Z世代はさとり世代と呼ばれているよね。確かに、本でも「親ガチャ」という言葉は親に恵まれない状況をそのまま受け入れてしまうマジックワードだと揶揄されていたけど、私はそれでいいと思うんだ。


確かに一昔前みたいな明るい未来に向かって走り出すような希望は抱いていないかもしれない。でも、決してそれは希望を捨てたということではないし希望の形が変わってきているんだよ。


信じていた希望が希望じゃないことで挫折することがあったとしても、新しい希望を見つけたり実はすでに持っていることに気づいたり。そんな過程が希望なんだよ。Z世代は希望や幸せの形を限定されたり社会に初めから決められたりせず自分で選べる。だから哀れみの目で見ないでほしい。


「悟っているから」「諦めているから」希望を捨てたんだと決めつけるのは、旧世代的な価値観の押しつけだ。繰り返すが、Z世代は「希望の形を変えた」だけであって、それは希望を手放したわけじゃない。


かつての希望が「大企業に就職して家庭を築く」だったとしたら、今の希望は「自分の心地よさに忠実であること」や「小さくても確かな幸せを大切にすること」。それって、決して劣った希望じゃない。むしろ、今の時代を見つめた生き方。だから、Z世代の在り方にはこれからの社会の希望のタネがいっぱい詰まってる。


そう考えると、私たち若者の声が、同じように感じてる誰かにとっての「小さな希望」になるかもしれない。

Z世代はさとり世代と呼ばれているよね。確かに、本でも「親ガチャ」という言葉は親に恵まれない状況をそのまま受け入れてしまうマジックワードだと揶揄されていたけど、私はそれでいいと思うんだ。


確かに一昔前みたいな明るい未来に向かって走り出すような希望は抱いていないかもしれない。でも、決してそれは希望を捨てたということではないし希望の形が変わってきているんだよ。


信じていた希望が希望じゃないことで挫折することがあったとしても、新しい希望を見つけたり実はすでに持っていることに気づいたり。そんな過程が希望なんだよ。Z世代は希望や幸せの形を限定されたり社会に初めから決められたりせず自分で選べる。だから哀れみの目で見ないでほしい。


「悟っているから」「諦めているから」希望を捨てたんだと決めつけるのは、旧世代的な価値観の押しつけだ。繰り返すが、Z世代は「希望の形を変えた」だけであって、それは希望を手放したわけじゃない。


かつての希望が「大企業に就職して家庭を築く」だったとしたら、今の希望は「自分の心地よさに忠実であること」や「小さくても確かな幸せを大切にすること」。それって、決して劣った希望じゃない。むしろ、今の時代を見つめた生き方。だから、Z世代の在り方にはこれからの社会の希望のタネがいっぱい詰まってる。


そう考えると、私たち若者の声が、同じように感じてる誰かにとっての「小さな希望」になるかもしれない。

久しぶりに自分哲学を展開してみようと思う。
わかっちゃったんだよね。

今まで自分はエゴロマンティックだとかリスロマンティックだとかいろいろ言ってきて、恋愛は悪だみたいなことも思ったときもあった。でも、本質は「支配されたくない」「支配する側でありたい」という欲求が、恋愛を難しくさせているんだと思った。

 

どういうことかというと、1つは恋愛って男がお金を払うとか車に女を乗せるとか性的な行為でもリードする風潮とかあるでしょ。私はそれ自体は嫌じゃないけど自分の立場が下に置かれているみたいですごく嫌だったの。

2つ目は、恋愛という感情に支配されている自分が醜く感じて嫌だったの。自分は自立している人間でありたい(逆説的に言えばそう思いたいだけで実際そうではない)から、その反発で恋愛感情への嫌悪があったの。

 

これで今まで私は思い悩んできた。恋愛感情を抱いてしてしまう一方で自分にとってその感情に争いたいという気持ちも抑えられず、私が私であるのかどうかもはや分からない状態。恋愛でも私は本当の好きという気持ちを抱いていないのではないかと疑り深くなってしまうし、本当に好きだったとしてもそう思えば思うほど嘘だと思いたくなる。もし好きになられたとしても、私はその期待に応えなければいけないような義務感で息が苦しくなる。なぜ私が一方的に苦労しなければいけないのかと思って結局逃げるようにして相手のもとを去る。どんなに人を好きになろうが、私は相手のどこを好きになったのかわからなくなる。相手が悪いんじゃなくて、リードされているという状況が悪いのに、原因が分からなかったために何に対して嫌悪を抱いているのかわからず、矛先をいろんなところに向けていたこともある。原因不明の苦痛ほど苦しいものはなかった。

女性が男性に優しくされた場合、大体は親切やロマンティックな行為としてポジティブに受け止められるよね。でも、私は相手が男性であるというだけで勝手に「私が支配される立場に置かれるかもしれない」という不安や恐怖を感じてしまい、無理になってしまう。行為そのものが嫌なだけでは済まされず、行為それ自体が嫌ではなかったとしても、そこに含まれる関係性の構造が嫌でその行為を否定したくなってしまう。

