なつこのイギリスで看護師になっちゃった(笑)日記@Liverpool

なつこのイギリスで看護師になっちゃった(笑)日記@Liverpool

イギリスはリバプールで看護師になりましたー。Holistic Healing CollegeではIntegrated Counselling Diplomaを取得。Open Awareness Dialogueラブ。そして、私にとっては禁断の領域HFエネルギーヒーリングプラクティショナー。

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スーパーヒーローデーでスパイダーマンに変身!!

 

 

魔女狩りをした魔女、

子供を守れなかった母親、

ホログラムのエネルギーを感じて会話を繰り返して分かった【私は分かっていない】。

 

いや、違うな。

【私は分かってない】というセルフイメージと日常のことをテーマにしたセルフワークで既に出会っていたし、

魔女狩りをした魔女(私)のあのそこはかとない【罪悪感】も、

我が子を守れなかった母親(私)の【次は私一人でも必ずあの子を守るんだ】という誓いも、

それぞれが別のものの顔をしたエネルギーとして既に対話をしていたんだけど、

実はここの更に下に、物凄く抑圧されていた体感があった。

この【私は分かっていない】にくっついてくるこの【混沌とした混乱】。

だってこの世界はこんなに【理不尽】。

 

この感じを体全体に広げると、

おびただしい数の肌の浅黒い人たちが、塀のように積み上げられている映像が。

奴隷だ。

死んでる、この人たち。

『自分たちは人間として生まれてきたのに、家畜と同じだった』と嘆きながら天に昇天してきます。

でも、奴隷としてまた生まれ変わってくるのだと決めてもいます。

足を鎖でつながれて重いものを連なって運んでいる彼ら。

ただ地面を見つめて、

ただ前に進んでいきます。

苦しいとか、悲しいとかももう感じない、

感じないように心を硬く貝のように閉じることに決めたら、

もう今は何も感じない。

The 絶望の世界。

 

でも分かってるんです。

実は自分で足かせを外せること。

外してみることにした人もいました。

でも逃げ出すこともなく、ただきょろきょろしています。

 

そうしたら今まで真っ暗だった砂漠の空が、実は太陽のようにめらめらになっていることに気づきました。

みなでそっちに行ってみます。

『そっちに行ったってまたここと同じ暗闇に決まってる』と言ってみたり、

無言だけど、躊躇している人がほぼ全員。

でも、行ってみようよ、と促すと、

いつの間にか炎のトンネルのようになったあのめらめらの中を皆歩き始めます。

一番最後にいた赤ちゃんを抱いた女性も、やっとそのトンネルに気づいて、あかちゃんも目を開けてその熱を感じているようです。

私は皆を援護するようにトンネルを抜けると、

そこは緑豊かな、ジャングルのようなオアシスで、

最初はその光景をただ茫然と眺めていたみんなも、

ひとりふたりとその中にかけて消えてゆきました。

 

炎のトンネルが、The 絶望の世界を燃やし尽くそうとしているかのように思えました。

でも、よーく目を凝らしてみてみると、とっても小さな黒い点として、今もそこにあることが分かります。

あの全てを飲み込んでしまいそうだった暗黒の世界が、点。

でも、あの中にはやっぱり、次も奴隷として生まれ変わることにした命たちがくるくると転生を続けているのが分かります。

もう一度、あの世界が、点、に見えるくらいのところまで戻ってくると、

えっ!?

オアシスのジャングルのこの世界には無数の黒い点が。

っていうか、このサンクチュアリーそのものが、黒の点でできてる。

否、色も黒だけじゃない。

そのどれもが、苦しみが、なんか凄くいい。

生き生きしている。

あの黒い点までもが、生命の営みをみなぎらせている。

 

嗚呼、こういうことだったんだ。



nurseryからpre-schoolに移った初日、お迎えの車の中ですやすや。

若干3歳でお昼寝がなくなるんだってー(驚)
 

 

 

 

今日はまだうまくかみ砕けていないことを言語化する試みをば(笑)
 
集合的無意識ってどんな感じなんだろうって思ってたんです。エックハルトトールさんのニューアースでは、ペインボディーとも言うそうで...
 
とある講座では【生命の誕生は意識の継承】とも説明されていて、つかめるようでつかめない感じ...
 
