「コミュニケーション」という言葉が大嫌いだった。
聞いただけで拒否反応。
できるだけ避けて通りたいもの。
家にいて、引きこもって
誰にも会わないでいいなら、
それが幸せと思っていた。
それが私の本音だと。
でも、もしかしたらそれまだ本音じゃなかったのかも。
コミュニケーションは取れる相手とだけ取ればいいと思っていた。
でも、本当はコミュニケーションしたかったのかもって。
会社の人達が仕事中に急に雑談を始める。
同じ島にいる人を端から
「〇〇さんは?」って聞いていくのに
私だけ飛ばされる。
コミュニケーションを取りたくないなら
ほっとするはず。
なのに「あ、飛ばされた。無視された」って
ちくっとする。
これって、この人達の会話に入りたいってことなのかなって。
私は誰かと話してる時に
急に通りかかった人が会話に入って来たりするのを
嫌だなと思うことがあった。
まあ相手にもよるんだろうけど
「私とこの人が話してるのに」って。
それで私も仲間内で話してたりする人達がいると
そっとしておくというか
自分は関わらないようにしている。
自分だったらそうして欲しいから。
それが周りの人には
「この人は私達とは関わりたくないのだな」と
映っているのかもしれない。
何せ仕事で必要なこと以外は
一言も話さないのだから。
実際会社の人とは
必要最低限以外関わりたくないと思っていた。
仕事上どうしても話さなければいけないときは
心底憂鬱な気持ちになった。
私と同じ島に自分でも
「コミュニケーション力が高い」と言っている女の人がいる。
私はその人のことが本当に嫌いだった。
自分の仕事なのに
人を巻き込んで
皆に助けられて
そういうところが本当に嫌いだった。
自由に育ててもらった私が唯一父に言われたのが
「人に迷惑をかけるな」
私にとって人を巻き込むような人は
「人に迷惑をかける」人だった。
でも、今いくら探しても探せないのだけど
どこかのサイトでコミュニケーションのコラムを読んでいたら
「人を巻き込んで、人に助けられるくらい愛されてるってことは
コミュニケーションがそれだけ良好に築かれているということ」
というような記事を読んで衝撃を受けた。
私の大嫌いな「人を巻き込む」ということが
まさかの「良好なコミュニケーションの証拠だったとは!」
つまり「人を巻き込まない」ということを美徳としていた私は
良好なコミュニケーションを拒否していたということなのか!
彼女を見ていると
とても嫌いで
とてもあんな風にはなりたくないのだけれど
「あんなだったらどんなに楽だろう」とはいつも思う。
私は「人に迷惑をかけない」ために
できるだけ一人で完結しようとする。
彼女は何でも人を巻き込む。
基本一人で対応していることはない。
まさかそれが良好なコミュニケーションの賜物だったなんて。
先日のブログで
・会話に参加した
・自分から話しかけた
ってことを書いたけど
その時すごく嬉しかったのだ。
「ああ、できた。」って。
「私、会話に参加できないし」
「私、自分から話しかけられないし」って思ってたのに
「できた」って。
自分がしたくないと思ってしていなかったことが
実はしてみたら嬉しかった。
この体験が新しい考えを生んだ。
人はこの世に何をしに来ているかというと
愛を学ぶためだなんてことはよく目にする。
それが私にはよくわからなかったけど
私にぴったりの言葉で表すと
「人とコミュニケーションを取ろうという意志をもつ」ってことだと思う。
人生が暗転してからずっと
人とのコミュニケーションは極力避けてきた。
「自分がしたくないことを無理にしない」という考え方を採用して
そうしてきたのだが
心屋仁之助さんが言っているように
本当は
「コミュニケーションをとりたいのに
周りが受け入れてくれないからすねていた」
だけなのかなと。
意志って本当に力があるんだなと思うけれど
「コミュニケーションを取りたくない」という意志を強く持ち続けていたから
それが現実になっていた。
だったら今から
「最適なコミュニケーションをとりたい」という意志を持ってみたらどうだろう。
そう、そうやって色々実験していくのが人生なんだろう。
そうだ、本田晃一さんのブログにも書いてあった。
「自分の人生を大切にするってどういうことだろう」
と自分に問うんだって。
問うたことがないから人生を粗末にするんだって。
時間が過ぎるのだけを望む人生じゃなくて
色々試してみよう。