どうしたら恋愛と対等に向き合えるのか。ひと昔前は恋愛を拒絶したが、今は拒絶するのではなく「自分が自分であり続けられる恋愛の形は何か」を模索している。

私はそういうわけで人を好きになるのがまだ怖い。自分を失う気がして。でも、進展もあった。男性との恋愛では前者のリードされることへの緊張感が強いけど、女性との恋愛ではそういう上下関係を感じないこと。だから自分らしい恋愛についても少しは希望が持てる気がしている。


しかし克服できていない課題もある。それは、恋愛そのものに対する「好きになったら相手に服従しなきゃいけないんじゃないか」という恐怖。私の性格的に常に周りのことを見て行動を決めてしまっていることから、特別な相手のことになるとより繊細になってしまう。自分がどう思われているか・好きになった側がするべき言動や態度を気にする等。それに加えて、親密な人こそフェアでありたいのにそう思えば思うほど利害関係を感じて相手との自然な関係を作れなくなってしまう。好きになった瞬間、支配構造(好きになった側対好きになられた側)を意識して関係を崩壊へ導いてしまう。そんなこんなで私は恋愛そのものを諦めようとしてた。

単に「恋愛が怖い」という話ではなく、愛することで自分が変質してしまうかもしれないという恐怖。真剣に「自分でありたい」と願っているだけなのに苦しめられることに向き合うのは大変だった。

私が感じている「恋愛=服従」の構造は、恋愛をめぐる社会通念や役割期待や身近な観察から無意識に刷り込まれてきたもので、いつから生まれたのかはわからないけど、好きであるという気持ちが自分の力を奪っていく。こうした葛藤は、「感情という自由」が「構造という不自由」に巻き込まれることで起きている。「フェアでいたい」という願望は、単なる理想主義ではない。私の生きる姿勢だ。だからこそ、恋愛がその姿勢を壊しうるものとして私の中で恐れられているのだ。


本当に“好きになった側”は“弱い立場”なのか?といわれたら違う。でも、それを打破できないのが現実だ。関係は常に揺れ動き、ある時は支え、ある時は支えられるということを重ねていくことで真のフェアネスを感じる。そういう経験を積むことが今後の私の課題だ。私の強さはときに自分をも傷つける。それを繊細な強さとして活かせるように使いこなさないといけない。私はこれからも自分の挑戦を通して、恋愛に対して諦めではなく再定義を試みたい。

長年、克服できないことがある。

それは過度な一般化をしてしまうこと。

 

最近、看護学生の友達との会話をした際。過酷な現場でいまにも死にたいと思っているというその友達が、こんなことを言っていた。

 

「どう考えても看護実習の過酷な労働に給料が発生するべきだ。もうじき私は看護学校を卒業し、3年後あたりには看護実習に給料が発生するようになっているかもしれない。でも卒業してからそんなことがあったら許せない。それだと私の苦労が報われないから。そのときは抗議してやる。」

 

最後は少し冗談っぽかったが、友達の言いたいことは苦労が報われない点にあることは本当にその通りだと思った。

その看護学生特有の苦しみに共感の姿勢を示したかったのだが、失敗した。共感するならば、友達のオンリーワンの体験をそのまま受け止めるべきだったのに、それに対して私はこう言ってしまった。

「うちの親も子育てが終わってから高校の教育費が全額免除になってめちゃくちゃ嘆いてた。それと同じだ。」

 

これを言った途端にしまったと思った。でももう手遅れだった。ほんの少しの間に鋭い緊張が走り長い沈黙に感じた気がしてならなかった。実際のところ友達は何も感じなかったかもわからない。それでも、友達が常日頃から看護学生の実情を深刻そうに語ることと、そうした辛い自身の現状に対して「看護はこういうものだ」と強く一般化するような口調から、それを裏返せばこの辛さは誰にもわかってもらえないと孤独に感じているのだと思う。本音では「この辛さを誰かにわかってほしい」と行き場のない気持ちを抱え、リアルでは「わかってもらえないよね」と諦めに近い感覚で看護の世界はそういうものだと語る友達の様子を見ていた。にも関わらず、友達の苦悩を一般化してしまったのは、その子をさらに傷つける要因になったかもしれないと猛反省している。

 

私が自分の言動を責めたからといって何も変わらないし、その友達が実際に私にいろいろ言われたからと言って特段気に留めていないことも考えられる。それでも、私のポリシーに反する。私もそれをされて人を憎んだ。

 

その憎んだ経験とは、実父からの性被害に遭った際に母親に助けを求めたが「よその家もそんなもんよ」と言われたことだ。そのセリフを聞いた瞬間に、私の中で父と母は死んだ。目の前にいる母親を見て、誰だコイツと思った。子の味方になってくれない親なんて親じゃなくて人間の底辺だと思ったから、その日から親への尊敬の念もクソもなくなった。家族でもない他人と生活するその後の日々は精神的に苦労した。


