前回のブログの反響が非常に大きかったのか、アクセス数が急に伸びた。

タイトルがキャッチーだったのか、それとも急に志向が変わったからだろうか?


私は、あの後、呆然とした。


子供の教育だと、子供のためだと思ってやってきたことが、全て加害行為だったのでは?

と思うと、

自分の存在が、害にしか感じられなくなった。


子供への指導としてやったこと

全てを否定する必要はない。

いや、そのはずだ。

しかしそれを評価するのは

私ではない

その点も今回大きく感じたこと。


そう、評価するのは、

それを受けた子供達であり、

それを見てきた妻でもある。


ある意味その評定が、

今回の家からの追い出し...

につながっているとしたら、、、

まあそう言うことなんだろう。


自分はこの子のため、

将来恥をかかないように、

困らないようにと思っていた。


しかし受け取り側はそう感じていなかった。


なぜか?


父親が感じている社会というのは、

それほど気楽なものではない。

会社でも同期なら2.3年で差がつき、

出来なければ意図しないところへ

異動させられたり、10年もすれば、

同期なのに、役職の差も生まれる。

給与や見た目より、

心理的なダメージは非常に大きい。


社会では、

できることをするのではなく、

求められることをすること

あるいは顕在的なもののみならず

潜在的ニーズを達成することで

報酬をもらえるものだ。


少なくとも私はそう感じている。

つまり求められていないことができても

喜ばれることはない。


そしていずれ

求められること=できること

であっても、それは自分に依頼されず、

若手や他の人に依頼され、

自分はそこにいるだけのコストになる可能性だってある


学校の勉強あるいはスポーツで、

他の人に負けても

オンリーワンであればいい


そんなのは現実の世界ではあり得ない

と思っている。


ただ、ものさしが変われば、

評価されなかった人が評価されることはある。

転職やキャリアチェンジ組が最近増えたのは、

ものさしを変える取り組みでもあると思っている。


社会で活躍する。

それは競争に勝つことである。


勝てなければ、活躍したとはいえない。

もちろん勝ち負け、それだけではないだろう。

しかし多くの世界では必ずこの勝ち負けは、どこかの場面でついてくるものだ。


そんなことを私は教えていない。

当然わかってるものだと思っていた。


おそらく伝わってないのではないか?

いや知ってるだろう、、、

知ってるはずだ、、、

多分、、、


その前提がなければ、

私は単にガミガミうるさいだけの父だった。

そうならないか?


妻キコも社会に出ているとは正直言い難い。

これまでの職はほとんどアルバイトとパート。

正社員経験は3-4年のはず。

社会の厳しさをわからないのかもしれない。


それとも私だけが、

勝手に厳しいと思い込んでいるだけなのか?

あるいは、私が歩んできた道が単に厳しかっただけなのだろうか?


もし家族にこれまでの加害行為を謝罪する機会が訪れるとしたら、それは話さないと筋が通らない。

聞いて理解できるかどうかもわからないし、そこで妻キコがまた変なことを言う可能性もあるが、自分の見立てとして、もちろん異論は認めるとして、ちゃんと語らないと、自分は救われない。


しかし、

これは私の加害行為を正当化しているというのか?


社会で活躍する、認められるということがどれだけ大変か、、、それを体感すればいつかは私の言っていたことが少しは、、、

いや、その時はもう手遅れか、、、