コスモポリタン美人塾☆文化とアートの徒然ブログ

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国内外歴史上の人物やアーティスト、文芸作品、シネマの登場人物を取り上げ普遍的『美しい人』とは何かを探る。また海外在住歴の長い筆者の異文化コミュニケーション及び文化活動体験を通し、『コスモポリタン美人』となるためのヒントも提示。

Amebaでブログを始めよう!
こんにちは!

ライターとして活動を始めたため、なかなかこちらのブログを更新できないでおります。

本日、バスビーマガジンに、ドバイ発、❤︎アラブの香りの文化❤︎について書いた記事がupされました🌟


http://basb-magazine.jp/report/dubai/vol003.html

宜しければご覧くださいね。

ドバイでは男女問わず、皆が香水と⚫︎⚫︎を付けています。

アラブ人は、なぜこれほど香りにこだわるのか、これを読むと意外な秘密が分かりますよ!


では、良い一週間をお過ごしください。

マッサラーマ!

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第四回コスモポリタン美人塾
『ココ・シャネル、自由なき時代に
自由を手にした女性』
(その7ー最終回)

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⑥自由と孤独の間で


1)完全復活


戦後初のコレクションが大失敗に
終わったシャネル。

モード界復活の後の孤独と暗闇の中で、ようやく
意外なところから一筋の光が見えてきた。

助け舟を出したのはフランスでもイギリスでも
なく、アメリカだった。アメリカでは大戦後に自立
した女性たちが大変元気に活躍しており、シャネルの
機能的な洋服が受け入れられたのである。



”あたしは論理的な女だからり理にかなった服しか
作らない。ところが現在の服ときたら面白おかしく
グロテスクなものばかり。それでは歩けもしなければ、
走ることもできない。アメリカ人は現実主義者だから、
あたしの服を受け入れたのだ。”(※1)



アメリカの有名ファッション雑誌がこぞって
シャネルの復帰を讃え、ドラマチックな彼女の
人生を”アメリカン・ドリーム”だと大々的に
取り上げた。シャネルの服はこの時代の大衆に
受け入れられるものと言うのだった。
それに影響されて、やっとフランスの有名な
ファッション雑誌もシャネルを支持するように
なった。

シャネルはこうしてモード界に完全復活した。




2)生き方を反映したシャネル・スタイル


復活後のある時のテレビインタビューで、当時大流行
した”ミニスカート”に対して猛烈な批判を
した有名な言葉がある。


”膝は関節、見せるものではない。
誰もが15歳ではない。
それは残念だし、そしていいことだ。
女は40歳になって本当の女になりようやく着方が
わかってくるのだから。あたしは恥じらいのある
エレガンスを本当の女のために戦い、守る。”(※2)



シャネルはスカートの丈を決して上げようとはせず
あくまでもシャネル・スタイルに拘り続けた。
シンプル・イズ・ベスト。裏地に凝ったり豪華さを
『隠す』エレガンスは良いが、あからさまな見せ方は
お金をぶら下げているようだし下品だ、と。
若い頃からの周りに流されない姿勢はまだまだ
健在だった。それが社会に再び受け入れられた。

<独り言:
華美な装飾を好む文化の欧米で(いや欧米だけでなく
アジアの一部、アラブでも豪華な装飾を施した洋服や
小物が好まれることは多いですよね)
この様に引き算式で、日本の特に江戸期の感覚のような
アイデアが受け入れられたことは興味深いですよね。>



当時一世を風靡した女優のカトリーヌ・ドヌーブや
マレーネ・ディートリッヒ等が広告塔となり、
シャネルの服が世界中を駆け巡った





洋服だけでなく、ショルダーバッグ
リップスティック
ツートーンの靴もこの時に発表した
シャネル。仕事中に手で持ち運ぶと失くしそうだから
革のベルトを通してみたらショルダーバックの発想が生まれた。
プッシュアップ式のリップスティックも仕事中に
すぐにつけられて便利だから。ツートーンの靴は
つま先が黒だから沢山歩いても汚れが目立たない、
・・・と全てがこの様な感じで、働く女性・シャネル
自身の実用的なニーズで生まれた。