今回はたかが最近知り合った友達からの一言として受け止められただろうから、その子は私が思うほど気に留めていないかもしれない。でも、本当の意味で共感してあげられず、「そういうこともある」っていう言い方をしちゃった自分を責められずにはいられない。そういう言い方はしないって決めてたのに気づいたら繰り返している。そんな自分は所詮、憎むべき母親と同類なんだと思い知らされる。

 

これを踏まえ、やはり過度な一般化は責められるべきだ。当事者にしかわからない辛い思いをこういう形で他人の辛いことと比べられたら、辛い経験を上書きされるようで嫌に感じるだろうし、こうした間違った共感の仕方は「この人、私の辛さとちゃんと向き合ってくれていないな」「もう自分の辛い経験を人に話す必要がないな」と人間への信頼も抱かなくなってしまうかもしれないから。

 

 

最近あった面白いことを

まとめておこうと思う

 

①家族という私物

②条件付きの「ユージョー」

③誰か風刺画を描いて!

 

①家族という私物

~繰り返される私物化の連鎖~

家族をまるで「自分の所有物」として扱う

そんな光景、よく見かけないだろうか

 

・親が子の部屋に勝手に入ってくる

・「うちのダメ息子が…」などと人前で謝る

・ゲーム機を取り上げたり奪ったりする

 

うちでも、こうしたの叱責や

きょうだい喧嘩は日常茶飯事だった

 

でもこうした言動が家庭内で

当たり前に行われている時点で

すでに「家庭教育の失敗」と言っても過言ではない

 

それがさらに酷くなると、

それは性暴力やDVといった形で表れてくる

 

その背景には、家族=自分とみなすような

所有の理論がある

 

つまり、自分のことを自分で殴るのを

許可するのと同じで、

家族になら何をしても許されるという考え方だ

 

だが、家族だから何でも許されるわけがない

 

例え「監視」や「教育」のつもりでも

プライベート空間に侵入や

個人の所有物(心身や財産も含む)を勝手に犯す行為は

どう考えても許されない

 

他人に対しては絶対にやらないのに

家族には平気でやってしまう

 

そして最初は親やきょうだいが始めたそれを

やがて真似していくことで

「当たり前」が家族全体に広がっていく

 

これはよく言われる

「加害者は最初は被害者だった」

という話にも通じる

 

嫌な記憶を上書きするように

その行為を模倣し繰り返すうちに

被害者は加害者になってしまう

 

わたしもその「被害者」の一人であり、

自分の家族が嫌いだ

 

実父から性被害を受け、

母にはプライベート空間に何度も踏み込まれた

親が子のSNSを監視することも含めて

 

でも、「被害者」であるわたしは

その家族の欠陥を面白がってブログのネタ、

つまりおもちゃにしている

 

「うちの家族はこれ程までにダメで_」

といった口調で語っている時点で、

もう加害者であるのかもしれない

 

今ではあの時の感覚を忘れてしまったが、

はじめは本当に家族の干渉に怒り傷ついていたと思う

 

けれども、

なにが正しいかなんて教わらないうちに

家族という檻のような空間の狭い価値観の中で

わたしは育ってしまった

 

感覚は鈍くなり、

やがて傷つけ合うことすら普通になったのだろう

 

ーなんとも笑えてしまう話だ

 

 

最近も、母がわたしの一人暮らしのアパートに勝手に上がり込んできた

 

さすがにもう子離れしたかと思ったけど…

ああ、またかと本当に呆れた

 

まだこの概念が言葉になっていないだけで

こうした被害者は無数にいるはずだ

 

時代が進めば、

こうした家族内のリテラシーも

きちんと語られるようになるんじゃないか

ーそんなふうに少しだけ期待している

 

「家族」という名の所有制度が

どれほど個人を支配し生活を侵食してきたか

 

実際、性被害が”事件”として

広く認識されるようになったのは

平成以降のことだ

 

この歴史はまだ浅く

根本的な問題、

つまり人々の間違った考え方に

きちんと介入して変える必要がある

 

そのうち、こうしてブログでネタにして笑っていたことが

失言として扱われるような、もっと穏やかな時代が来るだろう

 

そんな時代が、少しでも早く来ることを、心から願っている。

 

 

 

②条件付きの「ユージョー」

~性的関心ありきでしか成り立たない見せかけの人間関係~

 

最近、ぱったり連絡が来なくなった先輩がいる

きっかけは明らかだった

 

わたしはそれまでロングヘアーで

いわゆる「女の子らしい」恰好をしていた

 

でも、自分の性自認をカミングアウトし、

ベリーショートの中性的な見た目になって

先輩の前に現れた瞬間から音沙汰がなくなった

 

