ち六大なるが故に周遍の

  理疑う可きに非ず。復次に大(地水火)三(識)法(風空)羯(六に通づ)即ち六大

  即ち身(大羯)語(法)意(三)故に、種(法)三(名の如く)尊(大羯)三秘密四

  曼遍法界也。四曼三密遍法界の義ここに極め成しぬ(55)。

では、以上の理論、考え方を理解した上で、次第により、日々の行法を継続実践すると何が起こるのかを(別秘記)の内容を確認し要約する。我(心)、佛、衆生、及び各々の身口意は微細レベルでは三三平等であるが、実際には我と佛では大きな差がある。では入我我入でどのような事が起こるのだろうか。

  我が身で諸佛に入ることは、我が身で諸佛に帰命することである。諸仏が我が身に入

  ることは諸佛が我を摂護することである。我が口業で諸仏の口業に入ることは、諸佛

  の功徳を賛嘆することであり、諸佛の口業が我に入ることは、諸佛が説法教授して我

  を加持することである。我が意業実相の理で諸佛の意業実相の理に入れば、我れ諸仏

  の心、及び自心を知る。諸佛が意業実相の理で我が意業実相の理に入れば、諸佛は観

  照門を開示する。この観法を継続実践すると、三力により我は煩悩を浄め正覚を成

  す。同時に衆生を度し、利他の功徳を積む。この際の無数の如来の功徳は不可説不可

  説であり、この不可説不可説の功徳を以って諸如来が我が身に入れば諸佛は法界藏を

  開き、無量の功徳を我が身に施与する。そして我が本来の本有の功徳と先の所修の功

  徳で諸佛の身に入れば諸佛を供養することになり大圓鏡智の圓明無垢の境地に至る

  とができる(56)。

 そして決して忘れてならないのが、(随次第)に述べられる化他の実践である。

  亦復、諸の衆生の身心の體性と我及び諸佛の身心の體性と無二無別なりと雖も、然も

  一切衆生は盲冥にして自覚せず。長く生死に輪廻す。我れ今悲愍を發して修する所の

  三密の行、自ずから諸衆生の福智の二荘厳と成る(57)。

 この心構え無くして大圓鏡智の圓明無垢の境地に至ることは不可能である。

 2、正念誦

 (随次第)は、念誦法として九種のやり方、階梯を説く。下記に意訳する。

  1、本尊の種子の字を観じる、一つ出来るごとに字を加えていく。2、相好等分明な

  本尊を前に観じる。3、あるいは、本尊の相好を観じ自身に巡らす。4、我及び本尊

  分明に相対して座すと思い、集中して諦誠に念珠を行う。5、あるいは字を本尊と化

  し、6、あるいは種子の義を観じ、本不生と相応せよ。7、本尊の心月輪の中央から

  右旋回で本尊の陀羅尼を観じ、陀羅尼一文字ごとに五色の光明を放つと観じ、本尊の

  口より行者の口裏に入り、行者の心月輪の中央から右旋回で布置する。是れは、如来

  の神力加持の護念の所で行者の無始の煩悩業障の垢を除く。また再び行者の口より五

  色の光明を放つ陀羅尼が出て、本尊の足裏から入り本尊の心月輪の中央から右旋回で

  布置する。字字連続して珠鬘の如く想え。8、我が口から出る陀羅尼の文字がそれぞ

  れ金色の佛となり法界に遍満し虚空と等同となる。皆、本誓力を以って随類音聲を出

  して最勝の妙法を演べ、一切衆生を暁らしめ、阿字不生の理に開示悟入せしめ給うと

  観ずる。9、真言の字を行者の身中の支分に配置すると共に本尊の身の上の布字と念

  誦の真言の数とを、具に一念の中に於いて、一時に観見せよ。集中して行え(58)。

