11月13日(水)

朝7時、タイセイを出る。駐車場は割り引いて520円でよかった。鹿児島城(鶴丸城)は後回し、一度、南まで下って開聞岳のビュースポットへ・・これから山へ登るという福岡からきた女性と写真を撮り合い、日本最南端の駅へと向かう。

 

女性は逆光なのか、後ろ姿で撮ってほしいと・・・(係留アンカーみたいな上に乗ってます)

 

JR西大山駅、無人駅・・しかし・・(沖縄の赤嶺駅は2003年8月に開業し、それまで日本最南端であった西大山駅に代わり、2004年7月28日には「日本最南端の駅」の記念碑が設置された。)

   

 幸せを届ける黄色いポスト(指宿の代表花は菜の花)

ここから北上、指宿の砂の蒸風呂は有名だが行かない。全身の血管が膨張するので私にはリスクがあるかも?

知覧特攻隊平和館も訪れたかった。その途中「池田湖」へ立ち寄る。恐竜イッシーが子供の頃話題になり、どんなところか気になった。

 

周囲15キロ・最大水深233mの九州最大のカルデラ湖、体長1,8m・胴回り50センチの大ウナギが群生、また謎の生物「イッシー」が棲むといわれる神秘の湖

 

知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。

 私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。

 特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。

 この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設した次第であります。<HPより>

  

短い青春を懸命に行き抜き散っていった特攻隊の若者たちが「お母さん」と呼んで慕った,富屋食堂の女主人・鳥濱トメさんは、折節にこの世に現れ、人々を救う菩薩でした。石原慎太郎

パリオリンピックの後、卓球の早田ひなが特攻資料館に行きたいと言ったら中国、韓国で大炎上、早田ひなの「ウエイボー(中国のSNS)」はわずか数日で4万人ものフォロワーが消え、開設を勧めた中国人選手までフォローを外したという。「生きていることを、そして自分が卓球をこうやって当たり前にできているということは、当たり前じゃないというのを感じたい」中・韓とは永遠に分かり合えません。

  特攻勇士の像

 

勇士の像と向かい合っている母の像                                   一式戦闘機「隼」

  

初等練習機                                           特攻平和観音堂

  

三角兵舎(松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ偽装してありました。出撃前夜は、ここで壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌を歌い、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙をしたためて、出撃して征ったのです。)

 知覧高等女学校の生徒たちは特攻隊・掩護隊たちの奉仕が命じられました。

  

海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

この零戦は、昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500メートル、水深約35メートルのところに海没していたものを知覧町(当時)が昭和55年6月に引き揚げたものです。

 機体は35年間海中にあり、無残な姿ですが、往時をしのぶ姿をとどめています。機体は旧海軍の零式艦上戦闘機52丙型で、20ミリ機銃2門、13ミリ機銃3挺を装備しています。

   

知覧鎮魂の賦

 紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したもの。

館内のたくさんの特攻隊員の写真や遺書、手紙、制服、特攻服、物品などは撮影禁止だが、タブレットで説明を聞き、ビデオ視聴では涙を拭いてる人もいました。そして、皆字がきれい、一字一字精魂こめて書いたんでしょうね。靖国神社の遊就館には花嫁人形とか捧げてあったけど、特攻隊の魂は靖国神社に祀られてあるんですね。9時半入館、12時まで2時間半見学しました。特攻で亡くなったのは17歳からの若い男たち、朝鮮人も11人いた。

※ 写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品の多くは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元・第213振武隊員)が収集したものである。

その後北上して再び鹿児島市内へ・・黎明館に駐車して中に入ると、鹿児島の古代から現在までの展示館は見るものが多すぎて急ぎ足、ここで百名城スタンプを押す。

  

鹿児島城は、初代薩摩藩主島津家久(いえひさ)が、関ケ原の合戦後の慶長6(1601)年頃に築城を始め、慶長末(1615)年頃にはほぼ完成したとされています。

城の正式な名称は「鹿児島城」で「鶴丸城」の呼称は、背後の城山の形が、鶴が舞っているように見え、鶴丸山と呼ばれたことにちなむと、江戸時代後期の「三国名勝図会」に記されています。

明治をむかえ、明治2年(1869)には知政所となり、明治4年(1871)の廃藩置県で12代藩主島津忠義が去るまで、270年余り島津氏の居城として、近世鹿児島の政治の中心でした。

しかし、本丸は明治6年(1873)の火災で、二の丸は明治10年(1877)の西南戦争で共に焼失しました。

次に城山公園へ・・

ここに本丸、二の丸があったが黎明館あたりが武士がいたところ。

   

かつては、名前の通り島だったが、1914年(大正3年)の大正大噴火により、鹿児島湾東岸の大隈半島と陸続きになった。

 コンビニの駐車場にて

桜島の大部分を構成する御岳は南北に並ぶ北岳、中岳、南岳から成り、山腹に多くの側火山を配する。これらを総称して御岳(おんたけ)と呼ばれる。山裾が海まで伸びているため平地はほとんどないが、北西部と南西部の海岸沿いに比較的なだらかな斜面があり、農地として利用されている。

 

明治10年(1877年)年2月、西南戦争において鹿児島城下を出発した薩軍は、九州各地で転戦したのち、8月に解散。その後西郷隆盛の一行は九州の山間地を越えて鹿児島を目指し、9月1日、再び城下に戻り、城山に立て籠もりました。桐野利秋をはじめ私学校の幹部たちとともに、銃弾に倒れるまでの最期の5日間を過ごしたのがこの洞窟と言われています。西郷隆盛が最後まで薩軍の指揮をとっていた場所として重要な史跡です。

明治10年(1877年)9月24日、西南戦争の最終末にあたり、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始。西郷隆盛率いる薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われています。満49歳でした。

その後、道路標識にあった「蒲生の大クス」が気になり、宮崎に向かう途中に寄る。

 

蒲生八幡神社の境内に巨大なクスノキがあった。こんな大きな木を見たことがない。

  

高さ約30メートル、地上から1.3メートルの高さでの幹周は24.2メートルで、根回り33.5メートル、幹の中には広さ約13平方メートル(畳8畳分)の空洞があり、樹齢は約1500年と推定されている(平成23年(20011)現在)。昭和63年(1988)に行われた環境庁による巨樹巨木調査(昭和63年度)において日本最大の巨木と認定されている。

 空洞には入れない、

https://youtu.be/5uq3ECtChGo?si=0ECbV_HUYkeky25L

鹿児島県姶良市から都城の「かかしの里・ゆぽっぽ」で入浴、道の駅「すえよし」で車中泊