21歳まで名前が弘人(ひろと)でした。



私は昭和38年3月15日に生まれ父・母・兄の家族4人の生活を6歳ぐらいまでしておりました。
父がカメラ屋を経営しており、当時ではめずらしく、家にはピアノやカラーテレビがあった家庭でした。
近くに教会があり日曜日になるとお菓子をくれるので日曜学校にも通っていた記憶があります。
6歳ぐらいの頃、父が事業に失敗して、そして3つ違いの兄の骨肉腫という病気が重なり、だんだん夫婦中は悪くなる一方で、母はよく私を連れて母の友達の所に非難していたのを憶えております。
7歳の時いつのまにかピアノもカラーテレビも母親もいなくなりました。
後で聴いた話によると、このとき離婚したそうです。
それから3ヶ月ぐらい父親と暮らしていました。
母親が私と生活する準備ができ、ある日、私を迎えに来ました。
母親との生活は、最初の3ヶ月ぐらいは女子寮で生活をしていました。
そして二段ベットの上が私の部屋でした。


滝行日記∞若干ハードな癒し∞水に流せないことは滝に流しましょう 

ようやく社長さんのご好意により4畳半の倉庫を空けていただき、そこを部屋にして親子2人の生活がはじまりました。
兄は手術も無事に終わり療養もかねて母の実家であるお寺に預けられました。
お盆と正月になると母の実家に私も3週間ぐらい預けられていました。
中学生になったころから新聞配達をして家計助けていました。

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高校は水産高校に入学しました。
何と入学試験が、懸垂や腕立て伏せ、反復横とび、50メートル走でした。もちろん筆記もありましたが、今思うと笑えて来ます。
3年生の実習時には、まぐろ漁船に乗りオーストラリア沖に3ヶ月ぐらいまぐろを取ったりしておりました。
出港してすぐ、「しけ」に遭い私を含め実習生は船酔いがひどく、ひどい人になると吐くものがなくなると胃液を吐いてしまい、寝ていても自然に船の揺れにより寝返りができるほどでした。
皆の食事を作ったり海水のお風呂に入ったり、とにかく真水が貴重であり水の有難さを学びました。
最後に静岡の焼津に入港して、それぞれ家族に迎えに来ていただく事になっておりましたが、今まで仕事で一度も運動会や参観日にきてくれなかった母親が知り合いに頼んで車で迎えにきてくれた時は本当に嬉しかったです。
そして高校を卒業して食料品問屋に就職し、スーパーマッケットに営業に行く仕事につき、休みもなく夢中で仕事をしてました。
営業成績もよく少し天狗になっていたのでしょう。
違う会社から誘いがあり行ったのですが、実績が上には上があると痛感して挫折してしまい。
また別の会社に行ったのですが、根気がなくなってそこもやめてしまいました。
21歳のころです。

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