 入我我入観で四曼三密遍法界の義を了解、体得した後に、種三尊が念誦によりダイナミックに動き始めることがわかる。(別次第)では、上記7、8の階梯が正念誦として記述されている。入我我入観と同じく(別秘記)に記載されている重要な項目が(随次第)に取り入れられた事例である。(別秘記)では儀軌の引用をはじめ約2千字弱で念誦観が記載されているが、(随次第)では、是れを270文字に凝縮している。逆に言えば、(別次第)(随次第)に記載されている内容は(別秘記)の中でも最重要項目がピックアップされているということである。(別秘記)を丹念に読み、習熟し、実践して初めて(別次第)(随次第)の意味がわかるのである。例をあげると前述した(随次第)の7番目の(別秘記)の説明として、三密の構成が以下のように説かれる。

  是れ則ち本尊行者の三密、相應無碍渉入の義也。謂く本尊のみ口自り出るは是れ口

  密。行者の頂き自り入るは、是れ身密。我が心月輪に至るは是れ意密也。復次に我が

  口自り出るは是れ口密。本尊のみ足自り入るは、是れ身密。尊の心月輪に至るは是れ

  意密也(59)。

前述した(随次第)の8番目に関し(別秘記)では観智軌が引用される。

  此れは觀智の軌に本づく也。彼の軌に云く、次にまさに専の注して観づべし。舌の

  端に於いて八葉の蓮華有り。花の上に結跏趺坐せり佛有り。猶定に在るが如し想え妙  

  法蓮華経の一一文字佛のみ口従り出て、皆金色と作る。具に光明有って虚空に明遍

  す。想え一文の一の字皆変じて佛身と為って虚空に遍満して持経者を囲繞すと。又云

  く、其の持経者、其の力分に随って或は一品を誦し或は全に一部、緩くならず、急な 

  らざん。此の観を作す時、漸く身心軽安調暢を覚うべし。若し能く久長に是の観行を

  作す時は則ち定中に於いて了々に一切如来甚深の法を説きたもうて見上ることを得

  ん(60)。

前述した(随次第)9番目の布字に関して(別秘記)は以下のように記述している。

  此の中に身上の布字とは、オン(頭上、白色)シャ(両目、色は日月の如く)レイ

  (頸上、琉璃色)ソ(心、色は晈素の如く)レイ(両肩、黄金色)ソン(臍、黄白)

  デイ(両膝、浅黄)ソワ(両脛、赤黄)カ(両足、満月)是の如く身分に布して之を

  誦せよ(61)。

 これらの内容を知って観行、念誦を行うのと、知らないで行うのでは全く念誦のあり方が異なってくる。(随次第)では、この後に4種類の念誦の唱え方(音聲念誦、金剛念誦、三摩地念誦、真実念誦)、数珠の擦り方が記載される。(別秘記)に数珠の擦り方、数珠の種類に関する記述はあるが、念誦の唱え方の記述はない。(随私鈔)を見ても(随次第)と同じ内容が記載されているのみである。念誦のやり方に関しては『七支念誦随行法口訣』(61歳撰述)の2段目に詳細が説かれている。また、念誦の目的は(随次第)8番目の「本誓力を以って随類音聲を出して最勝の妙法を演べ、一切衆生を暁らしめ、阿字不生の理に開示悟入せしめ給うと観ずる。」の利他部分にある。これは最初と最後に唱える發願の偈頌に表されている。

  我欲抜濟無餘界 一切有情諸苦難 本来具足薩般若 法界三昧早現前

並びに

  修集念誦法 以此勝福田 一切諸有情 速成本尊身

(別秘記)の正念誦の最後の文句に次の記述がある。  

  憲深僧正の云く、入我我入は自覚自證の成道。正念誦は化他説法の儀式。字輪観は自

  證化他覺行圓満の意也。圓明の中に於いて順逆に之を観ずる此の意也(62)。

我、佛、衆生、三平等のうち特に衆生の成仏に主眼が向けられていることがわかる。このことは念誦観行に通逹することは即ち衆生を化他することであり、衆生に対する加持祈祷の原理が含まれていることを意味する。