そう、シャネルは単なるファッションの流行ではなく
働き自立し始めた女性がより人生を楽しめるよう、
新しい女性の生き方を反映する”スタイル”を作ったのだ。





3)シャネル、最期の時


”かけがえのない人間であるためには、
人と違っていなければならない。”(※3)



シャネルの晩年は加齢もあり厳しく自己中心的な
態度で有名だった。魅力はあるがわがままな老女
などと余り良く言われなかった。
シャネル自身もそれを認めており、自分は勇敢で
忠実で働き者の女王蜂だ、少々のことで打ちひし
がれたりしない。スタッフなどにきつく当たる
のは分かっているが、人の2倍働いているから
それでも仕事がうまくまわっているのだ

言っている。

その言葉通り、シャネルは復活して17年間
休むことなく働き続けた。

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(写真は1962年7月、カンボン通りにあるシャネル本店に
仕事に向かうシャネル、また仕事中のシャネル)


ただ多くの成功者がそうであるように、
大きな成功を手にしたシャネルの心は
自由であり、また孤独でもあった。

だからシャネルは毎晩眠るのを怖がるようになった。
夜は死を連想させるからだ。やがて睡眠注射に加え、
メイドか誰かが近くにいないと眠れないようになった。




ある冬の日の日曜日。


日曜日は仕事ができないし、ひとりでいることが
多く孤独感が増すから大嫌いな曜日だった。


いつも誰かをランチに誘うことが習慣となっていた
シャネルはこの日、作家で心理学者のクロード・
ドレイとランチに出かけた。10年来の友人だった。


ランチの後は競馬場に寄り、明日は自分の店で
働いているから立ち寄りたければどうぞとの
言葉を残して、ホテルリッツの小さな部屋に
戻って行った。冬のパリもすっかり日が暮れていた。


部屋に戻ったシャネルはホテルの部屋でひとり
夕食を取り、ベッドに入るころになると急に気分が
悪くなった。

いつもの睡眠注射を打とうとしたが、
手が震えて打てなかった。
最期の時が来たことを悟った。



”ほら・・・、こんな風にして、人は死ぬのよ。”(※4)


メイドのセシルに残した最後の言葉だ。


ガブリエル・シャネル、1971年1月10日、
87歳の生涯を終えた。


ホテルリッツの簡素な部屋で、メイドと二人
きりでひっそりと死んでいった。


クローゼットにはシャネルスーツが2着だけ、
かかっていた。




4)永遠なるシャネル


3日後に行われたシャネルの葬儀には著名人が
大勢駆けつけ、偉大な女性の死を悲しんだ。
葬儀場は薔薇とともに沢山のカメリア(椿)
花で埋めつくされた。椿はシャネルが最も愛した花で、
現在でもシャネルの服や靴など多くのデザインに
椿モチーフが使われている。椿は人生で最愛の
ボーイ・カペルから送られた花だった。


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(写真はシャネルの葬儀。モデルたちがシャネルスーツで出席)


戦争の頃のスパイ騒ぎが影響しフランスでの
埋葬が拒否されてしまったため、スイスの
ローザンヌに眠ることとなった。


命を掛けて女性の自由なき時代に革命を起こした
シャネル。ファッションだけでなく、その生き方
そのものが新しい時代の女性を象徴する”スタイル”
となった。仕事に生きる、自立した女性のスタイルだ。



”仕事のために、全てを犠牲にした。恋ですらも。
仕事はあたしの命をむさぼり食った。”(※5)