最近のセルフワークは、入り口は違うのに同じところにたどり着くものが多数。
 
【私は分かっていない】
 
そう。
【分かっていない】から、やっと退職を迎えてこれから奥さんと二人での第二の人生を夢見た矢先の肺がん宣告に、胸水を引きながら促迫な呼吸で『伊佐さん、人生って何なんだろうね...』のつぶやきに、

【分かっていない】から、藁をつかむ思いで選んだ『看護』という道が『看護学』としてはまだまだ未熟であることに気づいたあの時、
【分かっていない】から、『えー、なっちゃん、○○ちゃんにそんなこと言ったのー?次から人に自分の意見言う前にちゃんと私に相談して!』って言われて、
【分かっていない】から、お友達から急に口を聞いてもらえなくなって、
 
私は、悲しかった?ううん、物凄く、混乱したんだ。
苦しいとか、悲しいとかを超越した【混乱】。
どんなに一生懸命やっても、思考を凝らしても、思いを巡らせても、相手の立場に立っても、知識を増やしても、ダメ。
やっぱりダメなんだ。
どうしたらいいの?
 
どうすればこの世の心理が分かるようになるんだろう?
この私の中の混沌とした混乱を、終わらせることができるんだろう。
 
私は魔女で、狩ったり狩られたり。
私も実は魔女だったけど、それを隠して仲間の魔女の体に傷を入れた時、
私はそうしたくなかった。
最悪だった。
でもそうしないと私も殺された。
本当は自分を殺めた方が良かったのかもしれない。
でもなんで、でもなんで、こんな理不尽なことが、この世の中には起こっているの?
 
私は障害のある子を産み落として、あの子は村人たちに連れ去られて殺されてしまったけど、本当に悲しいのは、私が何もしなかったこと。村人の足にかじりつけば良かったし、こっそりあの子と別の村に逃げることだってできたじゃん。私にはあの子と生きていく道だってあったんじゃん。私は一体何を、何てことをしてしまったんだろう。
でもなんで、なんでこんなことが、この世の中には起こっているの?
 
だって、あっちにいっても、こっちにいても、苦しい。
どこにいけば、どこにいればいいのか、全然分からない。
 
【分かっている状態】への渇望。
そうすればこの理不尽に、この混乱に終止符を打てる。
 
私は分かってないから、この分からない世の中に、秩序と枠組みを持たせることのできる何か、を、探して、どうにか【分かっている状態】になれることを願って、看護他、いろんなモダリティーを、これだったらどう?私、分かった感じになれる?これがこの世の心理?ってやってきたんだ。
 
誤解を招くかもしれないことを承知で書くとすれば、あの、爆弾のたくさんついたジャケットを着て、人の群れに突き進みながら自爆する人たちの、
宗教に傾倒する人たちの、
【混乱】

【渇望】
が手に取るように分かる。
 
これが集合的無意識で、ペインボディーで、人類の苦しみなのだそう。
 
伊佐奈津子としての今回の私の生で出来上がったわけではない自己像や、過去生としての私も経験していない思いをも共有していることが感じられた時、
 
【生命の誕生は意識の継承】
 
が腑に落ちる。

この集合無意識は確かに私に継承されてる。

でも、

何のために?


アップルパイにあったかいカスタード、サイコー!

これが夏でも楽しめるのは、夏でも肌寒いイギリスだから!?(自分を慰める私 笑)



ひょえぇぇぇぇ、最後にブログ更新してからこんなに時間が経ってる...1週間に1回更新を目指していたのですよ、密かに。あらら。
 
昨日ふと思ったんです。そう言えば昔々ブログにも書いたのですが、感情と思考、どっちが先?というお話。その時は、思考があるから感情を生むんです!とした記憶があります。感情を何か自分のコントロール外の生き物のように恐れている方々に向けて、感情を生んでいるのは『魔物』ではなくて、誰でもない自分なのですよ、感情は自分のコントロール下、だから大丈夫、と伝えたかった。OADの気づきの問いかけで探すのは、私たちの状況への、解釈、で、そこには解釈を支えている思いがやっぱりあるわけです。じゃぁ感情ってどの段階で生まれるのか...?
 
我らが師である溝口あゆかさんのロンドンカウンセリングコースを受講したのが2011年。その翌年に開催された復習会でのこと。確かあゆかさん、こんな話をしていたんです。
 
私たちは思考が走る前に既に行動している、ということが物理学的に証明されていている、と。
じゃぁ一体感情はどの段階に関与しているのでしょう?
 
私自身も、特に過去生からくる自己像や信念は、『私』の思考を一切介していないのに、そこにものすごく強い感情と体感覚がくっついてきます。逆説的に言うと、どうしてこんなことが可能なんでしょう?

