いや、この前のブログに書いたやつそのまんまなんですけどね。
最近父親の件があったり、それで恒常的にずっと気分が塞ぎがちになったり、でももう死にたいしか考えられなくなってたので人に相談するには話が重かったりそもそも死にたいってだけの気持ちを打ち明けたところでどうにもならないし、聞いてくれたところでどっちみちもう約束してる予定が終わったら電車に飛び込んで死ぬ気でいたので、いっぱいいっぱいでした。
飛び込み自殺は迷惑云々とかは、思い直したので放っといてください。
(というか実行を決めた自殺志願者は、他人に迷惑を掛けるって理由では思い留まらないと思っている)


で、その会う予定の子に悩み?を聞いてほしくなり、LINEしました。
でもやっぱり怖くなって、やっぱりいいって言ってしまったんですね。
そしたらそれに対して、了解みたいな返事が来て。
普通の対応なんですけど。その時のわたしは、何故かこう見捨てられたというか、救いの糸が切れた気になって、何もかも嫌になってしまいました。
この子もわたしに会いたくはないんだって。わたしの悩みなんてどうでもいいんだって。
今思うと、他の人に軽めにつらいと打ち明けた時に若干流されたので、それを引きずってたのもあるかもしれません。

それで、もういいやって。
つらいし、しんどいし、別にわたしがいなくなってもいいんだし、明日にでも死のうって。
死ねなくても、怪我してこの家から、環境から逃げようって。
その子に、きみはわたしに会いたくないとか謎の断定系で妄想をかましながら、新幹線キャンセルについて調べて、払い戻しのお金を入院とか葬儀代に少しでもあててもらおうと思いました。
別に親の事が嫌いなわけではない。
そもそも葬式は上げなくていいと伝えてあるんですけどね。
そしたらその子が電話してきてくれて。



ボロボロだったので会話の流れとか覚えてませんが、言ってくれた話と救われたのを断片的に。

・そもそもすごくつらい時には、察してほしい聞いてきてほしいって思ってしまうのは当然
→察してちゃんな自分がどうしようもなく許せなくて、害悪クソゴミくらいに思ってたので、そういうのはあるもんだって話を聞いて嬉しかった。
でもこれは、まだ根本的にそんな自分を許せたわけではない気がします。同じ事でまた悩みそう。

・すずらんはつらい時につらいって人に言うだけでもすごくエネルギーを使って、限界までつらくてもそれよりもっとつらくなっちゃう
→言われてみて、ああそうだなあと。控えめに訴えるにしても、真剣に言うなら尚更、迷惑だろうとか困るだろうとかそもそも自分なんかどうでもいいのに相手の方が大変なのにってなって、言っといて疲れてます。バカだなあ。
これはわかってくれて嬉しかったきもち。

・言われてみてどうしようって考えたりはあるにしても、正直めんどくさいって感じる事があったとしても、それに応えたいと思ったり聞くのが友達
→これはわたしには無かった価値観でした。
まず面倒に思う事自体(自分が思うのは)悪だと思っていましたし、自分がしんどい時に人から悩みを打ち明けられたら、自分に話してくれた事に感謝して注力しないとって感じでした。
ゴミなので誰にでもそうではなくて、好きでもない人から相談されると普通にめんどくせえなと思うんですが。友達の気持ちには応えたい、心から。
わたしが悩みを打ち明ける事がめんどくさくないとか言ってもらっても、物理的に時間をもらってたり答えを紡ぐ頭を使わせてしまってるのは事実なので、めんどくさくてもいいんだって価値観は本当に新鮮だし目からウロコで嬉しかったというかなんというか。

・すずらんは話をしてれば、落ち着いてきて自分の思ってる事とか悩んでる事を話してくれる
→これはシンプルに嬉しかったですね。
自分は話してくれる中で少しは冷静になれてたのかなあっていうのと、話してもいいんだなあって。

・そもそもすずらんの人生は本当に色々あって、どう足掻いても叩きのめされるような思いもしてきて、そりゃ死んだ方がマシみたいに考えるようになるのはそうだろうと思う
→死にたいって考える事自体が悪とされがちなので。少なくともわたしは。
わたしの人生がどれくらいつらいのかは、比較するものでもないし定規があるわけではないので自分ではわかりませんが、実際幼い頃小中高その後とそれぞれの年代で本当に苦しかった記憶があるし。
環境も良かったとはちょっと言えないので、振り返ってみてというかその時その時では実際普通につらかったなあと。
で、この子はそれをつらかったと客観的に認めてくれるんだなと。
死にたい気持ちも残当だと理解してくれるんだなと。
なんだか救われたわたしです。


うん。
この記事で、こないだのロリィタ画像紹介しよ!と思ってたんですが、これはわたしの嬉しかった記事にしてまとめよう。
うたた寝してたので終わります。

イキキル