正直、想定内すぎて失望する気にもなれなかった

 

「恋愛」っていう脚色がないと

人と関われない人って意外と多い

 

わたしも例に漏れず、

好意を持った相手に普段話しかけもしないのに

無理やり接点を作ろうとしては

何度も撃沈してきたから

一方的に非難できるような立場でもない(笑)

 

でも、改めて考えると

そういう関係って本当に浅はかで愚かだなと思う

 

「恋人になれるかも」という

メリットがあるから関係を築ける、

そんな利害関係の上でしか

成り立たない人間関係なんて_

 

先輩の様子がおかしいと感じたのは

ずっと前からだった

 

新生活が始まってから、

突然電話をしてくるようになったのだ

 

以前から、先輩とのやり取りは

恋愛相談や愚痴ばかりで、

私自身は全く脈を持っていないことに

気づいてほしかった

 

「頼られて愛着が湧いてしまったのでは」

と思われるかもしれないけど

かわいい後輩を演じるような義理も

ないし、そんなに頼った覚えはない

 

むしろ、先輩が恋愛対象として

わたしを利用しようとしてくるのを知って

わたしも”致し方なく”利用していただけだ

ー愚痴のはけ口にしたり情報収集に使ったりと

 

そうして一方的に損をしないよう

わたしなりに利害関係のバランスを保ってきた

(ここでの「損」とは、恋愛感情を向けられること自体が不快である、ということ)

 

「ひと」として対等に関わりたい

そういう関係を築きたいという願望すら

異性間だと傲慢に映るらしい

 

もしかしたら、

関係は最初から崩壊していたのかもしれない

 

そして、自分の素性を正直に話しただけで

恋愛対象から外され全ての関わりを断たれる――。
 

全く話は変わるが、

こういう経験を通して言いたいことがある

 

新生活が始まってから急に電話してきて、

カミングアウトの直後からパッタリ連絡が途絶えた先輩
それは、変化球のような振る舞いをしてきた人だった

 

こういう一貫性のない態度は、

やっぱり人から嫌われるということ(笑)


これは先輩に対しても、

そして自分自身に対しても

ちゃんと自戒として言っておきたい(笑)

 

 

 

 

③誰か風刺画を描いて!

 

わたしは自分が経験したことのある

考え方については特に理解が捗るので、

批判した考えそれ自体が自分のことだったりするわけだが

今回もまた現代によく見られるイタい考え方を紹介する

 

今にはじまったことでもないが、

自分をブランド化する動きが顕著になっている

 

盛れた写真をインスタに投稿したり

自慢の愛車やペットをプロフのアイコンにしたり

推しのアーティストや俳優を

自分のアイデンティティとして前面に出す

 

こうした行動は一概に責めることができないが、

あたかも自分の所有物を

見せびらかす様子には注意が必要だ

 

その背景には、

「好きを発信して自分のセンスを褒められたい」

という潜在欲求が見え隠れしている

 

好きなもの通して自分を語り

アイデンティティを

自由に気軽にカスタマイズできる時代

 

ハッシュタグはその象徴的なツールだ

 

人々は自分のステータスを

ハッシュタグで次々に並べていく

 

例えば、「#ねこ好き」と投稿している人の中には

本当にねこが好きなのではなく

ねこが好きな自分が好きなだけという場合もある

 

この”ねこ好き”の質を見分けるために

2つの事例を紹介したい

 

ある友人は、

初めてネコカフェに行ったあとこう話した

「私、ねこが好きなんじゃなくて

 自分ちのねこが好きなんだって分かった」

 

ねこが好きとは本来そういうものなんだろう

 

一方で、ある女性インフルエンサーは

インスタに自宅のねことのツーショットを

たくさん投稿し、「#血統書付き#ねことの暮らし」

などのタグでつながりを求めていた

 

その姿は、猫を通して

“自分”を押し出そうとする意図が透けて見え

正直イタタタタ…という感じが否めなかった

 

 

こういった「自己をブランディングしたい欲求」の何が悪なのか

 

それは、本来の自分を超えて

手の届かない理想像に

手を伸ばそうとする“強欲さ”にある

 

SNSが普及していなかった時代なら

「誰もあなたのことなんて誰も見てないよ」

と気楽に言えたし、

現実の世界だけが全てである限り

人はそこまで自分を演出する必要もなかった

 

けれど今やSNSを通じて

ネットとリアルが地続きになり

どちらの世界も“監視社会”のようになってしまった

 

「自分の好きなこと」は

自分が楽しむためにあるはずだ

 

それなのにわざわざ周囲に発信し

より良い自分を見せようと脚色する

 

その結果、SNS上の自分を

現実でも演じなければならなくなり、

自分で自分の首を絞めることになる

 

やがて、ネット上の理想の自分と

リアルの自分との乖離を埋めるために、

人は互いを監視し合うようになる

 

本来、自由なはずの「好き」が

息苦しさの原因になってしまうのだ

 

 

…こうした形のない幸せに手を伸ばす

現代人の姿をぜひ風刺画にして残してほしい

などと思ってネタ集に取り入れました♪

 

 

ここまでご一読くださり

ありがとうございました。

幸せになりたい

 

幸せを願うことすら

困難だった時期を経て

そういう人側の視点も踏まえて

敢えて強調するが、

幸せになりたいという考えを前提に

今回は語りたいと思う

 

「幸せの形」って何で決まると思う?