話が少し遠回りになりますが、マトリックスリインプリンティング(以下MR)では、経験された感情や感覚がちゃんと『感じられた=Felt』の状態にならない時、個人の意識全体であるローカルフィールドに凍りついてとどまります。本来エネルギーである感情が、そのエネルギーたる所以である性質、変化し続ける、をやめてしまいます。例えその感情、感覚そのものや、それを引き起こした出来事を覚えてしないとしても、そのフィールドには残り続けるのです。

 

更に話が回りくどくなりますが、マトリックスとは、個人の意識全体であるローカルフィールドも包含した、意識(気づいている意識、純粋意識、集合無意識、空、いろんな呼び方があるようです)のことで、私たちは本当はその意識そのものだ、というのがノンジュアリティーの立場です。

 

話がやっと戻ってきますが、そう、ふと思ったんです。もし仮に、ローカルフィールドにも、マトリックスにも、そういうUnfeltの状態の感情や感覚が張り付いているとすると、それは『なつこ』としての『私』が体験したものだけではないのではないか?いや、『なつこ』としての『私』が体験したものだけのはずがないんです。

 

私が過去生と呼ぶものも、もしかしたら私のローカルフィールド貼りついたものだけではなくて、マトリックスにとどまっているものなのかもしれない。あれ、そう考えると、そもそも、ローカルフィールドとマトリックスの境ってどこなんだろう?

あゆかさんのブログで身の毛がよだつほど興奮してしまった記事(是非全文を読んでみて下さいね)の抜粋です。

 

  エックハルト・トーレのいう人類のペインボディやユングの集合意識のように、

人類の記憶、感情、思いなどが情報として貯蓄されている。

そしてまた、個人のローカルフィールドというものがあり、

そこにその人固有の記憶、感情、思いなどが保存されていて、

脳はそこへアクセスしたり、受信したりしている・・・ということです。

(そして、実は脳だけではなく、心臓も by Heartmath Institute)

 

もし本当にそうだったら(心の中ではもうそうに決まってる!って言ってますが 笑)、もし本当に、脳ありきではなくて、脳や心臓が受信機だとしたら、『なつこである私』は『気づいている意識としての私』の中のUnfeltの何かを受信しているのですね。でも本当のところ、『なつこである私』なんて存在しない訳なんです。

 

どこでだったか覚えていないのですが、私たちの脳は、フルにその能力を発揮するためには原子力発電所4機分のエネルギーがコンスタントに必要だと聞いたことがあります。その時には、人間の食べる、という行動からはそんなにたくさんのエネルギー供給ができるはずもなく、だから脳は常に省エネモードで、私たちは見ているものを見えていると認識しなかったり、聞こえたことを記憶していなかったりしているんですよー、というお話でした。

 

でも、そしたら何でそんないつも省エネでしか動かないものが、今もフルポテンシャルを備えたまま私たちの体の一部として存在しているんだろう?

 

これもあゆかさんの同じ記事からの抜粋です。

 

“素粒子を振動させ、この最も微小な素粒子で太陽系を成り立たせているフォースから、

すべての物質は誕生し、存在している。

このフォースの背景に、ある知性的なマインドの存在があると推測しないわけにはいかない。

このマインドこそがすべてのものをつなぐマトリックスなのである。”

 

ここから先は完全に私の憶測です。すべての物質の最小単位の素粒子を振動させてエネルギーが生まれる訳ですが、たぶん恐らく、このマトリックスの中に停滞しているものも、人類の記憶も含んでいるくらいなので、膨大なエネルギーですよね。それを受信できるためにはやっぱり原子力発電所4機分(では足りないくらいの)ポテンシャルが必要なのではないかと。脳がそもそも純粋意識集合無意識そのものを受信するために私たちの体に備わっているのだとしたら...あぁぁ、私はわくわくが止まらないー♪



むかーし弟の着ていた浴衣を七夕に合わせて
 

このブログをどういう趣旨で書くか、そう言えばちゃんと考えたことなかったのですが、気が付けば、私自身の旅をシェアする場になっていますねー。本当は、もう少し抽象的な、骨子、大枠、みたいな話を書きたいのに、何でだろう?そういえば私は昔から、具体の示されない抽象的な理論、のようなものから、実際を想像するのが苦手でした。なので、これがみなさまをもっとおっきな所にお連れするための私なりの最善のやり方なのねー。なるほど。
 
こんな流れでこれからも行くんだろうなーと思うと、やっぱりこれはお伝えしておかなければ。私が知らなかった私の中のエネルギーと繋がった話。
 
繋がったエネルギーが強力すぎて、どうやってセッションがスタートしたかも、途中経過も断片的にしか思い出せないのですが、確か、セッションの途中で感じた【ひとりぼっち】の感じが、小学生くらいと思われる私(ECHO)が、日の当たる校庭で走り回る友人たちを塀の脇の日の陰ったところで遠くから見つめている感じに再現された辺りから始まったのだと思います。
 
あっちの明るい所に行きたい
でも、ここの方が安心
でも、ここにいる私がオッケーな感じでもなくて、
でも、ここの方が安全だからあっちには行かない
 
そんな感じ。確かこのECHOにTune-inして『何がないから向こうにいけないんだろう?』と対話を始めたのだったと思うのですが、言葉で表現できない。セラピストの誘導で、向こうに行けない感じはどんな感じなのかをイメージで尋ねられたその時...
 