それでもシャネルは幸せだったのか。
なぜ結婚の機会をあえて逃すことにしたのか。
70代で人生に再挑戦し、80代でも働き続けたのは
なぜか。


わたしは冒頭の”かけがえのない人間・・”との
言葉が多くの答えになっているように思う。


かけがえのない人間であるためには、
”ありのままの自分”では人々に受け入れられない、
シャネルはそう思ってきたのだろう。
ありのままの自分、は孤児院出の世の中で
成功する可能性がほとんどない無一文の女の子
だったから、そのままでは”かけがえのない人間”
になれないのである。
成功するには他人と異なることをしなければいけない。

成功したらそれが人生で初めての確かなもの、
こころの拠り所となり、成功した自分の姿が
ベンチマークとなった。だから結婚のチャンスが
あっても運命と自分の意思がそれを避け続け、
ココ・シャネルという自立した女性を
演じ続けた。人と違っていなければいけないから。

本当は女性としての幸せも欲しかった
”ありのままの自分”を受け入れることは
シャネルにとって、とても難しかったのだろう。
それは辛かった子供の頃の自分もあわせて受け
入れることになるからだ。

そんなこころの葛藤を持ちながら、
『孤独とともに生きること』を受け入れる
勇気があった女性
だった。

有名なジャーナリスト、フランソワーズ・
ジルーが、シャネルの追悼記事にこのような
言葉を書いている。

”シャネルは沈みゆく船の船長のように最後まで
雄々しく船橋に立っていた。”
と。


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その通り、濃密な人生を一気に駆け抜け、
時代を変えたココ・ガブリエル・シャネル。


実に、あっぱれな一生だった。


(おわり)

全7回、すべて読んで下さったみなさま、本当にありがとう!!!



参考:

※1ー※5
山口路子著『ココ・シャネルという生き方-新人物文庫』
より。

1962年7月、カンボン通りにあるシャネル本店に
仕事に向かうシャネル、仕事中の写真は下記Webサイトから
http://culture.chanel.com/en/artwork/invent4.php

その他写真は、山口路子著『ココ・シャネルという生き方-新人物文庫』
より。
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第四回コスモポリタン美人塾
『ココ・シャネル、自由なき時代に
自由を手にした女性』
(その6)

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⑤苦難に満ちた時代


シャネル、52歳。
ビジネスをスタートしてから初めて
苦境に立たされることとなる。

イリブの死により不眠症に悩まされ、
これより睡眠剤入りの注射なしでは眠れなく
なった。イタリアからの美貌の新星デザイナーが
シャネルの地位を脅かすようになり、また世界
情勢も不穏な状況になりつつあった。

フランス中でストライキが起こり、シャネルの店も
例外ではなかった。シャネルは強硬な姿勢を取り
続けたためこのストライキの対処に大変苦労し、
従業員との間に摩擦を残すこととなる。

店からお客様も離れていった。
・・・時代が変わろうとしていたのだ。



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(写真はオーガンジーのドレスのシャネル)


56歳の時に第二次世界大戦が勃発。
それと同時にシャネルは香水、アクセサリー部門
以外の店を一気に閉じた。当時3千人いた従業員は
予告なしに解雇され、これは先のストライキの復讐
だと騒がれた。



”あたしにはひとつの時代が終わるという感慨があった。
もう服を作るような時は二度と来ないと思った。”(※1)



戦時中にはナチスの報道担当として働いていた
ドイツ人青年と恋人となり、これがまた災いした。

ウェストミンスター公爵の紹介でシャネルは
イギリスのチャーチル首相と交流があったのだが、
彼に単独講和を説得する通称”帽子作戦”をシャネルが
この青年と共に実行しようとしたのであった。

結果失敗に終わったが、これはフランス国民
から売国奴と猛烈に非難されることとなった。
フランス軍からスパイ行動について尋問を
受けた際、チャーチル首相が働きかけシャネルは
すぐに釈放されたが、人々は許さなかった。
後にシャネルが永眠する時までも。

