会社で感情を持たないということを思いついたのは
20代前半だった。

初めのうちは「いいこと思いついた~。なんて楽~」とさえ
思っていた。

でも「会社で」なんていうわけにはいかなかった。
私は自分の感情を無くしていた。

何が嬉しいのか、何が楽しいのかもわからなくなっていた。

会社で気配を消すようになった。

目を付けられないように。
おとなしくしていようと決めた。

言いたいことは言わず
おとなしく従おうとした。

でもたまりにたまった不安が臨界点に達すると
爆発して、その度に異動させられた。

そしてまたおとなしくしていようと
その繰り返しだった。

そんな風に長い年月を過ごすうちに
私という人間はすっかり変わってしまった。

以前のように自由で気楽な気分になれることがなくなった。

時間が過ぎ去ってくれることだけを望むようになった。
60歳になったら会社を辞められる。
早く60歳になりたいということだけを願うようになった。

今、自分は47歳。
色々と体調が悪い。
先日テレビでやっていたけど
ちょっとかなりうろ覚えだが
目が健康でいられるのは70歳くらいまでなのだそうだ。

だとしたら待ちに待った60歳を迎えてから
せいぜい10年くらいしか見えないの?!
(今でさえ眼鏡なしでは見えないけど)

若い頃は元気なのを当たり前と思っているけれど
元気とか健康って当り前じゃないなと
この歳になると更につくづく思う。
まあ私の場合は若い頃から色々調子は悪かったけれど。

小学校低学年まではしょっちゅう学校を休んでいたし、
4年生くらいから少し健康になって
毎日通えるようになったものの
学校から帰ると頭痛で寝込んでしまったりしていた。

先日、お昼を出張してきた人たちと一緒に食べることになった。
私にとってはかなりのストレスだった。
みんな知ってる人ではあるが
自分から話しかけることなどしたことがない。
でもこの日はいつもだったら飲み込んでしまう言葉を出すことができた。
本当にほんの些細なことだけど。

みんなが知ってて私だけ知らないような話は
「また私以外はみんな知ってるんだな」と思って
黙っているようになって
もう何十年経っただろう。

でもこの日は素直に質問することができた。

言いたいことを言いたいときに言える人になろうというのは
私の小さな目標の一つだ。

思うことと行動することは大違い。

誰もが当たり前にできることが出来なくなって
会話に参加するということは
私にはとても高いハードルになってしまって
みんなで一緒にいないといけない時は
ずっと黙ってやり過ごすようにしていた。
その時間が過ぎ去ってくれるのを待つだけ。
そう60歳になるのを待つのと一緒。

本田晃一さんのブログを頻繁に読むようになって
自分を労うっていうことを意識してするようになって
「よく話しかけられたね。
 いつも黙ってやり過ごしていたのに
 いつも通りにやり過ごすこともできたのに
 よく勇気を出して話しかけたね。
 頑張ったね。よく出来たね」って。
そう言った後に
「こんなこと誰でもできることなのにな」って
すぐ思ったけど、それでも
「誰もが当たり前にできることを
 できなくなってたんだもんね。
 ひとつ出来るようになったね。」ってまた労った。

それでその翌日は男の人と女の人
一人ずつ、
私と二人きりになってしまった場面で
話しかけることができた。

会社の人達は
誰も私に話しかけない。
私が話しかけるとももちろん思っていない。

私が頑張って話しかけると
みんな一様に驚いた顔をする。
それでまた話しかけなくなる。

でもどう思われたっていい。
心屋仁之助さんも言ってた。
「どんなに気を配っても
 他人はどうとでも思う」っていうようなことを。
失礼のないように、無難にと必死に気を配ったとしても
どう思うかは全く相手の自由なのだ。

世間から見たら
ばかばかしいほど小さな一歩なのかもしれないが
私にとってはかけがえのない一歩。

私、変わりたいんだよね。
というか、戻りたいんだよね。
自分を自分のまま表現できていた
20代前半頃までの自由な自分に。

だったら周りの人から見たら
私らしくない奇妙な行動だとしても
それが本来の私。

小さな勇気、小さな一歩。
よく出来たね、私。