 

わたしの幸せの形は

周りの多数派の人たちとは異なるだろう

 

「結婚したい?」

「子どもを生みたい?」

 

わたしはこの類の質問が

苦手になりつつある

 

でも、ちゃんと考えたら

みんなも答えられないはずだ

 

・結婚したいとは?

・子どもを産みたいとは?

 

 

(結婚したいって言いたいのはわかるけど…!)

本来は「だれだれと結婚したい」

っていうモンなんだよな

 

結婚願望単体で存在するってのは

実はちょっとおかしい

 

結婚した経験がある人しか

結婚がいいものなのか

わからないはずなのだから

 

子ども時代の生活を想起して

「当時のような家庭をつくりたい」

という人も多いだろう

 

しかし、それは子育て期の両親の姿であり

「結婚」そのものはではない

 

子どもを産まない人が増えている現在、

結婚が昔と同じように語られることはない

 

親世代やおじおば世代に

結婚がどういうものか聞いてみるならば

 

とてもじゃないけどあてにならないだろう

 

今を孤独に生きるジジババは

口を開けば人生の先輩面して

意気揚々と語り始める


そうやって話し始める人は大抵の場合、

過去を美化したがる本能に抗えず

自分を満たすことだけに

話の目的を一点集中させてしまう

 

そのため、いい側面しか語ってくれないだろう

 

ようやくダークサイドの経験を語り始めても

より話を美しくする引き立てるためか

己の経験豊富さをアピるための

材料のひとつでしかない

 

そういう人たちは

こちらの幸せのためを思って

話しているわけではないこと、

美化された過去談は虚構だらけで

なんの役にも立たないことを

肝に銘じておきたい

(参考にするなら本とかの方がよさそうだよね)

 

 

前置きが長くなってしまったが

ここからが本題!

 

じゃあ家族を築いて子を育てる以外に

どんな幸せの形があるのか

 

正直、それについて考え始めたのは最近だ

まだまだ勉強中だが現時点の考えをまとめたい

 

ズバリ、

結婚なんてしなくていいし

子どもを産む必要もない

頑張るべきは自分の世界をいかに作り上げるか

 

(以下、順不同でひとつずつ見ていきます)

 

・子を作らなくてよい

これに関しては、

まず「子を持ちたいこと」と

「子を産みたいこと」とを分けて考える必要がある

 

なぜ子を産みたいのか、

ただ子を持ちたいだけではないかと疑うのだ

 

そして子を持ちたいだけだったら

子が自分の血を引く必要がない

つまり産む必要がないということだ

 

自分の子にこだわる必要があるのか

出産をしたという事実のみが欲しいのではないか

という点に注目して考えるのだ

 

わたしは出産に関する美学がどうにも苦手だ

 

「痛みを伴うからこそ生まれた大切な命」

などというものに、正直なんの価値も感じない

 

痛みを伴ったから命が尊いのではなく

大切な命にたまたま痛みが伴った

ーーそれだけの話だ

 

そもそも、痛みを肯定し美化しようとするその発想こそ

ある種の”老害的思考”といえる

(先のジジババと同じ思考だ)

 

わたしの場合、

血縁に嫌悪があるため

子が自分の血を引いていない方が都合がよい

 

そういう場合でなくとも

子が自分の血を引いているかどうかで

愛情の量や育て方が変わるとはとても考えにくい

 

実の子の顔が

自分と似ていないからと

愛情を注がない親もいるようだが

ふざけるなと言いたい

 

また、

愛情ホルモンの形成には

出産の過程が必要だと語られることも多い

 

しかしそれでは

帝王切開や代理出産の方が劣っている

とでも言いたげに聞こえる

 

「自然分娩こそが本来の出産であり、

 母性や愛情はそこから生まれる」

という考えには社会的・歴史的な課題要因があり

科学的根拠もクソもない

 

人工的・医学的な介入を拒み、

「人間本来の自然な形」こそが正しいとする

この考えはいわば神話に過ぎない

 

どう考えても、

出産の仕方と子への愛情には関係がないのだ

 

根気強く十分な愛情を注げる覚悟があればよい

その一言で本当は済む話で先の議論は全て無駄

 

個人的には、

そもそも新たに命を生む必要があるのだろうかと思う

わたしには出産する意味がなく子育てがしたいから

そういう親への需要はたくさんあるし。

 