ガラスのような大きな箱が見えました。人が入るくらいの箱です。何だろう?気が付くと、人が横たわっています。見つめると...口には猿轡をかまされて、両腕両足が切断されている。よく見ると、辺り一面が血の海。
 
これ、私だ。
そして、私が拷問した人(若しくはそれを傍観した人)だ。
 
はっきりとそう感じられたことに自分でもたじたじになりながら、まずは、拷問をされた側ではなくて、した側のエネルギーと大きくつながりました。物凄い罪悪感。拷問することが道理として認められていた時代のようです。でも、私の中にはこんなやり方はいけないという確信がありました。でも、やったんです。目の前のこの人を助けることができない無力感。あふれだす涙と共に繰り返されたのは謝罪の言葉。こんな私は許されてはいけない。

もちろん、セッションではセラピーを通してこれと対話を繰り返して、ECHOは最終的に光を見つけたのですが、このエネルギー、意外にも私のやめたくてもやめられなかったある行動の根源だったのでした。そのお話は次でね。


 

息子くん、ウインクの練習されてます。両目が等しく閉じられています、はい。

 

注)お手本は絵本のフクロウ

 

 


どこに書いたか忘れてしまったのですが(リンクを貼ろうと思ったのですが、どの記事に書いたかが分からず迷子です 笑)、私、いろーんなことが職場であって、相方にもそんなこんなでいろんな感情がうごめいていて、ある日、息子の手が髪の毛に引っかかって、結果私の髪の毛を引っ張る形になってしまった時に、ぷちっと切れたんです、何かが。で、おしっこで重たいおむつを思いっきり宙に投げつけました(本当は最初に手元にあった紙を投げたのですが、もちろん、はらはらと宙に揺れて何の手応えなし。で、おむつに持ち替え、一応正気な私は誰にも当たらないところを選んでフルスローした訳であります。因みに、念のためお伝えしておくと、私、こんな風になったの初めてでした)。この時、心の中で叫んでました。
 
『あなたまで私をバカにするの!!!???
私を何だと思ってるのーーーーー!!!!』
 
自分でも、『えっ!?私こんなこと思ってるの?』と感じたと同時に、職場で大変だった理由が、自分が同僚/アシスタントに利用されている/尊重されていないと感じていたためだということが、ぼんっと出てきました。
 
そうなんです、【私は利用される】、【私は尊重されない】って思って生きていたことに気づいていなかったんです。この眼鏡で見ると、今まで相方とのことで超イラッとしていたことも、これが外れるとちっちゃいイラッ、に変わるみたい。
 
例えばこんなことがありました。相方が、『It's very nice feeling him against my skin』と息子を抱きしめているのを見て、私、どう思ったと思います?物凄くイラッとしたんです。息子のことを想って抱きしめているんじゃなくて、自分が気持ちよくなるために息子を抱いていることがもう、ほぼ怒り、っだったんです。もちろん伏線はあって、息子がDaddy, daddyと遊んで欲しそうにしている時には自分は携帯をいじってたりしてそのことにも気づいていない。だから尚更、私の中で、『相方は息子のために』ではなく、『自分のために(気持ちよくなるために)』、息子を使った/利用した、という解釈が、強固なものになって、腹が立っていることが分かりました。
 
他には、息子を自分の都合のいいように操ろうとする(もちろん、これそのものが私の投影ですが 笑)と、無性に腹が立ちました。食事中にテレビを観たいという息子に『じゃぁ、夕飯なしね』と取り上げる。椅子に座らないなら、○○なし。自分の言うことを聞かせるために何かを取り上げる、というアプローチが物凄く嫌でした。何がそんなに嫌だったのか。息子が彼の思いを説明する機会を与えられなかったこと、でした。2歳でも、ちゃんと彼なりに説明できるんです。父である存在に尊重してもらえない息子の思い。私の中に【親は子どもの話をちゃんと聞くべき】という深い思いも浮き彫りになりました。
 
こんな風に一事が万事、相方のすることにビンビン反応している状態で生活を続けていると、どんなに愛の言葉を尽くされても、表面上の行動が改善されても(洗濯をするとか、お皿を洗うとか)、相方とっくっつきたい感じには全く以ってならない訳です。なのでまさか、求められる、ということになると、『私がこんなに大変な時』に『私の身体を利用しようとしている』相方に、物凄い嫌悪感しかなくなってしまったのでした。