 3、字輪観

 字輪観に関しては、(別次第)(随次第)とも通用五大による観想となる。(随次第)に説かれる内容を確認し要約する。

  1、月輪の中に於ける五大の順逆による観想。(ア、バ、ラ、カ、キャ、キャ、カ、

  ラ、バ、ア、アン、バン、ラン、カン、キャン、キャン、カン、ラン、バン、アン)

  2、五大字義の順逆による観想。(諸法本不生、自性離言説、清浄無垢染、因業不可

  得、等虚空無相、等虚空無相、因業不可得、清浄無垢染、自性離言説、諸法本不

  生。)

  3、五大字義の展転相摂順逆による観想。(諸法本不生故に自性離言説、自性離言説

  故に清浄無垢染、清浄無垢染故に遠離於因縁、遠離於因縁故に等同於虚空、等同於虚 

  空故に遠離於因縁、遠離於因縁故に清浄無垢染、清浄無垢染故に自性離言説、自性離

  言説故に諸法本不生。)

  4、順の中にア字を以って残りの4字を摂する観想。(法本不生故に自性離言説、法 

  本不生故に清浄無垢染、法本不生故に遠離於因縁、法本不生故に等同於虚空)

  5、順の中にバ字を以って残りの4字を摂する観想。(法離言説故に亦復本不生、法

  離言説故に亦復無垢染、法離言説故に遠離於因縁、法離言説故に亦復等虚空)

  6、順の中にラ字を以って残りの4字を摂する観想。

  7、順の中にカ字を以って残りの4字を摂する観想。 

  8、順の中にキャ字を以って残りの4字を摂する観想。 

  9、月輪観の広観斂観による観想。 

  10、五字嚴身観による観想。 

  11、五輪の特性による観想。(アン字・地・堅性、バン字・水・湿性、ラン字・

  火・煙性、カン字・風・動性、キャン字・空、一切無礙。)

  12、法界率覩波、五分法身(戒定慧解脱及び解脱知見)による観想。

  13、阿字観による観想(63)。

 字輪観の理論、考え方に関しては「1ー1 新安祥寺流四度次第成立に関連する事柄等」の考察『通用字輪観口訣』で述べたので略す。最後に浄厳は次のように字輪観に関し述べ記述を終了している。

  私に云く、今此の字輪観の中に、自ら五種の観有り。一には月輪布字(唯し字相に約

  す)二には順逆、字義、三には巻舒月輪、四には五支布字、五には無分別観也。是れ

  則ち次の發心、修行、菩提、涅槃、方便の五転に当たるなり。第五の無分別観を大疏

  の第六には正観心佛性(字義無分別観)入如来定(月輪無分別観)と云へり。而も豈

  に須く漸く四處を超えて方に究竟に至らん故に、是れ初發心の行者の速疾頓悟の観行

  なり。復次に理法身説法斯の位に在す。謂く能所を忘して分別無きは、心識縁用無き

  が故に、理法身なり。唯し五大のみ在するを以っての故なり。縁用を絶すと雖も猶氣

  息有り。是れ説法なり。故に理法身の説法となす。又、此の字輪観は、意密平等の観

  門、意無盡荘厳藏なり(64)。

 以上、三種秘観に関し、内容を意訳、考察してきたが、やはり重要なのはこの教えを日々の行法の中に生かすことである。観想する際に上記内容を反映させ、次第の字義が不明瞭な場合には、『別行次第秘記』を紐解き理解しその内容が体得できるまで不退転の菩提心で繰り返し行うしかない。

 

  2ー4 浄厳和尚の民衆教化

 

  結論

 