むしろこういう考えがもっと世間に広まってもいいと思う

(出産への考えが画一的すぎるから)

 

既にこの世にある命を大切にしたい

 

これに関しては

社会貢献などという文脈で

読み取っていただきたくない

 

無駄な命を減らそうとか考える人は

無駄とかいう価値観がある時点で

ナンセンスだ
 

その子ひとりひとりの個性を

わたしは大切にしたいだけなのだ

 

全人的な愛や博愛主義的な考えを

遠慮する方には申し訳ないが

そんな思想に近いかもしれない

※全人的な愛や博愛主義的な考えっていわないかもしれない

 

なにも知識もなしに語るのは

憚られるかもしれないが

養子縁組などを積極的に考えたい

 

 

では2点目

・結婚する意味はナッシング

これの意図するところは

結婚という言葉を用いているが

極論パートナーがいらないということ

 

超自論だが、

パートナー探しは

暇つぶしという位置付けが

一番いいのではないかと思う

 

これはパートナーが要らないと

言っているのではない

 

そう言うと、

とてもワガママに聞こえるかもしれない

 

いや、むしろ逆なのだ

 

パートナーを得ることは

非常に難易度が高く、

パートナーを持つ人が恐れ多いほどだ

 

ここからは、

パートナー探しをすることが

いかに至難の業で苦労の多いことか、

そして

そのことでパートナー探しを

遠慮する結果になったことを説明する

 

恋愛がここまで敬遠される理由は主に2つ

 

もはや、恋愛をするのが大変すぎて

恋愛に対する需要が低くなっている

 

さらには、

様々な情報を得て

恋愛自体・恋愛の先にあるもの

に対して希望を抱かないように

なったからである

 

一つずつ見ていこう

 

恋愛の需要が低いのは

タイパ・コスパの悪さも絡んでくる

プラス、個人的な恋愛観によるものだ

 

そう、

恋愛はとっっっても消耗するものだ

 

おまえの恋愛偏差値が低いからだ

経験が少なすぎるんだ、もっと経験を積め

恋愛はそんなもんだから、当たって砕けろ

 

はい、ごもっともです

それに従ってわたしは頑張ってきました


恋愛に無頓着だとか

現代人は草食化しているとか

これはもはや現代病だ

とも言われてしまうかもしれないが、

そんなことではない

 
恋愛はハードモードになっている
これは昔よりきっと深刻な問題だ

 

容姿も人並みといえるほどには整っていて

コミュニケーション能力や人間関係も程々

学歴も世間様に受け入れられるほどで

家族関係にも問題がなく貯蓄も十分にある

 

このように社会的に

何も問題がないような人でも

恋愛弱者だという人は五万といる

 

むしろ社会的に受け入れられているか

なんて恋愛とそれほど関係がない

それが今の恋愛だ

 

現代の恋愛が難しい根拠など

探せばいくらでもある

(下記ChatGPTの回答参照)

・・・そういうわけで

SNSと共に社会の期待する内容が変化し

個人の生き方に作用したり、

レールのない多様な個の生き方が

返ってバイアスを生んで

価値観を複雑にしていたりして、

何が問題かもはや誰も分からない

極限状態なのだ

 

 

恋愛1つ成功させるのも

すごく労力のかかる時代

 

それにプラスして、

わたし個人としては

友達と恋人の境目が曖昧なため

1人の恋人との固有の在り方を模索するより

複数の友達と渡り合う方が100倍お気楽である

 

 

 

結婚を遠慮する理由の2つ目は

恋愛やその先にあるものに対する

希望の喪失と書いたが、

つまりは

パートナーがいるからといって幸せか?

と批判的になっているということだ

 

逆を言えば

むしろパートナーがいない方が

幸せじゃね?ってこと

 

この考えの賛否については

よく議論に上る

 

若者はなにも考えとらん!

経験もないぺーぺーのくせに

と言われがちである

 

しかし、

若者は思っている以上に考えて

哲学の領域に達して

宇宙を1周も2周もして

この結論を出したのだ

 

なぜ

パートナーがいない方が幸せか

 

時系列で考えると

パートナー探し→出会い→共にする→別れ

 

このそれぞれの時点で

問題があり、

パートナー探しの問題点は先述のとおりだ

 

それに加え、

やっとのことで

良いパートナーと出会えたとしても

その時点で期待値がMAXなのだ

 

既に”現代病”に感染している

偏ったSNSの情報で見てきた

恋人同士のアレと現実のギャップに

悩まされるかもしれない

 

例えば、恐れられることの一つには

パートナーがいながら孤独に感じる

ということがあるかもしれない

 

これはどういうことか

ChatGPTが説明してくれます(笑)

そういうわけで一人の孤独よりも

パートナーといる孤独を感じることの方が

自分にとって不幸せなんじゃないか

 

 

このような安定思考やリスク回避能力は

本来称賛されるべきだが、

恋愛においては

非難の対象となってしまうのもまた

悩みの種の一つである

 

 

 

ここまで長くなってしまったが、

じゃあ新しい幸せの形を作る

具体的な方法は何か

 

その現時点での最たるを語ろうと思う

 

一言に

「自分の世界を確立させること」

とまとめたが、

これは現在進行形のわたしの課題だ

 

毎回選び取る苦労を

惜しまないことが大切だ

 

幸せの方向性を全て自分で決めるのは

いちいち価値観のすり合わせが入ることを意味する

 

それはさながら、

伊能忠敬が日本地図を完成させるために

地道に日本列島の端を一歩一歩歩いて

測量するような気の遠くなる作業に似ている

(いきなり比喩…(^q^)…💥!)

