11月16日(土) 今日は九州を出る日、その前に北九州市の「小倉城」に立ち寄る。

関門海峡に面した小倉は陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。
細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。小笠原忠苗の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。<HPより>



土曜日で昼からプロレスのイベントが天守閣前で催される。藤波辰爾や藤原喜明もまだ現役らしいです。調べると70歳と75歳、まあ「プロレスショー」だからリングに上がるだけで客は喜ぶ。

関門海峡にある巌流島での佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘


小倉祇園太鼓で有名な「八坂神社」

東楼門
小倉祇園太鼓(こくらぎおんだいこ)は福岡県北九州市の中心部である小倉で400年続いている「国指定重要無形民俗文化財」に指定された祇園祭である。小倉城を築城した細川忠興公が、城下の無病息災と城下町繁栄を願い、元和3年(1617年)に京都の祇園祭を模して始めたとされる。
御朱印は9時から、天守閣入場も9時からなのであきらめた。


イベント規制で駐車場は近くの商業施設の6階、おかげでいい写真が撮れました。

吹き抜けには早くもクリスマスツリー、都会のイルミネーションはこれからです。
小倉城を後にし、帰りは関門トンネルで山口県へ・・(160円)まだ山陰地方の4つの百名城がのこっているので一気に「萩城」まで走る。
高校時代に萩城まで来たが城内には入ってない、スマイル自転車であちこち回っただけ。


萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。
本丸には高さ約21mの五層の天守がありましたが、明治7年(1874)に天守、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。





万歳橋(ばんせいはし)萩藩校明倫館より移築された太鼓橋

志都岐山(しづきやま)神社(萩藩歴代藩主が祀られている神社)

花江茶亭庭園


そして「明倫館」へ・・

萩藩校明倫館は、享保4年(1719)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に開いた藩校です。それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大しました。
約1万5千坪(約5万㎡)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)もここで教鞭をふるいました。
創建より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました。

全国屈指の規模を誇った、萩藩校明倫館。
その跡地に建ち、平成26年3月まで授業が行われていた旧明倫小学校校舎が、萩の観光起点「萩・明倫学舎」に生まれ変わりました。


2号館では「世界遺産ビジターセンター」と「幕末ミュージアム」からなり有料でした。(300円)

大砲や銃、天文や測量機器、医療機器などめずらしいものがたくさん展示してありました。






聖賢堂と水練池

聖賢堂は藩校明倫館の聖廟前、観徳門の左右にあった東塾・西塾の遺構である。
江戸時代、ここで遊泳術と水中騎馬の訓練が行われました。 藩校の水練池としては、全国で唯一現存しているものです。
つぎに津和野城へ・・

リフトで城跡へ、普通は往復買うのだが、帰りは歩いて下りるつもりだったので片道切符しか買わなかった。これが後々大失敗することになる。

一部崩れたので整備されている。

「三本松城」「蕗城」ともよばれる津和野城は、鎌倉時代に吉見頼行が30年かけて築城した山城。当時は土塁だけであったが慶長6年(1601)に入城した坂崎出羽守直盛が石垣を築き、出丸として織部丸[おりべまる]を増築するなど強化に努め、亀井氏に受け継がれた。建物は明治7年(1874)に取り壊され、現在は東門、天守台、出丸などの石垣が往時の堅固な城の面影を伝え、史跡に指定されている。


眼下は石州瓦の多い津和野の町、森鴎外旧宅は高校の時行った。


ここへ来る道中もそうだったが、アマチュアカメラマンが多かった。聞いてみるとSLが通過するらしい。まだ走っていたんだ。主に土日に運行してる。
昭和48年代に一度姿を消したものの、ファンや地元住民の熱意により昭和54年に復活した「SL『やまぐち』号」。2011年には乗客数200万人を突破、鉄道ファンのみならず多くの観光客を惹きつける人気のSLです。春から夏は"貴婦人"の愛称で親しまれる「C571」が、秋には"貴婦人"より一回り小ぶりなSL"ポニー"こと「C561」が、新山口駅と津和野駅の間の約2時間をつなぎます。<HPより>
16時12分に通過するらしい、それまでに下りようと思ったが、わけあって汽笛だけになってしまった。



天守跡

帰り、トイレを済ませて(下山道がこのあたりにあったはず)舗装道路があったので(ロープが張ってあったが・・)それを下っていけばいいだろうと安易に思っていた。たしかに下山できたが山の反対側だった。
携帯ナビを見て山道を戻ろうとしたが、夕方になってきて不安になってきた。あきらめて数少ない民家でたずねてみた。老夫婦が住んでいて、前にも道に迷って訪ねてきた人がいたそうな・・教えてもらったが2キロばかりある。車道に出るとヒッチハイクをしようと手をあげてみる。車もめったに通過しない。4台目でようやく止まってくれた。仕事帰りの若い女性ふたりが乗った軽バン、訳を言うと快く乗せてくれた。(ひとりだけなら無理だったかも・・)三重から城巡りの旅をしているとスタンプ帳をみせた。(信用してもらう意味もあった)「すごいね」といわれ「津和野へようこそ」と車のところまで送ってくれた。ほんとに感謝感謝です。
何もお礼するものがなかったのがつらい。やっぱりリフトで下りればよかった。案内表示も見当たらなかったし、歩いて下山する人は少ないのかな?40分くらいかかるから・・
道の駅・津和野温泉「なごみの里」で入浴

風呂上りに親子丼を食べました。最近車中泊でビールが飲めてない。
ここで車中泊でもよかったが、温泉施設でもあり車がたくさん、県境で5~6分走ったところに山口県の道の駅「願成就温泉」があったのでこちらに移動した。

翌朝は曇り、松江城に向かって200キロばかりドライブだ。