夢について書かれたもので、
これほどすばらしい文章に出会ったことはなかった。
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夢はすぐに覚めてしまう。
覚めないように上手に保存して、
持続させて、それが叶えられる時がくるまで待つ。
それが上手な生き方だと思います。
夢を見ることはたやすいけれど、
夢を見続けることは実はなかなか難しい。
なぜかというと、私たちはいつでも現実の中に生きているからです。
現実の中で夢を保存し、持続をするということは、
ほんとうに勇気がいる。
知恵も必要です。
でも、そういうふうに生きている人は、
とても魅力的で美しい。
そういうふうに日々を工夫する賢さこそが、
ひとを真実に輝かせます。
という意味では、夢は叶えられることより、
叶えられたいという願いの方が
はるかに私たちにとっては尊いものだとも言えるのです。
小さな夢はすぐにかなってしまうかもしれないけれど、
大きな夢はなかなか叶えられない。
それだけ願いの日々が、豊かに長いのですね。
人生の、あるいは人間の大きさというものは、
夢見る夢の大きさによって計られるものだと考えます。
自分の人生というのは、誰も代わって生きてくれない。
かけがえのない、たった1度きりのもの。
それをいかに充足させて、幸福に生きるか。
それは自分の生命というものに対するひとつの礼節。
自分を大切にできない人は、
誰をも幸福になどできはしない。
自分のたった1つの生命を本当にいつくしむことのできる人だけが、
他人の心にも語りかけることができるのです。
誰かの心に入り込んでいくというくらい
基本的な礼節を必要とするものはない。
礼節とは何か?
それは―――― ありがとう、ということですね。
きょう1日、私は、私の夢を大切に見続けながら、
充分に生きることができました。
―――― ありがとう。
そのありがとうは、その1日、出会ったすべての人に対して。
あるいはその日の天候に対して、
その1日私の身のまわりを豊かにしてくれた食卓に対して。
街角に対して。
ふと通りすぎた車の、窓に反射してきらめいた陽の光に対して。
ありがとう、と上手に言えたとき、
私自身、もっと美しく、自分を表現したと考えるのですね。
そんなときは、この小さな、できそこないの、
間違いばかり犯している、
醜くゆがんだ心を持つ、この自分自身が、
とてもいとおしく、かわいく、誇らしくさえ思われる。
では、そのありがとうは、
何に対して言えたのかというと、
本当は、自分が夢見た、夢の形に対して、言っているのですね。
望みがあるから、願いがあるから、
その答えとしてありがとう。
というひとつの言葉が、心に生まれる。
でももし、性急に夢が叶えられることを望むなら、
その1日は、きっと夢が叶えられなかった、
痛みや苦しさの方が、より多いでしょう。
小さな夢は、ともすると、人を不幸にしてしまうかもしれない。
でももしこの1日が、
夢を明日につなぐ1日であれば、
夢を見続けるべく努力をし、
そのことで自分を賢く育ててくれた、
その1日のすべてに対して、
心から、素直に、ありがとうと言えるはずですね。
そういう人は、その1日の中で出会った他のひとをも、
幸福にしてくれる。
食卓とも、街角とも、対話ができるのですね。
そしてその対話が、ありがとうで結ばれ、1日が終わる。
感謝の心は明日への勇気を生む。
明日はより豊かな1日となる。
これが自分という人間を、その人生を、
豊かに創造していくということです。
ひとは夢見ることによって、自分自身を創造するのですね。
―永遠の未完成なり―
夢もまた、永遠にかなえられることなく、
しかし、毎日毎日、より大きく育ち、
人の一生をより大きく育てていく。
そういう未完成の日々の集大成が、
ひとの人生という、大きな完成像を、形成していくのでしょう。
現実とは、人生とは、じつは夢の対極にあるのではなく、
私たちの夢を持続させ、
育ててくれる大きな環境であるのです。
その環境に対して上手にありがとうと言える心こそが、
上手な夢見人。
夢は賢く、勇気のある人だけが見ることができるのです。
『PHP 雑誌 自分の夢を叶えたい』 昭和61年1月1日発行
の中のエッセイ 「夢は知恵の果実」 大林宜彦(映画監督) より
※ずいぶん昔なのでたぶんもう発行されてないです><
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これは目からウロコで、
夢に対しての考えが180度変わったし、
「いついつまでに夢が叶わなかったら不幸」
というような夢の持ち方は、
すごく損をしていると思った。
それならば、最初から夢など持たない方が
その人にとっては幸せかもしれない。
前は、夢が叶うことを必死に願ってばかりいた。
だけどそれをやめ、1日の終わりに、
「今日も夢に向かって生きることができました、ありがとう。」
と言うだけで、なんだか
穏やかで幸せな気持ちになるような気がした