 

でもよく考えたら

簡単なことなのかもしれない

 

自分の存在がどのようなものか

1つずつ答え合わせを

していけばいいだけなのだから

 

わたしはセクマイとして

その感覚を知っている

 

・恋愛をするのか

・恋愛対象への性的感情はあるのか
・恋愛対象には性別の区別は必要か

・性的感情を現実に求めるか/双方向的か

これらの質問の分岐を
1個ずつ潜り抜けていく感覚だ
 
そこで社会の常識は通用しない
自分の当たり前を
1から構築していくのだから
 
この過程で
幸せの形を見つけていくことが
わたしの人生の課題だ
 
絶対に社会の枠組みに
当てはめようとしない
たまたま一致することがあっても
社会に合わせに行くことは絶対にしない
 
その意味では
マイノリティもマジョリティも
区別なんかない
 
そして、この自分地図は
完成することがない
 
自分にとって
幸せを確立してくことを目指し
なにが幸せか探し求めていく過程
 
この手段こそが
目的に代わられる存在なのだ

 

 

 

 

せいぜい20年後くらいには

こういう多様な幸せの形を求める考えが

主流になっていて欲しい

 

日本の人口は

どんどん減っていっていい


多くの人たちが

子孫を残さない選択を

してもいいと言ってほしい

 

きまりきった1つの

社会にとっての幸せの形が存在する時点で

それは幸せじゃないから

 

今、まだまだ主流の

「彼氏いる?」

という質問が

「パートナーいる?」

に代わってそのうち

「家族とか作る気ないわー」

って言えるようになるの

 

そういう人たちはこう考える

 

血のつながりがない

死んでった人たちも

そういう価値観だったはずでしょ

今はそりゃいないけど

って

 

他人の幸せを願うと同時に

自分が幸せだったら

世界が幸せも同然だと思う

 

生きているうちに

世界全部は見渡せないからね

 

わたしが見たものが

世界の全てである

 

わたしが幸せなら

それでいいと

思えるようになってほしい

 

だから、最後までどうか

自分の幸せの形を

追い求めることを

やめないでほしい

 

なぜそう思い始めたのか

 

わたしにとっての幸せは

今生きている多くの人の感覚には

当てはまらないけど、

死んだ人の中の感覚には

あったと思うようになったから

 

つまり

その痕跡はないけど、

わたしと同じ考えで

血を引かず死んでいった人が

確かにいたということ

 

確かめようがなくてもね

 

そして、

わたしもまた

残らない幸せの形のために

一生を費やすということ

 

子孫ができないから残らない

 

残したくないとかじゃなくて

結果として残らなかったってだけ

 

結果を選んだんじゃないの

プロセスを選んだの

 

少子化対策だのどうこう言っている

政治のそれがあるうちは

とやかくいう声は収まらない

 

昔から何も変わらない


農耕の生活をしない東北の人は

蝦夷と呼ばれて排他的な扱いを受けた

 

被差別部落の人や在日コリアンは

人種差別を今も受けている

 

そして差別はこれからも続く

 

差別という言葉自体

差別する側とされる側を前提としている

 

一方的に被害者を生み出している構造になる

 

全てに共通して二項対立の構造が成り立つ

いや、正確には「一方的な対立構造」だ

 

そうして差別をする人たちは

内側の仲間意識を高め、

それ以外を違うものとして下に見る

 

そうやって社会は成り立ってきた

 

そうしてマイノリティは

いつも追いやられてきた

 

順位をつけて優位性を示すことで

排除する正当な理由を

作ろうとしているんだと思う

 

だから、少数派がおとなしく

幸せに生きたくても

多数派が干渉してくるのを止められない

でもわたしは

少数派が強く生きられる可能性が

きっとあると信じている

 

わたしは自分の幸せの追求しながら、

あわよくばその形も見出せたら嬉しい


日本の人口は100年後には

今の4分の1~3分の1くらいに

なると予想されている

 

より個々人にスポットライトが当たり

これからの時代は

幸せの多様化が急速に進む

 

現在は

性の多様性、家族像の変化をはじめ

今まで受け入れられなかった価値観も

広がりつつある

 

一方で、

孤立による自殺率も増えている

 