 浄厳和尚の生き様をみて、自身のあり方を日常生活で高めることが、今後の僧侶の道として、大切だと考える。また、自利利他共に実践することが重要である。

  1、戒律の実践

 現時点での自身の経験や能力から、自分が実行できる具体的な内容を立案することである。まずは、現在の自身に見合った立案となる。

 浄厳和尚の生きた江戸時代と現在の平成では僧侶の生きる環境が大きく違う。浄厳は真言三密加持の法力、自在無礙の方便力を得るには戒を第一におく。また、顕密共の戒律を重視する。現代社会で実行できる内容を浄厳の戒律よりピックアップする。さらには実行する際の注意点も記載する。浄厳は生活基本から戒の智へ一歩一歩遡り三密加持の効験を示すが、この論文では果から因へと精神・意識のあり方から現代社会で現実に実行できる内容を探る。『受法最要』より

  三十には、常に菩提心を捨てるな。我は菩提心を求める金剛薩埵であり如来と一体無

  二である。菩薩として利他行に励め(69)。

 現実の生活に於いて種々の問題、選択、判断が迫られる場面が多々ある。その際決断する前に我は金剛薩埵であるとの観を起こし物事の判別をつけ行動することである。現代の僧侶は、ほとんどが現代社会の仕組みに組み込まれている。結婚し家族を持つのが一般的である。世間一般の規範に基づき生活している。付き合いの中でお酒を飲む場合もある。肉を食す場合もあるであろう。ただしその場合の目的が金剛薩埵として菩提を求める行いに叶っているかどうかを判断する必要がある。

  三十三には、他人に対して不利益なことをするな(70)。

原文では不饒益とあり饒の意味はゆたか、益はあふれるであり、不で否定され、さらに作すべからず。と二重否定される。人の豊かさが多くなるような行いをしなさい。でも良いわけだが、あえて二重否定を使うのは、積極的に善行を積むのではなく、相手の立場にたち不利益なことはするなである。喩えばであるが、理趣経に説かれる大欲を非常に良い教えであるので、相手のレベルも考慮せずに教え、貪欲、色欲の地獄に落とし込むようなものである。時には沈黙も金になるということである。

 『真言行者初心修行作法』より

  真言行者は必ず、八斎戒を守ること。不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒、正

  午以降は食事をしない、娯楽、装飾を愛ない。ベットに寝ない。を月の内十日は守る

  こと(71)。

 本来の戒のあり方は、一から百までのものを杓子定規に守るものではない。未成年の初心者で右も左もわからないのならいざ知らず、人生五十を過ぎ、人間の機微が理解できる行者にとっては戒をいかにコントロールし目標である阿字本不生の大空位三昧にいかにして近づき、体得するかである。

  真言の字義に通達しその枢鍵たる本不生義を解すこと。三密平等、生仏不二、諸法本

  不生の実義を知ること(72)。

に関しては、知識として暗記し答えることも重要ではあるが、神秘体験を味わい智慧のレベルにまで持ち上げるのを今の課題とする。以上より、現代社会における戒のあり方は、我が今現在、金剛薩埵として、正しいことを行えば良い。 

 2、現代における民衆教化

 SNSでスピリチュアル系のサイトを確認すると、万を超えるブログ、メルマガ等により精神世界に対する様々な意見が発信されている。ほとんどが悩み、苦しみからの解放を願う要望に対し、占い、コーチング、イメージング、引き寄せの法則、etc.世界の東西を問わない種々様々な方法により各人の苦悩解決を目指す方法が述べられている。

 真言密教は、阿字観という密教瞑想法がある。『真言修行大要鈔』の初段で浄厳は阿字観ほど優れた要道はないと明言している。また真言密教の布教方法(民衆教化)として阿字観瞑想が本山に認められ世界に対し布教が押し進められている。阿字観は阿字本不生を体得する修法であり、六大無礙四曼不離、三三平等、三密加持、の真言密教の根本教理が全て含まれている。阿字観瞑想を現代社会の苦悩解決のために推し広めるのは間違いではない。今回の浄厳和尚の思想形成と実践の中から得た密教教理をさらに深め、日々の行法を実践し阿字観瞑想に通逹し、阿字観瞑想の普及により世の中のお役に立つことをここに約束する。