11月9日(土)
道の駅から1分で名護屋城に・・城内には入れる。
名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、国内拠点として築いた城です。わずか5か月で築城され、当時の大阪城に次ぐ規模を誇った名護屋城。
周辺には全国から参集した大名の陣屋が150以上も建てられ、人口20万人を超える城下町が出現しました。国内でこれほどの名だたる武将が一堂に会した城、陣跡はありません。

大手口(まだ昨日の日付になってる)


城内に入る前にいろいろ知るべきことがある。

名護屋には160もの大名が集ったといわれ、それぞれが丘陵を利用した陣屋を建てていたと考えられています。 現在は150あまりの陣跡が確認されている。
・豊臣秀吉 ・徳川家康 ・加藤清正 ・伊達政宗
・前田利家 ・福島正則 ・石田三成 ・黒田長政
・真田幸村 ・島津義弘 ・上杉景勝 ・直江兼続

東出丸から登城坂(大手口)を見る。

本丸から朝鮮半島方面(本丸に立つ私の影)

右は「馬場」、奥左は「弾正丸」

武将の陣跡位置のプレートがある。
9時から歴史館へ(無料)城跡入口で協力金として100円払った

この茶室が初めて史料に登場するのは、秀吉が関白となった天正13(1585)年のこと。その後、京都の御所や大坂城などで使用されています。
そして天正20(1592)年、名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会や外国使節の応接に使用しています。
博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が記した名護屋城での茶会の記録「宗湛日記」によると、茶室は三畳で、柱や敷居・鴨居や壁、障子の骨・板もすべて金、障子には赤い紋紗(紋を織り出した薄い絹布)が張られ、畳表は猩々緋(しょうじょうひ / 鮮やかな深紅色)だったと伝わっています。<資料より> ちゃんと警備員がいました。

名護屋城では秀吉が山里丸に草庵茶室を建てています。博多の豪商神屋宗湛が記した『宗湛日記』の天正20年(1592)11月17日の記述には、山里丸の茶室は柱や、そのほか壁なども竹で造られ、四畳半の広さであったことが記されています。平成9年(1997)の山里丸の発掘調査で飛石と草庵茶室と思われる掘立柱建物跡が確認されて、秀吉の茶室の発見として話題となっています。「黄金の茶室」とは、趣が違い侘びさびを感じさせる茶室です。

本丸左下の上山里丸の赤丸(見えるかな?)に茶室跡がある。

手前「安宅船」

「亀甲船」


文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。
日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であったともされる。
戦役以後、朝鮮では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まり、属国としての立場が強くなった。これは中国との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。
また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。現在でも多くの城郭跡が朝鮮半島各地に残され日本人による統治の足跡を残している。文禄・慶長の役は現在の朝鮮半島国家(朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国)における反日感情の原点とされる。<ウイキペディアより>
文禄・慶長の役をウイキペディアでみるとすごい量の記事がある。日本は秀吉の死をもって撤退したというし、朝鮮は李舜臣の活躍で勝利したというし、しかし台湾やインドのことまでも出てて奥が深い。しかし、韓国自慢のキムチは日本がもたらしたのか。
その後、唐津城へ・・
土曜日のため、早や駐車場は満杯に近い、天守からの景色は良かった。百名城ではないが(続・百名城)いい城です。





遠くに虹の松原、鏡山が見える。



唐津市も夜景がきれいな気がする。
初代城主の寺沢志摩守広高は、名護屋城普請や朝鮮進攻において、兵力輸送や食糧補給などの任務を担いました。秀吉からの信頼も厚く、
広高は岸岳城主波多三河守(はたみかわのかみ)の領地を与えられました。また、唐津城築城にあたり、
広高は松浦川と神田川の河口部分の大改修を行い、海と河口に囲まれた要害堅固な海域(平山城)として名護屋城の建材や薩摩藩・肥後藩を中心とした九州各藩の協力や
穴太衆(あのうしゅう)の石工技術を持って7カ年の歳月を費やして完成させました
続いて平戸城へ・・

平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市(肥前国松浦郡平戸)にあった日本の城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。
最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信(法印)によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされたという。平山城では唯一の山鹿流による城郭である


右は相撲場・遠くに平戸大橋



平戸城から平戸大橋を渡って一路佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」へ

ここも遺跡の周りは堀で囲まれており、百名城に数えられている。前にも来たことがあるが、周りの施設が立派になってた。閉園まではわずかしか時間がなかったが、入場料を払おうとしたが、入場受付にスタンプがあり押すだけでOKでした。


ぐるっと回るには時間がない、前にじっくり見たから今回はスタンプだけでいいでしょう。駐車場代310円ですませました。
今宵は佐賀大和温泉アマンディに泊まる。

佐賀で長崎ちゃんぽんを食べました。やっぱり具だくさんがいいですね。