同じフロアに
私が信頼している人が異動してきたのは
もう何か月も前だ。
これで何かが変わると思った。
希望の光だと思った。
でも同じフロアだから
向こうが会議室に行くときにたまーに見かけるけれど
私はフロアの端の方で背中を向けた席で
その人は反対側の端の方の席なので
朝、その人が中央の入り口から入ってきたときに
以前と変わらぬ、そしてどこへ行っても、誰の前でもきっと変わらず
「おはようございます!」と入ってくる
その声を聞くくらいだ。
その人が多分異動後初めて私の席にやってきた。
「異動してきてくれたけど
あんまり話せないですね。
たまーに姿はお見掛けして
『いるなー』とは思ってたんですけど」と言うと
「はい、います。
あのね、この階で落とし物とかあったら
どっかに届いたりする?」
「全部総務に届くみたいですよ」
「そっかー」
「何か落とされたんですか?」
「ん、、しょうもないもの」
「総務に届いてるかもしれないですね」
そしたらそのやり取りを聞いてた
私の目の前に座ってる人が
「それ、こないだ拾った人がいるかもです」
確かに少し前に
同じ部署の男の人が
私の向かい側の列の女性に
「落とし物拾ったんだけど」って言って
この目の前の人も含めて
私の向かい側の列の人たちで盛り上がっていたっけ。
その時に今は落とし物は全部総務に届ける
しかもアナウンスはもうしない
(合併前には全員宛にアナウンスがあった)と言っていたのが
聞こえてきたのだった。
私は今の部署に来てから7年くらい経つが
一度も同じ部署の人と私語をしたことがない。
「本当?聞いてみるもんだな」
「彼女が来たら聞いてみます」と
その目の前の人が言って
落とし物した人は去っていった。
しばらくしてその目の前の人が私に
「先程の方はなんという方ですか?」と話しかけてきた。
私はすっかり動転してしまった。
目の前にいても仕事で必要なこと以外は
全く話したことがなく
まさか話しかけられるなんて思ってもいなかったからだ。
私の島は男性が一人しかおらず
後は全員女性だ。
私以外の人はみんなでよく一つの話題で盛り上がっている。
特に向かい側の列に
総務からきた女の人がいて
この人が大のおしゃべり好きで
常に話し相手を探しているという感じの人なので
向かい側の列の人は
部屋の一番奥ということもあり
一日中よくおしゃべりをしている。
それが私にとっての日常で
私とは全く関係のない世界だと思っていた。
ただ見ているだけの世界。
言ってみれば
テレビの中の人が突然私に話しかけてきたいう感じだ。
決して双方向になることはないと思っていた世界の人が。
名前を呼ばれただけで
体ががちがちになった。
元総務の人に言うのなら
同じ苗字の人がたくさんいるし
なんといってもその人が入社時から皆に親しみを込めて呼ばれている
愛称がある人なのでその方が通じると思って
愛称で答えた。
顔が真っ赤になって
声が上ずった。
そして、さっきあの落とし物をした人が来てくれたときは
とっても安心していて
少しでも長く話していたいと思っていたことに気付いた。
そして、同じ部署の人と話さなくてはいけない時は
なるべく早く切り上げようと思っていることに気付いた。
余計なことは言わないように
最小限のこと以外は言わないように気を付けていたことに気付いた。
これは目の前の人に限らず
同じ部署の人には共通してそうしていることに気付いた。
ヨガのオンライン講座が終わった。
終わってもいつもの通り何も変わってはいないように感じた。
いつもそうなのに
「今度こそは」と思ってまた同じようなのに手を出してということを
繰り返していた。
「自分を受け入れる」ということをしたくて
ずっともがいている。
ここにいると自分は何もできることがなくて
みんな自分で自分の居場所を作ってすごいなと思う。
あの落とし物をした人だって
これまでの長いキャリアとは
全く関係のない部署に異動になって
部屋の雰囲気もこれまでとは全く違うし
きっと大変なこともたくさんあるだろうに
「受け入れている」と感じる。
新しい職場を「受け入れている」し
新しい仕事も。
そして25年くらい前からずっと変わらない
明るくて朗らかでおおらかな人柄。
変わる環境を受け入れながら
人としての魅力はずっと変わらない。
私は変わる環境に翻弄されて
すっかり自分を失っている。
この人が知っててくれている
昔の私はこういうごく一部の人の前でしか
息も絶え絶え弱弱しくしか輝けない。
この部署に来てから
毎日自尊心が削り取られていくような気がしていた。
以前私の担当していた業務を海外の支店に移管することになり
後任を担当してくれていた女の子ととても仲良くなった。
と言っても当然会ったことはないのだが
メールや電話で頻繁にやり取りをしていたし
時々写真を送ってくれたりもして
「本当にいい子だなー」と思うような人だった。
ずいぶん年下の子だったけれど
素直で明るくて可愛くて。
でもその子も壮絶な嫌がらせの末に退職してしまった。
相談も受けていたのに
話を聞いてあげることしかできなかった。
その子が言ってた。
正確な言葉ではないけれど
「何を言っても言い訳と言われ
ここに居ると毎日どんどん自信がなくなるので
もう辞めます」って。
私は今の部署に来てから
まさにそんな毎日だった。
それを諦めていた。
お金のためだから。
自信なんかなくたって仕方がないと。
だからそうやって
未練もなくすっぱりと決断できる彼女を
眩しくも思っていた。
以前は自分の仕事に自信を持って
部署内に信頼できる人が最低一人は居て
入社した頃なんて恐らく職場の人のことを全員信頼していた。
「心を開く」という言葉もこれまでの学びの中で
何度も聞いてきた。
こういうことなんだなと実感した。
ストレスのない環境にいられれば一番いいとずっとずっと思っていた。
だけど人と関わることで学ぶという意味が少しわかった気がした。
ストレスを上手にかわすというか
私の大嫌いな「処世術」
誰とも関わらないのは心底ほっとするけれど
人とわかり合えたときの喜びはこれでしか味わえないということ
あの中学の同級生といてわかったんだ。
たった誰かが落とし物をしたってだけのことで
私にはとても大きな出来事に思えた。