シャネル、62歳にして全てを捨てて
スイスに逃げるように移住し、
沈黙の8年を過ごすことになる。

これは事実上の亡命と言われている。




*** 70歳での再挑戦 ***


さて、スイスにてひとり64歳になったシャネルは、
ある出来事に激怒していた。自分が過去に葬り
去ったものが蘇ろうとしていたからだ。

ディオールの、”ニュールック”
女性らしいラインを強調するきゅっとしめた腰に
ふわっとしたスカート、ハイヒール。
”古い下着”と軽蔑していたコルセットのあの
スタイルがディオールにより復活したのだ。
シャネルが提案した男性に媚びないスタイルと
正反対のディオール、ニュールック。
化粧品ではエスティ・ローダーと共に
ファッションではディオールが戦後の女性
たちにロマンティックな夢を与えていたのだった。
(エスティ・ローダーについては前回のブログを
ご覧くださいね。)

相変わらず香水だけは好調に売れ続けていたが、
もうシャネルの服を覚えている人はいなかった。


しかし、ここがシャネルの底力
逆境の中でもシャネルはこのまま逃げること
より戦うことを選んだのだった。

それは実にシャネルが70歳の時だった。
今一度服を作るために、スイスからパリに帰還
したのだった。ディオールに対する怒りが
原動力となり、仕事がしたくていても立っても
いられなかった。


$コスモポリタン美人塾☆文化とアートの徒然ブログ-かむばっく前年
(写真はカムバック前年のシャネル)

シャネルの香水会社オーナーであるヴィルタイマー氏が
シャネルのモード界への復帰を歓迎し、資金援助を
申し出た。以前働いていたシャネルの店の従業員を
急いで呼び集め、カンポン通りにあった店を再オープン。
第二次大戦後初のシャネルコレクションを発表した。

このコレクションの中に、後世まで語り継がれる
あの”シャネルスーツ”も混ざっていた。


$コスモポリタン美人塾☆文化とアートの徒然ブログ-シャネルスーツ
(発表されたシャネルスーツ)


・・・結果は・・・



大失敗。

シャネルの時代は終わった、古臭いスタイルだと
フランスからもイギリスからも酷評を受けたが、
これは対独協力者としての一件を世間が忘れて
いなかった事も理由であった。元恋人で後ろ盾で
あったウェストミンスター公爵がこの年に亡く
なったため、彼の庇護もなかった。

香水会社オーナーはそれでもひたむきにただ服を作り
続けるシャネルの熱心さに心を打たれ、資金を
援助し続けた。シャネルは店が暇になれば心置きなく
試作品が作れるからかえって良いわ
、と強気だった。
孤独の中でひたすら仕事をし続けた。


”あたしにはよくわかった。
みんなが時代遅れなのだ。今にみんなもわかるときがくる。”(※2)



コスモポリタン美人塾☆文化とアートの徒然ブログ
(写真はシャネルスーツに身を包み仕事をするシャネル)


この頃のシャネルの生活はとてもシンプルだった。
ホテル・リッツの眠るためだけのような小さな部屋に
住み、そこから自分のただ一つの店を往復するだけの
毎日だった。働いている間は幸せだった。

あと何年自分が働けるか、あと何年残されているか
それだけを考えていた。

シャネルの時代は本当に終わったのだろうかー。


コスモポリタン美人塾☆文化とアートの徒然ブログ-ほてる
(写真はパリのホテル リッツ)



(最終回に続く)

長々と読んでくださって
どうもありがとう!


※1、※2
山口路子著『ココ・シャネルという生き方-新人物文庫』


シャネルスーツに身を包んだシャネルの写真は下記Webサイトから。
http://fredandgingervintage.blogspot.ae/2010/10/coco-chanel.html

ホテルリッツの写真は下記Webサイトから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/オテル・リッツ・パリ

その他は山口路子著『ココ・シャネルという生き方-新人物文庫』
より。