この現状に

社会が追いついていないのが現状であり、

相対的貧困率や格差社会は広がっている

 

課題は明白だ

 

そう、今よりもっと幸せの形を

自由に決められる社会・制度の確立が

急がれる

 

価値観の普及が先んじて

起こらなければいけないが

それは時効のようにも思える

現在の時刻は朝6:42

部屋の掃除と朝食づくりを済ませてこの時間

 

「早起きは三文の徳」

あまりこの言葉にピンときていないが

朝ごはんを冷ます間に

ちょっと文豪になろうと思う

 

 

あなたはどんな時に

「わたしって生きるのが下手だなあ」

と思うだろうか

 

箸を落としたり、

机の上だけ常にごちゃごちゃしていたり、

自炊4年目なのに介護食みたいな雑炊しか作れなかったり、

パソコンを起動しても「ようこそ」という表示でロード画面のままぐるぐる回っていたり…

 

そんな時に

「ああ、わたしって生きるの下手だなあ」

と感じるだろうか

 

 

生きている価値がないことを意味する

最上級の言葉がある

 

”負の遺産”

 

私は自分のことを無意識のうちに

そんな風に思っていた

 

大学に通っているわたしの生活は

全て仕送りで成り立っている

 

親なしではひとりで立っていられないのだ

 

自分はなんて非力なんだろうと思った

 

 

当初、わたしは関東かどこかに

大学進学する予定だった

 

性被害のサバイバーとして親の目が届く場所に

とどまるわけにはいかなかったからだ

 

それだけじゃない

 

誰があんなやつの金で食っていくか

と思っていたのだ

 

結局、一人暮らしはできたものの

住み慣れた県内にとどまることにした

 

私は何がしたいんだろう


絶対この土地から出ていってやると

躍起になっていたのに

結局何も成し遂げられなかった

 

親のすねをかじって生活している自分が

時々腹立たしくなる

 

ああ、結局わたしは

”そういう”存在でしかないんだ

 

親の金を食い

親に食われ

親を怨むことしかできない

 

親の金で生きていることに対して

母からたまに憎まれ口をたたかれながら

親が望んだ「親子ごっこ」を続ける

 

子=親の所有物であるうちは

そういう都合のいい存在なんだと思う

 

しかし、幸いなことに

わたしが親の期待に応えることはほとんどない

 

わたしは末っ子の女の子として生まれながら

「女の子にはなりたくない」という心の性をもっていた

 

だから『かわいい娘』を育てたいという

親の理想は実現しないし

わたしは子を生むつもりもないので

親が孫を見る日は来ないだろう

 

つまるところ、わたしは

親の金を食い尽くす”負の遺産”そのものなのだ

 

しかも笑えることに、

父親は捕まっていないだけの実質犯罪者で

きょうだいは実際に犯罪者で

この遺伝自体、もはや負の遺産なのだ

 

きっとこの汚れた血を引き継がないことが

わたしにできる社会貢献だろう

 

朝っぱらからこんなことを考えて

わたしはいつも過ごしている

 

こんなくだらないことを

ゆっくりと考えられるような

平和な日々を過ごしている

 

朝ごはんを食べながら書いていたら

いつのまにか食べ終わっていたので

今日はこのへんにしよう

 

今までの生き方が間違っていた経験ありますか?

 

実はわたし、

今まで生き方間違ってました!(笑)

 

トランスジェンダーって知っていますか?

 

「私は自分の体がいやだぞ・・・」

「心と体が一致していないとすごく生きづらいぞ」

※トランスジェンダーの詳しい話は別の記事を見てね

 

このプライベートな問題を

マコモ湯みたいにずっと放置しておくと大問題

 

問題をなかったことにして

そうやって社会に溶け込んできた人は

自分や誰かを犠牲にしてるってことだから___

 

「見えないだけで実はあなたと同じ人はたくさんいるんだよ」

 

周りを見渡せばみんな普通に見えるが

その言葉を言われて気づいた。

”今まで自分のような人をたくさん無視して傷つけてきたんだろうな”

 

私はトランスジェンダーなんて概念”知らなかった”

私は”普通と違うってことに目を背けてきた”

 

・知らなかっただけ

・気づかなかっただけ

 

そんな日々の積み重ねがきっと

生きづらさの理由だと思う。

 

あなたも私も

社会に同化してきたことで

生きづらさを抱えているという可能性がある。

身近なあの人も、もちろん例外なく。

 

例えば、わたしがこれまで

ねじ伏せてきた当たり前は次の通り。
・恋愛の延長に性的な関係がなくてもいい

・胸がつぶれるようにと胸を力強く叩いていた

(叩いているうちに

 ゴリラのドラミングみたいになって

 途中で笑ったり急に悲しくなって泣いたりしてた)

 

そんなわたしのこれまでの記録と

大人になってから歩み直す日常を

これから綴っていきます。